観自在菩薩冥應集、連體。巻1/6・8/15
八、河内国藤井寺千手観音の事。
藤井寺は剛琳寺と名く(現在の葛井寺)。𦾔記を考ふるに聖武天皇の御建立なり。本尊千手観音は座像五尺二寸(159㎝)長谷寺の御衣木(みそぎ。神仏の像を作るのに用いる木材。)と同木にて同じく稽文會、稽主勳(奈良時代の仏師。長谷寺の観音様も作)が作、行基菩薩開眼供養し玉ふといへり。其の後平城天皇の勅願にて阿保新皇(平城天皇第一皇子。在原行平・在原業平の父)の再興なり。葛木の演技には葛井寺は葛城の西門金峯金剛の両山の肝心天満天神影向の霊場なりといへり。昔より六十八部の法華経を奉納するもの河内にては必ず葛井寺に納むといへり。然るに後土御門院の御宇、應仁の比(15世紀後半)より諸国大に乱れて神社仏閣秘書霊像悉く兵火にかかりて焼失す。剛琳寺も明應二年(1493年)に楼門中門三重塔六十六部奉納の所、鎮守の社並びに業平朝臣建立の奥院等まで悉く焼失すといへども本堂と塔一基とは不思議に残りて諸人大いに悦べり。然るに永正七年(1510年)八月八日の暁、大地震に依りて残れる伽藍寺院皆顛倒しぬ。されども本尊は少しも損じ玉はざれば、諸人奇特の思をなして倍す信心を起こし、十方の有信を勧めて伽藍を再興せりとかや。或説に、昔安基といふ者あり、心極て邪見にして因果を知らず。逆罪をも恐れざりけり。或時河内国平石村に来て鹿を追ひ射殺し、山中の堂に入りて古き佛像を折りて鹿を煮て食ひ、人にも食わせたり。其の比、長谷の観音堂の回禄(焼亡)せしかば堂建立の為に材木を引くに、彼の賀留の里人をも勧めて引せけるままに安基も信心はなけれども在家の公事なれば木を曳きて寺に入り纔に結縁をぞ致しける。或時安基俄かに病んで死しぬ。妻子是を歎きて三日が間葬送せざりければ漸くに甦生る。妻子親族集まりて大に喜びさて比日のことは如何ありつるぞと問ふに、安基涙を流して語らく、我死して漫々たる暗き處を飛行する事矢を射るが如し、肝魂も身に添ず火焔来たりて身を焼き熱き事限り無し。今や地獄に落つると悲しみけるに、既に地獄の門に近付て見れば百千丈の火焔上がり、罪人の號叫聲夥しければ彌よ悲しく思ふ事喩を取るに物なし。時に童子一人忽然として来玉ひ我地獄に堕せんとするところを手を取りて引返し共に閻魔王宮に至りて宣はく、安基が罪を赦して我にあたへ玉へと。時に大王記録を勘へて曰く、此の者は伽藍の中にして殺生し剰へ古佛の像を摧き破り焼きて鹿を煮て自らも食ひ人にも噉はしむ。逆罪阿鼻地獄に堕せしむべし。遁るべきに非ずと。時に童子重ねて宣はく、設ひ罪人なりと云とも一年長谷寺の回禄せし時、御堂造営の材木を曳運んで長谷寺に入来り結縁せし者なり。速かに閻浮に返し玉へとさまざまに乞ひ玉ふ。時に閻魔王坐より降りて我を禮して我を免して娑婆に還すと宣ふに甦れりと。大に喜んで涙を流し其の後出家して罪障を懺悔し、一生長谷寺の観音に奉仕し、又剛琳寺の千手観音の形像は長谷寺の観音と同木同作なるが故に、後には剛琳寺に来たり住して一宇を建立しける。故に藤井寺と号すとかや。長谷に藤井坊と云ふあるは安基が坊かおぼつかなし。彼の唐の魯郡の孤女は麦田の中より観音の朽像を拾得て日夜供養せし故に火車地獄の苦患を脱れたると。和漢域異れども大悲利物の神変一同なるものなり。稽文會、稽主勳は兄弟にて同く佛師なり。河内国春日の郡の人なるが故に春日の作と云ふ。然るを後人、春日と云ふは佛工なる事を知らずして直に春日明神と心得たるは誤りなり。又阿保新王と云は、在原業平朝臣の御父にて平城天皇の皇子なり。丹北の郡(松原市)に其の陵墓あり。