福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

四国八十八所の霊験・・・22

2018-10-22 | 四国八十八所の霊験

27番神峰寺の霊験と成功者の信仰
26番から27番神峰寺は34kmあります。歩くと9時間はかかるといわれています。大体途中バスに乗ってします。麓の遍路宿に泊まり朝早く27番神峰寺にのぼります。朝はご住職みずから納経してくださると遍路宿でききましたがそのとおりで、朝早く行くとご住職がおられ、自ら納経していただきました。
 ここは神功皇后が三韓征伐の戦勝を祈願して、天照大神を祀った社として創建され、後に行基菩薩が十一面観音菩薩を刻んで本尊とし、大同4年(809)、弘法大師が聖武天皇(在位724~749)の勅命を奉じて伽藍を建立し、第27番札所として定められたとのことです。
山内の碑に「ありがたや八十八の霊蹟を大師は今もめぐりまします」とありました。
 四国遍路はお大師様にめぐり合いたいと思い遍路をしているのです。
この碑を見て多くの遍路が勇気つけられます。
私もこの句を多くの遍路宿の記帳で書き込みました。
ここは昭和31年名古屋の水谷夫妻に奇跡が起こり、参道で婦人しず氏が転倒したときに脊髄カリエスが治ったところです。また鍵田忠三郎元奈良市長も昭和57年1月25日の高野山時報に投稿して「30代で心臓、膵臓等複合した病に冒され二か月のいのちと宣告された。どうせ助からないと思っていたが奈良大安寺の河野貫主にすすめられ四国遍路に出た。・・27番神峰寺の坂道で苦しくて休んだ。意識がスーと暗い闇の中に入っていきこれで死ねると思った。その時、暗闇のなかでごうごうと音を立ててピカッと光る『いのち』の大きな流れをみた。このいのちの流れにすべてをまかせようと思ったとき正気に戻り、一度に心身が蘇った。その後病は回復した。・・」と書いています。いのちの流れということに関しては柳沢桂子柳沢桂子氏も「癒されて生きる」に「病床で神秘体験をした。なにかおおきなものにすっぽりと包まれているのを感じました。・・私は一人で苦しみ必要もないと確信しました。」と書いています。こうしてみると「いのちのながれ」という大きなものがある事がわかります。
 ここは岩谷弥太郎の母が子供の大成を祈って、自宅から20キロの道のりを日参した霊場でもあります。弥太郎は成功した後に27番神峰寺に広大な山林を寄進しているそうです。
そういえば偉人の母はみな信心深かったのです。母の力は古今東西を問わず偉大です。そもそも大国主命は母の力で蘇りますし、古列女傳には孟母三遷の故事もでています。加藤清正の母は熱心な日蓮信者であり、この影響で清正は25歳の時難波に本妙寺等を建立して父の菩提を弔い、その他京都本圀寺、江戸の池上本門寺、熱田神宮等におおくの寄進をしています。瑩山禅師の母懐観大師も十一面観音様に毎日祈願して「観音経」を読誦したおかげで三十七才にして瑩山禅師を生んでいます。野口英世の母「しか」は、幼少時に観音様に祈って家出した両親が帰ってきたという霊験により熱心な観音信者となり、産婆としても「お産のときは必ず観音様にお祈りしながらやんのやっし、そうしっと観音様がお力を貸してくれらんのっし」といっており、取り上げた二千人はすべて安産だったといいます。「しか」は地元の中田観音を信仰しており、英世も後年帰国したときに母とこの中田観音に参拝しました。
 リンカーンの母は「どんな金持ちや身分の高いものになるよりも聖書を読むことの好きな人間になりなさい」と遺言したということです。ラ・マルチーヌの母は熱心なクリスチャンで外出時には必ず貧しい人への喜捨のため葡萄酒やパンを携えていったと云います。マザーテレサの母は貧しい母子家庭ながら身寄りのない病人を引き取って面倒を見る位信仰深い人で、十八才のテレサが修道女としてインドで働くことを決意したとき障害の別れに際し「神の手に委ねなさい。神と共に歩みなさい。」といって送り出したと云います。高群逸枝の「お遍路」にも「母は長女を流産させた後、地元築後の清水観音に願掛けして一月十八日の観音様の日に私を授かった」「・・私は時々死ぬほどの大病をすることがあった。その都度母は清水観音を念じて翌日にはケロッと治る。この経験が母の信仰を不動のものにしていたのは疑いない。・・」等と書かれています。岡本かの子も熱心な観音信者で、昭和十二年松坂屋の展覧会に観音経普門品を書き上げて出品したり、多くの仏教書籍を出版しています。小澤征爾の母さくらはテレビのない家で夕食の後は必ず讃美歌を子供たちに歌って聞かせこれが後の征爾を作ったとされます。

