25番津照寺は24番最御崎寺から海岸沿いを六㌔ほどいった町中の小高い山の山上です。何回目の時か忘れましたが人っ子一人見当たらないさみしい漁師町をファッション雑誌から抜け出てきたような婦人が歩いていて一瞬東京にいるのかと錯覚したことがありました。遍路道では時々不思議なことがあります。
ここは参道右に大師堂と納経所があり、本堂へはなおも百八の急な石段を登ります。ご本尊は大同二年、弘法大師が巡錫されたときに刻まれた延命地蔵菩薩。秘仏で拝観はできません。海上安全と火難除けの霊験あらたかといわれます。慶長六年十月、領主の山内忠義は室戸岬を航行中、突然暴風に襲われましたが不思議な大僧があらわれて船の楫をとり、全員無事に室戸港へ避難させたとのことです。その僧は25番津照寺の本堂の中へ入ったのでご本尊を拝したら、全身びしょぬれであったといいます。それ以来御本尊は揖取地蔵とよばれ、多くの船人から信仰されるようになったとのことです。また、寛保二年の大火の時も、このご本尊が僧の姿となって、人々を避難させたといわれます。ありがたいことです。地蔵菩薩本願経には、二十八種利益(天龍護念・善果日増・集聖上因・菩提不退・衣食豊足・疾疫不臨・離水火災・無盗賊厄・人見欽敬・神鬼助持・女転男身・為王臣女・端正相好・多生天上・或為帝王・宿智命通・有求皆従・眷属歓楽・諸横消滅・業道永除・去処盡通・夜夢安楽・先亡離苦・宿福受生・諸聖讃歎・聰明利根・饒慈愍心・畢竟成佛)が説かれています。わたしも護国寺の一言地蔵様にお願いして継母との50年来の不仲が解消しています。その他大塚公園のお地蔵様にも孫の子育てのお陰を頂いています。
ここ24番最御崎寺はいつきてもなぜか親しみを感じる寺です。石段をのぼりつめた本堂からは港が一望できます。法性法親王四国霊場御巡行記にも「津寺の景色妙にして・・」とあります。当時から景色は有名だったと思われます。
17年にはここ本堂で坐して一人お経を上げていると長らく連絡がなかった大学時代以来の親友から電話がかかってました。
このあたりは室戸津といい観音講式によると阿波の国の賀登上人が長保2(1000)年南方めざして補陀落渡海を行ったところでもあります。寛政十年1798の地蔵菩薩三国霊験記には「賀登上人、阿波の国より来て彼の寺(二十五番津照寺)に籠れり、一両年の間に観音浄土補陀落山にまいるべき由をせめいのりたまふに感ありて示現たびたび蒙りて、つひに長保三年1001八月十八日に弟子の栄年と虚舟にのりて、午の刻にともずなをときて、遥かなる万里の波をそいのぎ飛ぶが如くに去り玉ふ。男女貴賤肝を消す。後に残る弟子たち足摺をして哀しみけり。それより彼のところを足摺とは申すなり。(昔は室戸も足摺であったのです)」とあります。
またここの港は野中兼山の部下、一木権兵衛が難工事の築港を命じられ人柱となっており、参道沿いに一木神社としてまつられています。室津港の改修工事は代々難工事で、一木権兵衛が行った延宝五年の改修でも、港口の斧岩、鮫岩、鬼牙岩の三岩が工事を阻んだので権兵衛は海神に向かって成功すれば人身御供となると誓ったといいます。すると岩は砕け散り、辺り一帯は血の海となり無事工事を終えたので権兵衛は港の上の石登崎において、自らの命を絶ちました。 浦人は津照寺で権兵衛の法要を営み、のちに一木神社を建立しています。
ここ25番津照寺のありがたい雰囲気はこういう菩薩行の人々の壮絶な衆生済度の願いから立ち上ってくるものと思いました。
26番金剛頂寺は25番津照寺から4kmですぐつきます。
