福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

角田さんが先日の江戸33観音東京10社参拝記を作ってくださいました、その3

2015-07-13 | 開催報告/巡礼記録



午前11時30分、ぽつり雨が降つたりやんだりして、傘を差さずとも歩けるような天気になってきました。湿度が高いせいか、体に汗がでますが、体が動いてるせいか、壮快です。江戸三十三観音第五番札所 新高野山 大安楽寺 東京都中央区日本橋小伝馬町3-5

本尊 十一面観世音菩薩 宗派 高野山真言宗


同寺に来る途中、立派な堂宇の「身延別院」があり、木造日蓮聖人坐像が安置されているお堂です。先を急ぐため、通過。すぐ、傍に、「准別格本山」「新高野山 大安楽寺」と揮毫された表札が組み込まれた二本の石柱の門構えがある、寺院に来ました。同寺の境内敷地はこれまで巡拝してきた寺院の敷地より広く、堂宇も、本堂とは別の集会所のような講堂があり、鉄筋コンクリート4階建ての立派なお寺です。青、赤、黄の色とりどりの幟が立てられ、一見、華やかな風情が漂っています。境内に当たる所は、土の地面でなく、都会風の正方形の石板が整然と敷き詰められています。奥に入ってゆき、本堂に出ます。応対に出た、大黒さんに、来意を告げ、本堂に上がらせていただきました。御本尊に、般若心経・観音経、光明真言をお唱なえしました。豪華絢爛な飾り物に囲まれ、ご本尊をお祭りしている祭壇は、何か霊気が漂う奥床しさがありました。背筋をただし、祭壇に向かい、導師を務める高原講元様の背に、凛とした霊気を感じさせられたものでした。


笈ずる白衣姿の私たちに、何かを感じられたのでしょうか。中山弘之住職様が、改良服姿で、本堂玄関前に出てこられ、私たちと挨拶をしていただきました。お元気そのもの、お口も達者で、話が止まりません。聞けば、御年、88歳といわれます。80歳にも見えないほど溌剌としておられます。 開口一番「天気予報では今日は大雨ということでしたが・・よく晴れましたね・・」といわれました。こういう高僧に謂いわれると本当に「仏様のお蔭で・・」と有難くなります。

お話しによると、同寺が立地している「伝馬町」は、江戸時代は、徳川幕府の牢獄があった処といいます。同寺の真向かいには、広大な「十思公園」があり、同寺の敷地に続いた牢獄屋敷と、処刑場が並んでいたと言います。公園には,寶永8年に鋳造された「寶永時鐘」があり、音色は、黄渉調長久の音といいます。享保10年、旧本石町三丁目北側に鐘楼堂を建て、時銭として一軒につき、一ヶ月永楽銭一文づつを徴収、大町小町横町計四百十ヶ町から集めて、維持していたといいます。この鐘は、石町時鐘と呼ばれ、当時、江戸には、9ヶ所の時鐘がありましたが、その最古のものだといいます。この石町鐘楼堂の近くに伝馬町獄がありました。囚人たちは、様々な思いを込めてこの鐘の音を聞いたことでしょう。処刑もこの鐘の音を合図に執行されました。処刑者の延命を祈るかのように遅れたこともあり、「情けの鐘」言い伝えられています。


伝馬町牢は、慶長年間から、明治8年、市ヶ谷囚獄が出来るまで270年間存続しこの間に、全国から江戸伝馬町獄送りとして入牢した者は、数十万人にのぼると言われました。大安楽寺、十思公園、身延別院などを含む一帯の地が、伝馬町牢屋敷跡です。当時、敷地面積2618坪、四囲に土手を築いて土塀をまわしていました。牢舎は、揚げ座敷、(旗本の士)、揚屋[士分僧侶]、大牢[平民]、百姓牢[百姓]、女牢(婦人のみ)と分かれていました。


大安楽寺の境内に、死刑場があり、現在は、地蔵尊が建つていますが、山岡鉄舟筆の鋳物額に「為囚死群霊離苦得脱」と記されています。牢屋敷の役柄は牢頭に、大番衆石出帯刀、御檬場死刑場役、有名な山田浅右ェ門、同心78人、獄丁46人、南北両町奉行らが加わり、牢屋敷回り吟味にあたつたといいます。伝馬町獄として、未曾有の大混乱を起こした安政5年9月から、同6年12月までの「安政の大獄」で、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎らの50余人を牢獄に収監、その殆どを刑殺しました。その後も、処刑されたものは、96士に及よんだといいます。愛国不儘忠の士が,石町の鐘の音を聞くにつけ、「わが最期の時の知らせである」と、幾度となく覚悟したことでしょう。


吉田松陰は、安政元年、下田から米艦に便乗しようとし失敗、伝馬町獄送りとなり、途中、高輪泉岳寺前で「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂」とよんでいます。同年9月まで、伝馬町獄に留置されていましたが、国元萩に、謹慎の身となり、松下村塾を開講、偉大な教育事業を展開しました。吉田の薫陶を受けた者の中から、有爵者6人、贈位者17人、有位者14人など、多くの著名の士が輩出、明治維新の大業に勲功のあった伊藤博文、山県有朋、木戸孝員允らは、松下村塾生でした。


しかし、松蔭は、安政の大獄に連座、再度伝馬町獄に入牢しました。安政6年、江戸の長州藩邸から、評定所に召出された時、「まち得たる時は いまとて武蔵野よ いさましくも 鳴くくつわ虫かな」と詠んでいます。3回の取調べを受け、死刑を覚悟。「親思ふ心に まさる親ごころ けふのおとづれ 何と聞くらん」また、処刑の近づいたのを知り、書き上げた「留魂録」で、「『身はたとひ武さしの野辺に朽ちぬともとどめ置かまし大和魂』十月念五日 二十一回猛士 」と記していました。安政6年10月、処刑の日、松蔭は、同囚の士に「今吾れ国の為に死す 死して君親に背かず悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」と述べています。刑場では、「身はたとひ・・」の歌を朗誦して、従容として刑に着いたといいます。 中山御住職の話ではこの時の松陰の様子を同牢だった堀 達之助(のち許されて江戸幕府通詞、辞書編纂者)の玄孫 堀 孝彦氏(名古屋学院大学名誉教授)が先日来寺して「先祖代々『松陰師処刑の折は今までみたことのないような晴れ晴れとした顔で堂々たる様であった』とつたえらるようにいわれています」と話したとのことです。(続)
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