「人情深川御利益通り」の幟旗が、並びたてられた、深川不動尊の仲見世通りをすぎ、地下鉄・日本橋駅に行き、人形町駅まで行きます。午前10時55分、第二番目の巡拝所、江戸三十三観音 第三番札所 大観音寺(おおがんのんじ)・東京都中央区日本橋人形町1-18 本尊 聖観世音菩薩 宗派 聖観音宗
人形町に通ずる日本橋通りは、今、大通りの両側は、大震災の災害を未然に防ぐ高層ビルの耐震工事と、耐震設計を基に作られた高層ビル群が互いに競い合っているかの様に建設されています。大観音寺は、高層ビルの谷間のようなところに、ひっそりと佇んでおられる。東京都心にある寺院は、どこでも、例外なく、ガラス張りやコンクリートの頑丈で人を寄せ付けない様な非人間的な冷たい感じのする高層ビルに囲まれた谷間のような所にあり、大方が、鉄筋二階建て コンクリート建築の堅牢な堂宇の寺院が多いです。見始めのころは、コンクリート造りの寺院とは?と、見栄えがしないと思いましたが、時代の流れと近代文明の合理化が進んだ今日では、致し方ないと感じるようになり、見慣れてきたようです。
大観世音寺の縁起。御本尊の観音は、鉄造聖観世音菩薩の御首像で、源頼朝が鎌倉幕府を開いた時、二位局北条政子が、京都・清水観音に帰依したことから、鎌倉の地に新清水寺を創建。その本尊として奉祀されたといいます。正嘉2年(1258年)同時は、祝融の災いに会い、堂塔伽藍は、焼失。本尊は、寺僧が、辛うじて、御首だけを救い出し、寺の井戸に安置し、難を避けたといいます。後年、伝聞により、井戸を掘り返したところ、井戸の中から、鉄(くろがね)造りの観音が出現。その井戸を、「くろがねの井」と称し、鎌倉十井の一つとして、現在も、観音慈しみの霊水として、渇仰されています。元禄12年(1699年)この井戸の西向かいに、鉄観音堂を建立、里人たちに、尊崇されました。明治初年[1868年]、鶴岡八幡宮小別当が所有するこの観音堂では、太政官布告の神仏分離の令を、廃仏棄釈と誤解して、御首像を、由比ヶ浜に棄捨したところ、東京・人形町の住人であつた石田可村、山本卯助の二人が拾い上げ、船で搬送して、東京御船蔵前に持ってきました。明治9年[1877年]、現在の地に仮堂を建て、御首像を奉祀したところ、別に、銅像丈6丈の観音像があった。「大観音」という寺名も、本来は、この観音像が先に安置されていたことに由来するといいます。しかし、大正12年(1923年)、関東大震災が発生、丈六観音像は、堂宇と共に消滅してしまいました。が、御首像は、無事でした。昭和15年(1941年)大観音堂が竣成。御首像が、御本尊として入仏遷座しました。そして、丈六観音像は、高村光雲の高弟、山本瑞雲の原型を、江戸鋳物師の流れを汲む川西玉定が鋳造して、御前立観音にしたといいます。そして、不思議なことが、まだ続き、平成23年(2011年)3月、東日本大震災が起こった時、同寺には、被害がなかったのですがご本尊は、真東を向いておられたといいます。同寺では、平成の不思議顕現として、(11日)}御縁日としているそうです。
また、平成26年(2014)、大観音寺法嗣・関口真允師が比叡山の荒行・百日回峰行を円成されたそうです。本堂に満行の御護摩の大札が飾られていました。
二つの高層ビルに挟まれた長いコンクリの階段を登り、本堂にでます。私たちは、本堂にあがり、般若心経・観音経をお唱えします。さして広くない“境内”ですが、コンパクトに馬頭観音菩薩堂、白衣観世音菩薩堂が建られています。御本尊開扉は、11日、17日で、この日は、御前立観音像に祈願しました。
ところで、私は、こうして、巡拝を続けながら、仏道修行をしているのですが、近頃、遅ればせながら、佛教というのは、日日、弛まず修行することではないかと思っています。修行の結果、一日、一歩前進した。前進とは、一歩、人間が成長した。という、ささやかな、自分だけの密やかな充実感をもつこと。これが、僅かな「生きる力」になっているかなと思うようになりました。毎朝夕、仏壇に向かい祈祷することも大事なことですが、「修行」を意識して、励むこと、努力して、人生の価値を見出すことが、肝要ではないか。間違いも、失敗もありますが、修行することに、全力あげること。そして、自分の精神を集中させるように鍛え上げてゆくこと。精神・神経を研ぎ澄ませて、外界の刺激などに、影響しないように「精神」を鍛え上げることに専念すること。毎月一回、東京・文京の護国寺の巡拝行で、高原耕昇降元様から、指導を受ける「座禅・瞑想」、短い時間ではありますが、瞑想の仕方を学ぶ、貴重な時間であります。瞑想を通じて、精神集中を図る努力を続けなければならないと思っています。その持続する力をどうぞ授けてくださいと、ご本尊にお願いしたのでした。