古色蒼然としてはいますが、大師が創建されたとの伝えのある大寺。本堂右手林の中に智光上人廟があります。 寺の掲示板に「金剛頂寺二代目智光上人は弘法大師伝によると『世にかくれたる聖人二人あり 一人は大和室生寺の堅恵大徳 一人は土佐金剛頂寺の智光上人 堅恵は知恵第一の人 智光は行第一の聖人』智上光人はかって弘法大師禅定の当時根本樹下の法窟にこもり一生山を出でずして精進修行をし大師が承和二年三月二十一日高野山に御入定と知るや御後を慕いて同年四月二十一日この地に大師と同様黙然として入定留身されたと伝えられ千有余年の今日なお智光上人御廟は清浄なる聖域として人々の尊敬と信仰を集めている」とありました。 入定というのは衆生済度のため肉身を現世に永遠にとどめることをいい、何年にも渡る木食行、五穀断、十穀断のあと石室に入り断食しつつ修法し、そのまま永久に窟中に留まることをいいます。我々遍路はお大師様が高野山に入定されているという信仰をもっているのですが平家物語にも大師入定のことが記述されています。即ち「高野の巻」に「大師、(延喜)帝の御返事に、『我、昔薩埵に会ひたてまつり、まのあたりことごとく印明をつたへ、無比の誓願をおこして、辺地異域に侍る。昼夜に万民をあはれんで、普賢の悲願に住す。肉身に三昧を証して、慈氏の下生を待つ』とぞ申させ給ひける。かの摩訶迦葉の鶏足の洞にこもり、鷲頭の春の風を期し給ふらんもかくやとぞおぼえたる。」とあります。後でも述べますが「弘法大師行状要集」に雲居寺の膽西上人が大師の金剛頂経をもっておられたがこの奥付にこの句「我昔会薩埵・・」の句が大師筆で書かれていたと書いてあります。また、「金剛頂寺文書」によると、康元4年(1259)3月22日行者常徳が衆生済度を願い室戸岬より渡海という記録があるようです。入定僧に渡海僧、凄い行者を輩出した寺です。 参道にも霊気がみなぎっていました。
当寺には天狗問答の伝承があり、納経所の壁にお大師様が天狗を足摺岬に退けたレリーフがあります。ここは大師が鎮護国家の寺としてお建てになっており、まさに当時はここから太平洋をにらんで国家鎮護の修法をされたのでしょう。密教辞典の『鎮護国家』には「密教は特に鎮護国家の念を重んじ、後七日御修法、仁王経法、守護経法、大元帥法、二間観音供など鎮護国家のために修する法を伝え朝夕例時の勤行にもその祈願を怠らず。台密には天皇ご即位灌頂、仁壽殿密行、温明殿念珠、日月両安鎮、紫宸殿鎮座、晨朝日没観行、二間夜居、後宮安産御受戒、皇帝御本命持念、敵国降伏秘法を鎮護国家の十箇秘法として尊重せり。」とありました。
大師の性霊集四「国家のために修法を請ふ表」には「・・城中城外に鎮国念珠の道場を建つ。佛国の風範、またかくのごとし、その将てきたるところの經法の中に仁王経・守護国界主経、佛母明王経等の念珠の法門有り。仏国王のために特にこの経をときたまふ。七難をさいめつし、四時を調和し、国を護り、家を守り、己を安んじ、他を安んず。このみちの秘妙の典なり。空海、師の授けを得といえども、いまだ練行することよくせず。伏してのぞむらくは国家の奉為に諸の弟子等を率いて高尾の山門にして来月一日より起首して法力の成就に至るまでに、且は教え、且は修せむ。望むらくは其の中間にして住処をいでずして、余の妨げを被らじ。蜉蝣(かげろう)の心体羊犬の神識なりといえども此の思ひ、此の願、常に心馬に策つ。況や復、我を覆ひ、我を載するは仁王の天地、目を開き、耳を開くは聖帝の医王なり。報ぜんと欲ひ、答へむと欲ふに極りなく、際無し。伏して乞ふらくは、昊天(空)款誠(まごころ)の心を監察したまへ。懇誠の至りに任へず。謹んで闕(宮廷)に詣でて奉う表、陳請以聞す。軽しく威厳を触がす。伏して戦越を深くす。 沙門空海誠惶誠恐謹言 弘仁元年十月二十七日 沙門空海上表」とあります。
