「救われてないが救われている」
悲惨な事件が後を絶ちません、世界中が苦しんでいます。どうして悲惨・不条理極まる事案が後を絶たないのでしょうか?弱者が犠牲となり、戦争が起こり大災害が起こり疫病が流行るのでしょうか?なぜ悪が栄え善が滅びるのでしょうか?苦悩する人がなぜ救われないのか?神仏への願いはなぜ叶わないのか?いつも疑問に思います。
考えるに、お釈迦様も四門出游で生老病死の衆生の苦しみをご覧になり出家されたのであり、御大師様も「支離懸鶉を見ては、則ち因果の哀み休せず、目に触れて我を勤す、誰か能く風を係がん(三教指帰)」とおっしゃって出家されています。諸仏諸聖はみな衆生の不条理な塗炭の苦しみをご覧になり「これを救わずにおくものか」と決心され筆舌に尽くし難い修行をされ悟られ、説法されているのです。
では諸仏諸聖の願いにも拘わらずどうして祈りが叶わないで衆生は苦しむのでしょうか?
因果が悪く業が深いのでしょうか。この世は「空」なので「苦」も本来ないのに苦しんでいるだけなのでしょうか?そもそも未熟者がそのようなことを考えること自体、小学生がフィールズ賞並みの高等数学の解を求めるようなもので笑止千万なことなのかもしれませんが・・・
今朝も修法のあとで御大師様のお姿をまじまじと拝して感じたのですが、その答えを御大師様が「救われなくとも救われているぞ」とおっしゃっている気がしました。
遠藤周作は「私にとって神とは何か」という本で「(祈りが叶わなくて)神も仏もない、と思った瞬間から本当の信仰は始まる」と言っているようです。「我欲手伝う仏いまさず」という東本願寺の法話では、試練に遇うことで「信ずる対象としての仏」から「信ずる主体としての仏」に転換することになる、といっておられました。
吾々御大師様信者は現世の苦悩を祈って救っていただくとともに、現世に目に見える救いがその時に叶わなかったとしても實は救われていたのだという二重のありがたさに気が付くべきでしよう。密教は「現当二世の安楽」を与えるといいますが、まさにこのことであったのかもしれません。
吾々はその瞬間に願いが叶っても叶わなくても「南無大師遍照金剛」と唱え続けコツコツと生きていくほかありません。