福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

大乗起信論その6

2013-11-11 | 諸経
云何が二と為す(この二種の意味とは何か)。一は覺の義。二は不覺の義(一は覚り、二は迷いについてである)。所言の覺の義とは、謂く、心體の離念なり。離念の相は等虚空界無所不遍なり。法界一相即是れ如來平等法身なり。此の法身によりて説いて本覺と名ずく(覚りとは心が心・體を離れていること、この妄念を離れた本当の姿は虚空に遍満してあらゆるところにいきわたっている。まさにこの「法身」は本来の姿として本覚と呼ぶのである。)何を以っての故に。本覺の義は始覺の義に對して説き、始覺は即ち本覺に同ずるを以ての故に(何を以てか、本来の姿としての覚り(本覚)というのは迷いから覚りへ(始覚)に対比して用いられるが本来両者は同じであるからである)。始覺の義は、本覺に依るを以ての故に不覺あり。不覺に依るを以ての故に説いて始覺有りと説く(迷いから悟りへ(始覺)というのは本来覚っていること(本覚)から見ると覚ってないという事がわかり、ここから見て迷いからの覚り(始覺)と説くのである)
又心源を覚するが故に名ずけて究竟覺とす。心源不覺の故に究竟覺にあらざればなり。(心の動きの源を覚るゆえに究極の覚り(究竟覺)という。心の源を覚らなければ究極の覚りとは言えない。)
此義云何(これはどういう意味か?)
・凡夫人のごときは前念起惡を覺知するが故に、能く後念を止めて其を不起ならしむれば、復た覺と名ずくといえども即ち是れ不覺なるが故に(凡夫が前に悪心を起こしたことを覚ってその後悪心が続いておこらないようにすることも『覚』といえなくはないがまだこれは覚りとは言えない。)
・二乘の觀智と初發意の菩薩等の如きは、念の異を覺し、念に異相無くして、麁分別執著相を捨せざるをもっての故に、相似覺と名ずく(声聞・縁覚(二乗)や初発心の菩薩達は一瞬ごとの心の働きを覚りその結果、心が物事の変化するさまを見てもそれから自由になれる。しかしこれの段階はまだ「覚り」に似ているという段階である。)
・法身菩薩等の如きは、念の住を覺し、念は無住相なり。分別麁念相を離れたる故に、隨分覺と名ずける(法身を観得した菩薩達は心の働きの持続性を覚り、その心は持続の相から自由になる。それは分別・荒い心の働きを離れたるゆえに分に応じた覚りと名ずける。)
・菩薩地盡くる如きは、方便を滿足し一念相應す。心の初起を覺して心に初相無し。微細念を遠離するを以ってのゆえに心性を見ることを得る。心は即ち常住なるをもって究竟覺と名ずく(菩薩の修行が完成してその地位が尽きる位(十地の最後の十位)になったときは、方便を満足して衆生心が真如であることを覚る。(生相・住相・異相・滅相のうちの)生相を覚り、心にもはや生滅の姿をとらえることはない。微細な心の働きすらからも離れているので心の本当の姿を知ることができる。その心は常住不滅であるからこれを究極の覚りと名ずける。)
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