こういうふうに見てくると母の役目の偉大さに驚かされます。安岡正篤も「運命を創る」の中で、武士の娘・妻の躾の力が徳川三百年を保ち、尚且つ明治日本の建設に非常に貢献した、と言っています。

ここ神峯寺はいついっても有難い霊場です。二〇年のときは六時ころ遍路宿「きんしょう」をでると満月の下、一面の水田の蛙がいっせいにケロケロと大合唱して不思議な気持ちになりました。

澄禅「四国遍路日記」には「神峯寺、本堂三間四面、本尊十一面観音なり。とう峯より下、二寺は麓にあり、無礼の僧なり。」とあります。江戸時代は神峯神社の本殿を観音寺といい、養心庵という寺も麓にあったと云いますからこれらを二寺と云ったと思われます。また「僧が無礼」と書いていますが、わたしが夏にお参りしたときはこっそり西瓜をいただきました。
神峯寺は前回のべたように大変な霊場ですから、心掛の悪い人は参道で杖が折れたりする戒めがあるといつも泊まる遍路宿「きんしょう」の女将さんが教えてくれました。わたしも初めての17年は緊張して登ったのですが幸い杖も折れずに参拝できました。

ここの民宿があるところは唐の浜といいますが「食わず芋」伝説があります。真念「四国徧礼功徳記」では「土佐の安喜郡の神峰寺の麓の唐の浜というところに漁師がいた。そのむかし漁師が貝をとるところをみて遍礼が乞うたが「食われません」といってやらなかったところ貝はみな石となった。漁師も周りの人も驚き信心をおこしたという。其処を貝石谷といい今も貝が多くある。」と書いています。今迄の遍路で貝は見かけませんでした。今もあるのでしょうか。
 「国家の品格」で数学者藤原正彦氏は宗教心の厚い、品格のある国が栄えると喝破しました。
ドラッカーは「経営者は、学習して身につけることはむつかしいがどうしても持っていなければならないものがある、それは品格である」といいました。「実業読本」で武藤三治は「品性・・・私は会社の従業員にはスマイル博士の「品性論」を与え、品性を磨くよう奨励している。品性は人生において最も大切なものであって,・・富の力よりも品性の及ぼす感化が一層社会の円満なる向上発展に貢献するものである。・・ドイツが(第一次大戦を引き起こし敗れたのは、ドイツ人の品性が粗豪驕慢で)全くドイツ国民の品性の低きがためであった。・・、しからざるものは衰亡の運命を免れぬ。・・」と書いています。

具体例をあげておきます。住友財閥の創始者は涅槃宗僧侶の住友正友です。旨意書「浮利に趨り軽進すべからず」は有名です。 昔は住友財閥の理事には座禅をやってなければなれませんでした。大阪茶臼山の住友本家には禅堂があったということです。最近でも住友金属元社長田中外次は一橋大の座禅会如意団の出、住友生命横山進一社長は40年以上朝晩1時間座禅を組んでいると新聞に紹介されています。
また三井財閥の創始者三井高利は「現銀掛け値なし」という新商法を掲げ、呉服の価格を下げ、また、呉服は反物単位で売るという当時の常識を覆し、切り売りをして大成功しましたがこれは母親の厚い信仰心によっています。客は皆佛性をもっており同じように尊いのだから相手により商いを変えてはならないという母親の考えから出た商法です。
 近江商人は浄土真宗によって育まれたとされます。西川産業・西川家の「年中諸事控」には、毎年二月八日には先祖の法要を行うとされ、奉公人も六割以上が真宗の信者であったとされます。同じく松居遊見は農業、生糸・麻布等の行商で巨万の富を築いた十八世紀の近江商人ですが、「近江神崎郡志稿」に「東本願寺の徳龍に帰依し、常に法話を聞き随喜したといふ・・遊見は仏教信者で其の信念は極めて堅固であった。・・朝夕の看経に正信偈を、一度の読み上げでは読み足らぬとて二度の三度も繰り返したことがあり、昼でも夜でも念仏を唱え所謂行住坐臥時と所を嫌わずの様であった。或る鼠賊が告白した口述中に,曽てこの家に入ろうと毎夜あたりに忍び窺うにいつも念仏声がして遂に這入られなかったということであった。」とあります。伊藤忠兵衛は伊藤忠と丸紅の祖ですが、福岡萬行寺の七里恒順和上に絶対帰依し、常に教えを乞いに出かけたということです。そして忠兵衛は、全ての店員に正信偈和讃と珠数を持たせ、毎朝店の仏前に正信偈を読誦し、店員を連れて津村別院に参拝し、店では毎月法話会を開催していたといいます。蓮如上人を慕う酬徳会を設立してもいます。また忠兵衛の座右の銘は「商売は菩薩の業、商売道の尊さは売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの」というものであったそうです。(「伊藤忠商事百年」、等)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 四国八十八所の霊験・・・そ... | トップ | 禅を聞く会予定等 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

四国八十八所の霊験」カテゴリの最新記事