第四五課 賞める・叱る
他に対し、賞めるべきか叱るべきかは、その相手により、場合により、事情により決定されるものであります。
この賞める方を仏教では摂受門しょうじゅもんと言って、養い育てる方法です。例えば朝寝坊の青年に向っても、無暗と朝寝を叱らずに、
「随分よく睡眠を取ったね。感心感心。これでは今日の昼は、さぞ勉強が出来るでしょう」
そう言って、勉強に精出させるのです。しかし、こう言われてますます朝寝を増長させなお勉強もしないようでは、その青年にこの摂受門は適当しません。叱った方がよいのです。
叱る方は仏教で折伏門しゃくぶくもんと言って、悪いところを除き捨てる方法です。朝起きの青年に向っても、その朝起きを賞めないで、
「朝起きしたって、ただぶらぶらしていたのでは何にもならない。まだ寝ていた方が邪魔でないだけましだ」
などとひどく言いまして、青年を発奮させなお一層働き出させるように導くのです。こう言われてすっかり意気銷沈してしまったり、却ってひねくれて、仕事を始めぬのみか、再び寝床へもぐるような者に対してはこの折伏門は害があります。
一つの手にもこの二門が備わっております。掌を伸ばして撫でるのは摂受門、握って打つのが折伏門です。
どっちにしても大事なことは、内心、相手を末は善かれと思う親切心を持つことです。
この二門は他に向ってばかりでなく、自分が自心に向っても常に働かせる有効な二方法であります。反省するときは折伏門よく、気を取り直すときは摂受門です。
仏、菩薩では、不動明王ふどうみょうおうは煩悩を智の利剣で斬り伏せる折伏門係り、観世音かんぜおんは慈悲で智慧を育て上げる摂受門係りであります。
(摂受とは衆生の迷いを受け入れた上で次第に導いて行く方法。折伏は、衆生の迷いを打ち砕き導く方法です。「勝鬘師子吼一乘大方便方廣經、十大受章」でお釈迦様から授記された勝鬘夫人が「・・世尊。我れ今日より菩提にいたるまで己が為に四攝法を行ぜず。一切衆生の為の故に、無愛染心、無厭足、無罣礙心をもって衆生を攝受せん(救い取る)。・・・世尊よ我れ得力の時に、彼彼の處において此の衆生を見ては、應に折伏すべきものは之を折伏し、應に攝受すべきものは之を攝受せん。何を以ての故に。折伏・攝受をもっての故に法をして久住せしむればなり。」といいます。佛法を永遠に伝えるために誉めるものには誉め、叱る者には叱るということです。摩訶止観には「夫れ仏に両説あり、一には摂、二には折なり。(法華経)安楽行に長短を称せずといふが如きは是これ摂の義なり、大経(涅槃経)に刀杖を執持じせよ乃至首を斬れといふは是折の義なり」としています。しかし摂受・折伏は所詮衆生済度の手段であることにおいて同一であり、いずれも大慈悲からでているものです。ときどき「折伏」という言葉を聞きますが、我々レベルでいうことは僭越至極と思っています。)