いまでも鎮護国家の修法は密教僧の大切な行です。毎年正月に行われる東寺の後七日御修法はまさに鎮護国家の修法です。
17年には、この霊気の中、秋の午後の木漏れ日を経本に受けつつ、人気のない境内で苔むした大師堂の縁に座し、一人理趣経をこころゆくまで読誦しました。そしてこの夢の様な一瞬をまたいつか追体験できるだろうかとふと思いました。
するとだれもいない大師堂の中でコトリと音がしました。
大日経疏によればおよそ行をする時その行が成功したのかどうか、仏様に受け入れられたのかどうかは必ず徴があるとされています。
わたしの場合は行にも入りませんがこの音を聞いて「なにごとのおわしますかはしらねどもかたじけなさに涙こぼるる」(天台慈円僧正)思いでした。
そして本当に不思議で有り難いことにこのあと2度、3度とここにお参りする御縁を頂き、2回目の遍路のときは、定額僧の坂井御住職の知己をえることができました。そして特別にお大師様の旅壇具を拝観させてくださいました。実際にお大師様がこれに手をふれられ旅先で行をされたと思うと感無量でした。
坂井御住職から頂いた金剛頂寺略縁起を紹介します。
「龍頭山金剛頂寺は俗に土佐西寺ともよばれ・・・大師青年のころ修禅降魔された遺跡であり、大同二年(806)勅願寺また密教道場として七堂伽藍が建立された。
初代弘法大師より十代住職までは勅命により住し・・・現在67代。
重要文化財
1、木造阿弥陀如来坐像(藤原期)
2、板彫真言八祖像(嘉暦2年)
3、銅像観音菩薩立像(奈良時代)
4、銅鐘朝鮮鐘(奈良時代)
5、金銅密教宝具(平安時代)
6、金銅旅壇具(平安時代)
7、両部大経 大毘慮遮那経、金剛頂経(平安時代)」とあります。
ご住職様にはその後東京で勉強会を持ち数回法話を頂くことにもなり幾重にもご縁の不思議さを感じました。宿坊ではやさしい奥様手作りのたべきれないほどの料理がでてきます。遍路の間で大人気の宿坊です。此の宿坊で何度目かの遍路の時、日本語の全くできないお遍路さんと一緒になったことがあります。オランダの牧師さんでした。刑務所で教誨師をしているが囚人の深刻な相談に答えられなくなって、以前神学校で学んだ四国88所を思い出し、1週間の休暇を取って1番から廻っているということでした。出会ったお遍路さんが宿の手配等はしてくれるといっていました。私もその次の宿の電話予約をしてあげました。それにしても感心な牧師さんです。宗教は一つという感じがしました。ここも頼富本宏「四国遍路とはなにか」によれば熊野信仰と深い関係をもって開創せられたる霊場とのこと、元禄2年1689の寂本「四国徧禮霊場記」によると「本堂の右の社は若一王子、即ち当山の地主神なり」と記されてあります。
26番金剛頂寺から下に下りると行当岬があります。最御崎寺を東寺というのに対して、金剛頂寺が西寺と称されていることについて、故・五来重博士は、行当岬での行道がここでの修行であり、金剛頂寺(金剛界)と最御崎寺(胎蔵界)を合わせて金胎両部の修行とされていたのではないかと推測されているようです。行当岬には不動岩がありここの祠でお大師様が求聞持を修されたのではないかともいわれます。岩のうえには人がやっと歩けるかどうかという路があると聞きました。私は下の祠をお参りしただけでとてもこわくて岩の上には登れませんでした。私の尊敬するA先生はここで求聞持行をされこの行道岩の上を100日の行中毎朝這い回ったということです。故・五来重博士の説もむべなるかなという気がします。空性法親王四国霊場御巡行記にも「西寺(金剛頂寺)この山の磯辺にこそは名に立てる石ありとぞ聞く、・・」とあります。この岩の事を云ったのかもしれません。
