今日は諸国の寺で文殊会を開き、窮民を救うように太政官符で命じた日です。
文殊会は勤操・泰善等が窮民救済のために行なったのに始まるといい、天長五年(八二八)太政官符で制度化されました。太政官符では7月8日に諸寺で文殊会を行い、この時は前後三日にわたって殺生を禁じ、参集した男女に文殊菩薩の名号を一〇〇回唱えさせ、三帰五戒を授け、貧者に施しを行えとしています。後に京都の東寺・西寺のものが著名となりました。
類従三代格巻二・天長五年(828)二月二五日の太政官符「応に文殊会を修すべき事/右得僧綱牒偁、贈僧正伝燈大法師位勤操、元興寺伝燈大法師位泰善等、畿内郡邑に広く件の会を設け、飯食等を弁備し貧者に施給す、此則ち文殊般涅槃経に云う所に依る、『若し衆生ありて文殊師利の名を聞かば、十二億刧生死の罪を除却す、若し礼拜供養する者は、生々の処、恒に諸仏家に生じ、文殊師利威神所護となる。若し供養し福業を脩せんと欲する者は、即ち化身して貧窮孤独苦悩衆生と作り行者の前に至る者也』と。而して今、勤操遷化し泰善独存、相尋で行ぜんと欲す、増感不已、望請、下符京畿七道諸国、同修件会、須く国司講読師仰所部郡内及定額寺三綱等、郡別於一村邑、精進練行法師を屈して、以って教生と為し、毎年七月八日其事を修せしむ、兼て堂塔経教破損等を修理し当に彼会の日に、同く之を供養す、当会前後并に三箇日は禁断殺生し、会集男女等は先ず三帰五戒を授し、次で薬師文殊宝号各一百遍を称讃せしめ、庶使は普く天之下、同く福業を修し、率土之内、俱に快楽を期す。中納言兼左近衛大将従三位行民部卿清原真人夏野宣、奉勅。依請者、其会料者、割救急料利稲、量宜充行、若国郡司百姓等、割随分物加施、不在制限」
(公事根源・七月)「文殊會 八日 是は東寺西寺にて行はる。仁明天皇天長十年七月に大法師位泰善、始めて文殊會を行ふ。毎年七月に此の事あるべき由格に定めらる。」