第四四課 人間の味
ある料理通が次のような経験談を致しました。「だんだん料理を食べて行くと料理の手を余り加えたものより少く加えたもの、少く加えたものより全く加えないもの、結局、自然の味そのものが美味うまくなってしまう。芋や大根なども、煮たり焼いたりするより、生のままの方がどのくらい、よい味か知れない」と。
この言葉は、私たち素人にはちょっと直ぐにはその妙味が解しかねますが、多少の察しはつきます。
私は欧州航路の船が上海に寄港しましたとき、人に招ばれまして有名な四川料理の支那料理店に行きました。そこで支那一流の濃厚料理が数え切れぬほど出ました中に、忽然と野菜だけの一鉢が出ました。その野菜というのが蓮根だの、慈姑くわいだの普通煮て食べる種類のものを、ただ皮を剥いただけで、ざくざく輪切りにしたものでありました。その当時はただ珍しい原始的なことをするものだくらいにしか思わないで撮つまんだのでしたが、あとで考えてみると、濃厚と濃厚との味の間に挟まって何だかそれが一番おいしかったようにさえ思い出されます。さすがに支那は料理の国、この生の野菜を出すのにはなかなか考えたところがあるのでした。
人間の味というものも、結局、最後には純情素朴の童心の美しさでありましょう。しかし、ただの童心というものは、文字どおり童心一枚だけのものであって、狡智に嚮むかい、悪辣に懸かったときには、ひと堪まりもなく壊くずれてしまいます。欺され陥れられるばかりであります。修業もしない、ただの童心が良いとするならば、子供はすべて聖人であって、修業というものの必要はありません。
童心にして万事に応じられる機用を備えてこそ、磨かれたる童心であります。
よく「嬰児みどりごの如ごとかれ」などと言いますが、「如かれ」というところに価値ねうちがあります。もし「嬰児たれ」と言ったとしたら、その言葉は零ゼロです。
人間は乳首を銜えて腹匍はらばっているところに値打ちがあるのではありません。ここでまた料理の味の話に戻れば、生の野菜の味は、あらゆる味を味わい尽した料理通においてはじめてこれを談じ得られ、これを、かの支那料理の中におけるごとく、活かして使えるのでありまして、ただの人がやたらに生の野菜を喰べたのでは、ただの物好きにしか過ぎません。
世の中の酸いも甘いも味わい尽した人の、確実な性格の裏付けの上に、なお純良性が残り、素朴性が保留されている、そういう性格の味わいの現れが本当の尊い童心であります。無邪気なばかりが尊いとは言えません。素直だから、善良だからと言って、幅も高さも重味もない性格では、本当の人間の味も価値もありません。(人間の味・・とはよくいったものです、最近こういうことばそのものを聞かなくなって久しいものがあります。やはり味も素っ気もなくなったと思われる現代においても「人間の味」は夫々の人に於いて隠す事無く現れます。現代においても行を積んでおられる老僧はなんともいえない味があります。味というと失礼ですが「雰囲気」があります。福聚講で以前法話をお願いしたS師なども何とも言えない味わいを持ったお方でした。どうすればあのような「味」が出るのか、自分など全く足元にも及ばないということを醸し出す「味』で思い知らされました。)