御詠歌 『くろがねの かたきちかいに みほとけは はなさくがごと ちまたにぞたつ 』
人形町に通ずる日本橋通りは、今、大通りの両側は、大震災の災害を未然に防ぐ高層ビルの耐震工事と、耐震設計を基に作られた高層ビル群が互いに競い合っているかの様に建設されています。大観音寺は、高層ビルの谷間のようなところに、ひっそりと佇んでおられる。東京都心にある寺院は、どこでも、例外なく、ガラス張りやコンクリートの頑丈で人を寄せ付けない様な非人間的な冷たい感じのする高層ビルに囲まれた谷間のような所にあり、大方が、鉄筋二階建て コンクリート建築の堅牢な堂宇の寺院が多いです。見始めのころは、コンクリート造りの寺院とは?と、見栄えがしないと思いましたが、時代の流れと近代文明の合理化が進んだ今日では、致し方ないと感じるようになり、見慣れてきたようです。
大観世音寺の縁起。御本尊の観音は、鉄造聖観世音菩薩の御首像で、源頼朝が鎌倉幕府を開いた時、二位局北条政子が、京都・清水観音に帰依したことから、鎌倉の地に新清水寺を創建。その本尊として奉祀されたといいます。正嘉2年(1258年)同時は、祝融の災いに会い、堂塔伽藍は、焼失。本尊は、寺僧が、辛うじて、御首だけを救い出し、寺の井戸に安置し、難を避けたといいます。後年、伝聞により、井戸を掘り返したところ、井戸の中から、鉄(くろがね)造りの観音が出現。その井戸を、「くろがねの井」と称し、鎌倉十井の一つとして、現在も、観音慈しみの霊水として、渇仰されています。元禄12年(1699年)この井戸の西向かいに、鉄観音堂を建立、里人たちに、尊崇されました。明治初年[1868年]、鶴岡八幡宮小別当が所有するこの観音堂では、太政官布告の神仏分離の令を、廃仏棄釈と誤解して、御首像を、由比ヶ浜に棄捨したところ、東京・人形町の住人であつた石田可村、山本卯助の二人が拾い上げ、船で搬送して、東京御船蔵前に持ってきました。明治9年[1877年]、現在の地に仮堂を建て、御首像を奉祀したところ、別に、銅像丈6丈の観音像があった。「大観音」という寺名も、本来は、この観音像が先に安置されていたことに由来するといいます。しかし、大正12年(1923年)、関東大震災が発生、丈六観音像は、堂宇と共に消滅してしまいました。が、御首像は、無事でした。昭和15年(1941年)大観音堂が竣成。御首像が、御本尊として入仏遷座しました。そして、丈六観音像は、高村光雲の高弟、山本瑞雲の原型を、江戸鋳物師の流れを汲む川西玉定が鋳造して、御前立観音にしたといいます。そして、不思議なことが、まだ続き、平成23年(2011年)3月、東日本大震災が起こった時、同寺には、被害がなかったのですがご本尊は、真東を向いておられたといいます。同寺では、平成の不思議顕現として、(11日)}御縁日としているそうです。
また、平成26年(2014)、大観音寺法嗣・関口真允師が比叡山の荒行・百日回峰行を円成されたそうです。本堂に満行の御護摩の大札が飾られていました。
二つの高層ビルに挟まれた長いコンクリの階段を登り、本堂にでます。私たちは、本堂にあがり、般若心経・観音経をお唱えします。さして広くない“境内”ですが、コンパクトに馬頭観音菩薩堂、白衣観世音菩薩堂が建られています。御本尊開扉は、11日、17日で、この日は、御前立観音像に祈願しました。
ところで、私は、こうして、巡拝を続けながら、仏道修行をしているのですが、近頃、遅ればせながら、佛教というのは、日日、弛まず修行することではないかと思っています。修行の結果、一日、一歩前進した。前進とは、一歩、人間が成長した。という、ささやかな、自分だけの密やかな充実感をもつこと。これが、僅かな「生きる力」になっているかなと思うようになりました。毎朝夕、仏壇に向かい祈祷することも大事なことですが、「修行」を意識して、励むこと、努力して、人生の価値を見出すことが、肝要ではないか。間違いも、失敗もありますが、修行することに、全力あげること。そして、自分の精神を集中させるように鍛え上げてゆくこと。精神・神経を研ぎ澄ませて、外界の刺激などに、影響しないように「精神」を鍛え上げることに専念すること。毎月一回、東京・文京の護国寺の巡拝行で、高原耕昇降元様から、指導を受ける「座禅・瞑想」、短い時間ではありますが、瞑想の仕方を学ぶ、貴重な時間であります。瞑想を通じて、精神集中を図る努力を続けなければならないと思っています。その持続する力をどうぞ授けてくださいと、ご本尊にお願いしたのでした。
御詠歌 『くろがねの かたきちかいに みほとけは はなさくがごと ちまたにぞたつ 』