一 苦しみは<自らによってつくられたものである>(自作・じさ)、<他によってつくられたものである>(他作・たさ)
、<両者によってつくられたものである>(共作・ぐうさ)、
<無因である>(無因作)と、ある人々はそれぞれ主張する。しかるにその苦しみは結果として成立するというのは正しくない。
二 もしも苦しみが自らつくられるものであるならば、しからば苦しみは、縁に縁って起こるのではない。何となればこの臨終の五つの構成要素(五蘊)に縁ってかの次の生涯の五つの構成要素(五蘊)が起こるのであるから。
三 もしも臨終のこの構成要素(五蘊)がかの次の生涯の構成要素と異なるのであるならば、あるいはかれがこれよりも異なった他のものであるならば、他のものによってつくられた苦しみがあるであろう。またかの構成要素は、他のものであるこれらの構成要素によってつくられるだろう。
四 もしも苦しみが自分の個人存在(プドガラ)によってつくられるのであるならば、苦しみを自らつくるところのいずれの<自分の個人存在>が、苦しみを離れて、別に存在するのであろうか。
五 もしも苦しみが他の個人存在から生ずるのであるならば、その苦しみが他人によってつくられて、しかも与えられるところのその個人存在は、苦しみを離れて【別のものとして】どこかに存在するのであろうか。
六 もしも苦しみが他の個人存在から生ずるのであるならば、その苦しみをつくって、しかも他人に与えるところの、いかなる<他人の個人存在>が苦しみを離れて別に存在するのであろうか。
七 【苦しみが】自らつくられることが成立しないから、どこに他人によってつくられた苦しみが存在するであろうか。何となれば、他人がつくるところのその苦しみは、その人にとっては自らつくったものであるはずだからである。
八 まず、苦しみは自らつくられたものではない。何となれば、苦しみはそれ自体によってつくられるものではないからである。もしも他人が自らつくったものでないならば、どうして他人のつくった苦しみがあるであろうか。
九 もしも一人一人によってつくられた苦しみがあるならば、自他両者によってつくられた苦しみがあるであろう。しかし、他人がつくったのでもなく、自らつくったのでもない無原因の苦しみがどこにあろうか。
十 苦しみが【つくられるについて】【上述の】四種類が認められないばかりでなく、外にある諸物の【成立についても、上述の】四種類は存在しない。
、<両者によってつくられたものである>(共作・ぐうさ)、
<無因である>(無因作)と、ある人々はそれぞれ主張する。しかるにその苦しみは結果として成立するというのは正しくない。
二 もしも苦しみが自らつくられるものであるならば、しからば苦しみは、縁に縁って起こるのではない。何となればこの臨終の五つの構成要素(五蘊)に縁ってかの次の生涯の五つの構成要素(五蘊)が起こるのであるから。
三 もしも臨終のこの構成要素(五蘊)がかの次の生涯の構成要素と異なるのであるならば、あるいはかれがこれよりも異なった他のものであるならば、他のものによってつくられた苦しみがあるであろう。またかの構成要素は、他のものであるこれらの構成要素によってつくられるだろう。
四 もしも苦しみが自分の個人存在(プドガラ)によってつくられるのであるならば、苦しみを自らつくるところのいずれの<自分の個人存在>が、苦しみを離れて、別に存在するのであろうか。
五 もしも苦しみが他の個人存在から生ずるのであるならば、その苦しみが他人によってつくられて、しかも与えられるところのその個人存在は、苦しみを離れて【別のものとして】どこかに存在するのであろうか。
六 もしも苦しみが他の個人存在から生ずるのであるならば、その苦しみをつくって、しかも他人に与えるところの、いかなる<他人の個人存在>が苦しみを離れて別に存在するのであろうか。
七 【苦しみが】自らつくられることが成立しないから、どこに他人によってつくられた苦しみが存在するであろうか。何となれば、他人がつくるところのその苦しみは、その人にとっては自らつくったものであるはずだからである。
八 まず、苦しみは自らつくられたものではない。何となれば、苦しみはそれ自体によってつくられるものではないからである。もしも他人が自らつくったものでないならば、どうして他人のつくった苦しみがあるであろうか。
九 もしも一人一人によってつくられた苦しみがあるならば、自他両者によってつくられた苦しみがあるであろう。しかし、他人がつくったのでもなく、自らつくったのでもない無原因の苦しみがどこにあろうか。
十 苦しみが【つくられるについて】【上述の】四種類が認められないばかりでなく、外にある諸物の【成立についても、上述の】四種類は存在しない。