ここは参道右に大師堂と納経所があり、本堂へはなおも百八の急な石段を登ります。ご本尊は大同二年、弘法大師が巡錫されたときに刻まれた延命地蔵菩薩。秘仏で拝観はできません。海上安全と火難除けの霊験あらたかといわれます。慶長六年十月、領主の山内忠義は室戸岬を航行中、突然暴風に襲われましたが不思議な大僧があらわれて船の楫をとり、全員無事に室戸港へ避難させたとのことです。その僧は25番津照寺の本堂の中へ入ったのでご本尊を拝したら、全身びしょぬれであったといいます。それ以来御本尊は揖取地蔵とよばれ、多くの船人から信仰されるようになったとのことです。また、寛保二年の大火の時も、このご本尊が僧の姿となって、人々を避難させたといわれます。ありがたいことです。地蔵菩薩本願経には、二十八種利益(天龍護念・善果日増・集聖上因・菩提不退・衣食豊足・疾疫不臨・離水火災・無盗賊厄・人見欽敬・神鬼助持・女転男身・為王臣女・端正相好・多生天上・或為帝王・宿智命通・有求皆従・眷属歓楽・諸横消滅・業道永除・去処盡通・夜夢安楽・先亡離苦・宿福受生・諸聖讃歎・聰明利根・饒慈愍心・畢竟成佛)が説かれています。わたしも護国寺の一言地蔵様にお願いして継母との50年来の不仲が解消しています。その他大塚公園のお地蔵様にも孫の子育てのお陰を頂いています。
ここ24番最御崎寺はいつきてもなぜか親しみを感じる寺です。石段をのぼりつめた本堂からは港が一望できます。法性法親王四国霊場御巡行記にも「津寺の景色妙にして・・」とあります。当時から景色は有名だったと思われます。
17年にはここ本堂で坐して一人お経を上げていると長らく連絡がなかった大学時代以来の親友から電話がかかってました。
このあたりは室戸津といい観音講式によると阿波の国の賀登上人が長保2(1000)年南方めざして補陀落渡海を行ったところでもあります。寛政十年1798の地蔵菩薩三国霊験記には「賀登上人、阿波の国より来て彼の寺(二十五番津照寺)に籠れり、一両年の間に観音浄土補陀落山にまいるべき由をせめいのりたまふに感ありて示現たびたび蒙りて、つひに長保三年1001八月十八日に弟子の栄年と虚舟にのりて、午の刻にともずなをときて、遥かなる万里の波をそいのぎ飛ぶが如くに去り玉ふ。男女貴賤肝を消す。後に残る弟子たち足摺をして哀しみけり。それより彼のところを足摺とは申すなり。(昔は室戸も足摺であったのです)」とあります。
またここの港は野中兼山の部下、一木権兵衛が難工事の築港を命じられ人柱となっており、参道沿いに一木神社としてまつられています。室津港の改修工事は代々難工事で、一木権兵衛が行った延宝五年の改修でも、港口の斧岩、鮫岩、鬼牙岩の三岩が工事を阻んだので権兵衛は海神に向かって成功すれば人身御供となると誓ったといいます。すると岩は砕け散り、辺り一帯は血の海となり無事工事を終えたので権兵衛は港の上の石登崎において、自らの命を絶ちました。 浦人は津照寺で権兵衛の法要を営み、のちに一木神社を建立しています。
ここ25番津照寺のありがたい雰囲気はこういう菩薩行の人々の壮絶な衆生済度の願いから立ち上ってくるものと思いました。
26番金剛頂寺は25番津照寺から4kmですぐつきます。
