福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

観音經功徳鈔 天台沙門 慧心(源信)・・5/27

2024-11-15 | 先祖供養

観音經功徳鈔 天台沙門 慧心(源信)・・5/27

四、題の外品の内に妙法の言は之無き事

総じて廿七品には題号の外に妙法の言あれども此の品に限て一品の始終に観音の利益衆生の相ばかり説て妙法の事をば説き玉はざるなり。これはなにごとぞと云に両巻の疏にいはく、一品の中に妙法と云はざる故に観音妙法躰同といへり。恵心の云く、観音法華眼目の異名といへり。是則ち妙法なり。故に別して之を説かざるなり云々。

 

五、別號の観音の事幷翻名の事

観音と云は梵語、此には「あなはろきていせい」、と云ふなり。しかるに世の音を観ずると翻ずる事一切衆生が此の菩薩の名号を唱へば其の音を聞きて往きて済度し玉ふ「ゆへに観世音といふなり。ただし名号をとなへる音を聞て済度し玉ふゆへならば、世の音を聞くといふべし。観世音といふ観の字いかんといふに是をば人師(仏法を説く教師)の釋に、子が親をよぶたとへをもって釈し玉ふなり。夫れとは親は前に立ちて行き子は跡に行て子が親を呼べば親は子のよぶ音を聞きてやがて立かへり子を見て之を愛し之を哀れむなり。そのごとく観音も名号を唱るこえをきいて来って慈悲の眼を7以って観て済度し玉ふゆへに観世音といふなり。次に菩薩とは道心大道心の義也。序品下に云が如し。次に普門とは此の菩薩種々の形を現じて機縁に応じて普く一切衆生を利益し玉ふ故にしか云ふなり。釈して云く、一実相を用ひて十普門を開くに障碍する所なし。故に普門と称すといへり。(觀音玄義卷上「普門者普是遍義門曰能通。用一實相開十普門。無所障閡故稱普門」)。観音は三十三に身を現じあまねく一切衆生を利益し玉ふといふも終には法華経の諸法実相の妙理を悟らしむ也。たとへば一天の君を

見上げん為に東西南北の門より入るといへども唯獨りの帝を見たてまつるなり。そのごとく種々の身を現じて種々の門より引き入れ玉ふも法華経を悟らしめん為なり云々。次に二十五といふは次第をあげるなり。ある人の不審する様は観音は三十三身に形を現じ給ふと云ふに何ぞ今廿五といふやと不審するなり。是は廿八品の内の廿五番目なれば廿五といふをよこしまに心得ものしりだてにて正躰もなき不審なり。然るをしゃれものが答へやうはすでに三十三にあたるなり。其の故は廿五に八を加れば合して丗三なりと機転を以てこたへたり。問答ともに正体なきことなり。所詮観音とは娑婆世界の施無畏の大士にて御座すなり。しかるに此の界は廣しと雖も廿五有(衆生が生死流転する生存の世界を二十五種に分類。 四洲(四有)、四悪趣(四有)、六欲天(六有)、梵天(一有)、無想天(一有)、五那含天(一有)、四禅天(四有)、四空処天(四有)の二十五種)にはすぎず。廿五の能化教主なることを顕して廿五品目にをくなりと云々。疏に云く、観世音普門品といふ五字に付て十双五隻といふ事を釋せり。十双と云は観世音と云ひ普門と云ふを相対して十重に釈するを十双といふなり。夫れは人(観音)法(普門)一双慈(観音)(普門)一双等なり。さて五隻とは観世音普門の五字の一一の別釈なり。観に四教の観を分別し、世に三世のを分別し音に五音を分別し、普に十普を立て、門に三諦の門を釋し玉ふなり。具には疏の如くの要を取らば大悲苦を抜き百千万億の苦皆解脱することを得るを観世音と號す。大慈楽を與へ、世出の樂悉く亦圓滿し得玉ふを普門と号するなり。所詮一品の始終事廣しと雖も一切如来の大慈悲皆集って一躰の観世音なれば一品の始終は悉く慈悲の二字なり。されば初め「尒時無尽意菩薩」より「福徳之利」までは大悲抜苦なり。さて「無尽意菩薩白佛言」より下は大慈與樂なり云々。

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