福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

カントの『慰めの書』

2011-06-25 | 法話
ヨーハン・フリードリッヒ・フォン・フンク氏の早逝にあたり、そのご母堂アグネス・エリザベート貴婦人に対してケーニッヒスベルヒ大学哲学教授イヌマエル・カントより贈る書  1760年6月6日
と題されたカントの一文が残されその中には次のごとき意味のことが記されている。
「・・・人生とは死という底知れぬ奈落の上に架けられた橋である。そこには奈落におちる陥穽のあることが火をみるよりも明らかであるにもかかわらず、人々は群れをなして、かりそめのうたかたを求めさまよっている。ある古の詩人が『子供というものは母の胎内から出て、いよいよ数多くの悩みが彼を待ち受けている、この世へと踏み入らねばならぬようになると、悲しげなすすりなきをあたり一面にただよはせるものだ。』とのべてゐるが、誠に人の肺腑を衝く言葉である。・・元来人生は苦悩である。しかし段々月日がたつにつれて、人間は諸々の苦悩、悲しい人生苦をおおいかくす術をおぼえる。多くの人生苦に対して努めてそ知らぬ顔をしようとする。人間にとって最も恐ろしい死でさへも、よほど親しい人が死なない限り、余り気に留めようとしない。激烈な戦争の最中などには自分の兄弟の運命をさへも余り気にかけない。困苦と死とを見るに慣れて、冷淡な無関心な気持なってしまっているからである。・・人々は誰でも走馬灯の如く次から次へとこの世における自分の仕事の計画を樹てるものであるが・・真実の運命は我々の幻想とは似ても似つかぬ程違っている。・・・人間が自ら創造主でもあるかの如く想像していい気になっておるような、いはば寓話の如き世界から、神の摂理が現実に人間を支配している真実の世界へと、悟性によって引き返された時、その時人間はそこに発見する驚くべき矛盾にとまどふのである。前途有為の青年に芽生えそめた良き素質が早くも重病の重荷に耐えかねて萎んでしまひ、無念の死が人々の彼にかけた望みのすべてを抹殺してしまふ。熟達せる人、価値のある人、富める人、このような人々が何時でもこれらのことから生ずる成果を享け楽しむために、神からもっとも長い生涯を与えられておる人でるとは限らない。貧困や悲惨は長続きするように運命の神々がさだめてあるのか、多くの人は唯自分を苦しめるか他人を苦しめるかのためにのみ長生きをしておるように思はれるにも拘わらず、反対に愛情のこもった友情や幸福な結婚などはしばしば最も早き逝去によって無残にも打ち破られてしまふ。これはまことに矛盾したことのやうではあるが、実際はこのやうにしてこそ、神はその賢明の御手によって各人にめいめいの運命を分かちあたえているのである。
賢者はあの世を考へる場合でも、決してこの世における彼の宿命を忘れない。・・孜々としてその義務の達成に努めはするが一度この努力の最中に人生とふ舞台から引き上げて帰って来いとの神の命令があった場合には基督者らしくあきらめてこの命令におとなしく従ふだけの心の用意はしている。・・なるほど我々が多くの悦ばしい希望をかけていた人が突然早逝するといふことが我々を驚かせはする。しかしこの早逝でさへもどうしてそうすることが神の最大の恩寵でないといへようか。・・
前途有為の青年であった、フランク氏の早逝は誠に愛惜に堪えない。然し運命の書には恐らく我々の考えとは違ったことが書いてあるのであらう。・・・」
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