古色蒼然としてはいますが、大師が創建されたとの伝えのある大寺。本堂右手林の中に智光上人廟があります。 寺の掲示板に「金剛頂寺二代目智光上人は弘法大師伝によると『世にかくれたる聖人二人あり 一人は大和室生寺の堅恵大徳 一人は土佐金剛頂寺の智光上人 堅恵は知恵第一の人 智光は行第一の聖人』智上光人はかって弘法大師禅定の当時根本樹下の法窟にこもり一生山を出でずして精進修行をし大師が承和二年三月二十一日高野山に御入定と知るや御後を慕いて同年四月二十一日この地に大師と同様黙然として入定留身されたと伝えられ千有余年の今日なお智光上人御廟は清浄なる聖域として人々の尊敬と信仰を集めている」とありました。 入定というのは衆生済度のため肉身を現世に永遠にとどめることをいい、何年にも渡る木食行、五穀断、十穀断のあと石室に入り断食しつつ修法し、そのまま永久に窟中に留まることをいいます。我々遍路はお大師様が高野山に入定されているという信仰をもっているのですが平家物語にも大師入定のことが記述されています。即ち「高野の巻」に「大師、(延喜)帝の御返事に、『我、昔薩埵に会ひたてまつり、まのあたりことごとく印明をつたへ、無比の誓願をおこして、辺地異域に侍る。昼夜に万民をあはれんで、普賢の悲願に住す。肉身に三昧を証して、慈氏の下生を待つ』とぞ申させ給ひける。かの摩訶迦葉の鶏足の洞にこもり、鷲頭の春の風を期し給ふらんもかくやとぞおぼえたる。」とあります。後でも述べますが「弘法大師行状要集」に雲居寺の膽西上人が大師の金剛頂経をもっておられたがこの奥付にこの句「我昔会薩埵・・」の句が大師筆で書かれていたと書いてあります。また、「金剛頂寺文書」によると、康元4年(1259)3月22日行者常徳が衆生済度を願い室戸岬より渡海という記録があるようです。入定僧に渡海僧、凄い行者を輩出した寺です。 参道にも霊気がみなぎっていました。
当寺には天狗問答の伝承があり、納経所の壁にお大師様が天狗を足摺岬に退けたレリーフがあります。ここは大師が鎮護国家の寺としてお建てになっており、まさに当時はここから太平洋をにらんで国家鎮護の修法をされたのでしょう。密教辞典の『鎮護国家』には「密教は特に鎮護国家の念を重んじ、後七日御修法、仁王経法、守護経法、大元帥法、二間観音供など鎮護国家のために修する法を伝え朝夕例時の勤行にもその祈願を怠らず。台密には天皇ご即位灌頂、仁壽殿密行、温明殿念珠、日月両安鎮、紫宸殿鎮座、晨朝日没観行、二間夜居、後宮安産御受戒、皇帝御本命持念、敵国降伏秘法を鎮護国家の十箇秘法として尊重せり。」とありました。
大師の性霊集四「国家のために修法を請ふ表」には「・・城中城外に鎮国念珠の道場を建つ。佛国の風範、またかくのごとし、その将てきたるところの經法の中に仁王経・守護国界主経、佛母明王経等の念珠の法門有り。仏国王のために特にこの経をときたまふ。七難をさいめつし、四時を調和し、国を護り、家を守り、己を安んじ、他を安んず。このみちの秘妙の典なり。空海、師の授けを得といえども、いまだ練行することよくせず。伏してのぞむらくは国家の奉為に諸の弟子等を率いて高尾の山門にして来月一日より起首して法力の成就に至るまでに、且は教え、且は修せむ。望むらくは其の中間にして住処をいでずして、余の妨げを被らじ。蜉蝣(かげろう)の心体羊犬の神識なりといえども此の思ひ、此の願、常に心馬に策つ。況や復、我を覆ひ、我を載するは仁王の天地、目を開き、耳を開くは聖帝の医王なり。報ぜんと欲ひ、答へむと欲ふに極りなく、際無し。伏して乞ふらくは、昊天(空)款誠(まごころ)の心を監察したまへ。懇誠の至りに任へず。謹んで闕(宮廷)に詣でて奉う表、陳請以聞す。軽しく威厳を触がす。伏して戦越を深くす。 沙門空海誠惶誠恐謹言 弘仁元年十月二十七日 沙門空海上表」とあります。
