・・・いやしくもこの世界になにか踏み違いがあるということが認められるかぎりにおいてはそれをもとへもどさなくてはならぬからそうしてそのもとへもどすということが即ち悟りということになる。・・これから自分自身(大慧)の経験をお話しすると、17年の間、あちらこちらへ参禅してあちらでも少しこちらでも少し、きれぎれに何か悟ったこともなかったではない。雲門宗(雲門宗は元代に消滅しており日本には雲門宗の寺はありませんが、碧巌録に「雲門垂語して云く、十五日已(い)前は汝に問わず、十五日已後、一句を道(い)い将(も)ち来たれ、 自ら代わって云く 日々是好日 」という有名な「日々是好日」の公案があります。) のところへ行って幾らか分かりもし、曹洞門へいってもまた幾らかわからして来たのである。けれども前後際断という境界へは入れなかった。(正法眼蔵にも「前後際断」の公案があります。「たき木、はいとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきあり、のちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちあり、さきあり。かのたき木、はいとなりぬるのち、さらにたき木とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり、このゆえに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆえに不滅といふ。生も一時のくらいなり、死も一時のくらいなり。たとへば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。」)
その後、京師の天寧寺へいってそうしてそこで圓悟和尚の会下に加わった。その時の圓悟和尚が上堂をして、昔一僧が雲門に尋ねた問答を挙揚した。その僧の問いに「いかなるかこれ諸仏出身の所(覚りとはいかに?)」、こう言うたならば雲門は「東山水上行」、東山が水の上を行く(動かぬ山が川を流れて行く、という意味)。こういったというが圓悟和尚が自分ならばそうは言わぬ。「いかなるかこれ諸仏出身の所」といわれるのに対しては「薫風自南来、殿閣生微涼(酷暑の夏でも薫風はやってくる、是非・善悪・得失・生死すべて洗いざらい薫風に吹き払われて、そこに津々たる涼味を体得することが出来る)」と。そういわれたのを聞いて自分は忽然として前後際断の境界へ入ってちょうど一束の乱れた糸を一刀に切り放ったようなもので通身冷が出た。なんら動相は生じなかったけれども、かえって浄下倮のところに坐して自由を得なかった。ある日、参禅をしたらば圓悟和尚のいわれるのに「お前の体験したところはなかなか人の到りがたいところではあるが惜しいことには死んでしまって,活きることができない。言句をいわざるのが一大病である。こういうことができる、『懸崖に手を撤してみずから肯うて承当す、絶後に再び甦れば君を欺くことを得ず』(『碧巌録』第41則の評唱に「直に須らく懸崖に手を撤して、自ら肯うて承当すべし。絶後に再び甦らば、君を欺くことを得ず」とあります。「吾輩は猫である」にも出てきます。)
こういうことがある、がこれは事実があるので、この体験がなくてはならぬ。圓悟自身が今の得所によればすでに快活を極めてさらに知的理会をめぐらすべき余地はないのである」こういわれた。そこで自分は択木寮へ行って侍者の役目を勤めていた。それで毎日三遍ずつは参禅することを許されたが、そのときに圓悟和尚は「有句無句は藤の木に依るがごとし」という公案を授けられた。それにたいしてなにか口を開けて答えをしようとすると「いけない、いけない」と退けられた。こういう塩梅にして半年もたってただ公案に参じておったがなかなか容易に透過する機会がなかった。・・ある時圓悟和尚に五祖のところで「有句無句は藤の木に依るがごとし」という公案に参ぜられたときのことを聞いたがそうすると、圓悟和尚が五祖に「有句無句は藤の木に依るがごとき時如何」こう尋ねたら、五祖は「描けども描き成らず、画けども画かれず」こういわれたので「たちまち木倒れ藤枯るるとき如何」五祖は「相隋来也」(ひっかかってきた)こういわれたので、圓悟自身は直ちにその義理を会得したと。圓悟老和尚がこの問答を説かれたのを聞いて自分は直ちにまたその意味に徹底した。圓悟和尚はなお果たして自分が十分にこの意を諒解しているかいまいか疑ってそれからいろいろと問答でられたがことごとく自分は何ら滞る所なく切り捨てることができた。そこで老和尚は「自分はかってお前を騙かしたことはなかったろう」こういわれたおである。(以上大慧の話)