いまでも鎮護国家の修法は密教僧の大切な行です。毎年正月に行われる東寺の後七日御修法はまさに鎮護国家の修法です。
17年には、この霊気の中、秋の午後の木漏れ日を経本に受けつつ、人気のない境内で苔むした大師堂の縁に座し、一人理趣経をこころゆくまで読誦しました。そしてこの夢の様な一瞬をまたいつか追体験できるだろうかとふと思いました。
するとだれもいない大師堂の中でコトリと音がしました。
大日経疏によればおよそ行をする時その行が成功したのかどうか、仏様に受け入れられたのかどうかは必ず徴があるとされています。
わたしの場合は行にも入りませんがこの音を聞いて「なにごとのおわしますかはしらねどもかたじけなさに涙こぼるる」(天台慈円僧正)思いでした。
そして本当に不思議で有り難いことにこのあと2度、3度とここにお参りする御縁を頂き、2回目の遍路のときは、定額僧の坂井御住職の知己をえることができました。そして特別にお大師様の旅壇具を拝観させてくださいました。実際にお大師様がこれに手をふれられ旅先で行をされたと思うと感無量でした。
坂井御住職から頂いた金剛頂寺略縁起を紹介します。
「龍頭山金剛頂寺は俗に土佐西寺ともよばれ・・・大師青年のころ修禅降魔された遺跡であり、大同二年(806)勅願寺また密教道場として七堂伽藍が建立された。
初代弘法大師より十代住職までは勅命により住し・・・現在67代。
重要文化財
1、木造阿弥陀如来坐像(藤原期)
2、板彫真言八祖像(嘉暦2年)
3、銅像観音菩薩立像(奈良時代)
4、銅鐘朝鮮鐘(奈良時代)
5、金銅密教宝具(平安時代)
6、金銅旅壇具(平安時代)
7、両部大経 大毘慮遮那経、金剛頂経(平安時代)」とあります。
ご住職様にはその後東京で勉強会を持ち数回法話を頂くことにもなり幾重にもご縁の不思議さを感じました。宿坊ではやさしい奥様手作りのたべきれないほどの料理がでてきます。遍路の間で大人気の宿坊です。此の宿坊で何度目かの遍路の時、日本語の全くできないお遍路さんと一緒になったことがあります。オランダの牧師さんでした。刑務所で教誨師をしているが囚人の深刻な相談に答えられなくなって、以前神学校で学んだ四国88所を思い出し、1週間の休暇を取って1番から廻っているということでした。出会ったお遍路さんが宿の手配等はしてくれるといっていました。私もその次の宿の電話予約をしてあげました。それにしても感心な牧師さんです。宗教は一つという感じがしました。ここも頼富本宏「四国遍路とはなにか」によれば熊野信仰と深い関係をもって開創せられたる霊場とのこと、元禄2年1689の寂本「四国徧禮霊場記」によると「本堂の右の社は若一王子、即ち当山の地主神なり」と記されてあります。
26番金剛頂寺から下に下りると行当岬があります。最御崎寺を東寺というのに対して、金剛頂寺が西寺と称されていることについて、故・五来重博士は、行当岬での行道がここでの修行であり、金剛頂寺(金剛界)と最御崎寺(胎蔵界)を合わせて金胎両部の修行とされていたのではないかと推測されているようです。行当岬には不動岩がありここの祠でお大師様が求聞持を修されたのではないかともいわれます。岩のうえには人がやっと歩けるかどうかという路があると聞きました。私は下の祠をお参りしただけでとてもこわくて岩の上には登れませんでした。私の尊敬するA先生はここで求聞持行をされこの行道岩の上を100日の行中毎朝這い回ったということです。故・五来重博士の説もむべなるかなという気がします。空性法親王四国霊場御巡行記にも「西寺(金剛頂寺)この山の磯辺にこそは名に立てる石ありとぞ聞く、・・」とあります。この岩の事を云ったのかもしれません。