釈尊の成道は本覚ではなく始覚成道である(伝えられているお釈迦様のお覚りの姿は密教によるお覚り<本覚>ではなく修業して煩悩を打破して覚るという始覚の方法である)。摩耶夫人に受生してから沙羅双樹下の入滅までの姿は実類(覚ってない)の菩薩、声聞、人天に悲嘆号泣せしめ、荼毘にふして灰となり、舎利となって将来生まれてくるもののために教えを残した。バイシャリーの塔の中には一斛あり。アショカ王は一斗をこの塔に残し、八万四千の塔と五部法身の塔とを建立しておのおのその中に舎利を安置して五印度の佛の遺跡にこれを建てしこと西域記にみえたり。しかし本来、佛には生滅はないので涅槃にお入りになる時に密佛の勧誡をこうむりて真言門に入り、五相成身の秘観(金剛界の修法で行者の身上に月輪等を観想させて本尊の仏身といったいとすること)と三密の法とを授かりて、即ち法位の六大(本来の生まれてきた古里である地水火風空の六要素)、無師自然覚の位に安住して大日と成って即身成仏を唱えたまえること経の中にみえたり。
また弘法大師は用明天皇承和二年三月二一日に高野山の奥の院において入定したまふ。・・その後般若寺の観賢大僧正は御廟の中に入りご対面ありて帝皇より進ぜらるるところの御衣袈裟を召替えさせたてまつり、即身成仏の御口伝等を受けさせ玉ふ。
・・・まさに知るべし自心の外の有為の生滅の法はみなこれ無明がみせしむる所にて、その実はすべて無なれば金剛般若経には「一切有為の法は夢幻泡影のごとく、露の如く、雷の如し」とときたまへり。
このゆえに真言宗徒はそれぞれの自心の五智の如来(大日・阿しゅく・宝生・阿弥陀・釈迦)にこころをとどめて光明真言を唱えるべし。この真言には一切衆生の自心の中の五智の如来と五部の諸尊(金剛界曼荼羅の佛部・金剛部・宝部・蓮華部・羯磨部のなかの諸尊)との光明を説きたる陀羅尼なるがゆえに。
一切の凡夫は僧俗共に生死の有為無常の浪に漂う。光明真言を朝夕唱えればこの根本無明が除かれるのである。
兼好法師の徒然草に
「竹谷の乗順坊(法然門下の碩学)、東二條院(上流階級の姫)にまいられたりけるに、亡者の追善には如何なる事か勝利多きと尋ねさせ玉ひければ、光明真言と宝篋印陀羅尼(注)ともうされたりけるを、弟子どもいかにかくは申したまひけるぞ、念仏にまさること候まじとはなどもうしたまはぬぞと申されければ、我が宗なればさこそもうさはほしかりつれども、正しく称名を追福に修して巨の利益あるべしと説る経文をば見及ばざれば、いかにみえたるぞと重ねて問はばいかが申さんとおもひて本経のたしかなるに付いて真言と陀羅尼とを申しつるなりととぞ申しける。・・」とある。
無上菩提を求る大善根の心にて毎日唱ふる光明真言は三宝の中の宝法にしてこれ常住の法の宝なれば命終して第八識の魂が五蘊の身をすてて来世に赴くときに、毎日光明真言をとなえたる勲功を第八識が執持して他界に赴くなればこれ来世の種となるなり(来世に行くときには、全ての意識行動を蓄えているとされる第八識阿頼耶識に毎日唱えていた光明真言が蓄えられていてこれが来世を導く種となってくれる)。
(注、一切如来心秘密全身舎利寶篋印陀羅尼(一切如来の舎利の功徳により所願成就する陀羅尼との意)
のうまく しっちりや じびきゃなん さらば たたぎゃたなん
おん ぼびばんばだばり ばしゃり ばしゃたい そろ そろ
だらだら さらばたたぎゃた だどだり はんどま
ばんばち じゃやばり ぼだり さんまら たたぎゃた
たらましゃきゃら はらばりたなう ばざら ぼうじまんだ
りょうぎゃらりょうぎりてい さらばたたぎゃた じしゅちてい
ぼうだやぼうだや ぼうじぼうじ ぼうじゃぼうじゃ
さんぼうだに さんぼうだや しゃらしゃらしゃらんと
さらばばだに さらばはんだびぎゃてい ころころ
さらばしゅきゃびぎゃてい さるばたたぎゃた きりだや
ばざらに さんばらさんばら さらばたたぎゃた ぐきや
だらんじ ぼじり ぼでいそぼでい さらばたたぎゃた
じしゅちた だどぎゃらべい そわか
さんまやじしゅちてい そわか さらばたたぎゃた
きりだや だどぼだり そわか そはらちしゅちたさとべい
たたぎゃたじしゅちてい ころころ うんうん そわか
おん さらばたたぎゃた うしゅにしゃ だどぼだらに
さらばたたぎゃたんさだと びぼしたじしゅちていうんうんいそわか
)
また弘法大師は用明天皇承和二年三月二一日に高野山の奥の院において入定したまふ。・・その後般若寺の観賢大僧正は御廟の中に入りご対面ありて帝皇より進ぜらるるところの御衣袈裟を召替えさせたてまつり、即身成仏の御口伝等を受けさせ玉ふ。
・・・まさに知るべし自心の外の有為の生滅の法はみなこれ無明がみせしむる所にて、その実はすべて無なれば金剛般若経には「一切有為の法は夢幻泡影のごとく、露の如く、雷の如し」とときたまへり。
このゆえに真言宗徒はそれぞれの自心の五智の如来(大日・阿しゅく・宝生・阿弥陀・釈迦)にこころをとどめて光明真言を唱えるべし。この真言には一切衆生の自心の中の五智の如来と五部の諸尊(金剛界曼荼羅の佛部・金剛部・宝部・蓮華部・羯磨部のなかの諸尊)との光明を説きたる陀羅尼なるがゆえに。
一切の凡夫は僧俗共に生死の有為無常の浪に漂う。光明真言を朝夕唱えればこの根本無明が除かれるのである。
兼好法師の徒然草に
「竹谷の乗順坊(法然門下の碩学)、東二條院(上流階級の姫)にまいられたりけるに、亡者の追善には如何なる事か勝利多きと尋ねさせ玉ひければ、光明真言と宝篋印陀羅尼(注)ともうされたりけるを、弟子どもいかにかくは申したまひけるぞ、念仏にまさること候まじとはなどもうしたまはぬぞと申されければ、我が宗なればさこそもうさはほしかりつれども、正しく称名を追福に修して巨の利益あるべしと説る経文をば見及ばざれば、いかにみえたるぞと重ねて問はばいかが申さんとおもひて本経のたしかなるに付いて真言と陀羅尼とを申しつるなりととぞ申しける。・・」とある。
無上菩提を求る大善根の心にて毎日唱ふる光明真言は三宝の中の宝法にしてこれ常住の法の宝なれば命終して第八識の魂が五蘊の身をすてて来世に赴くときに、毎日光明真言をとなえたる勲功を第八識が執持して他界に赴くなればこれ来世の種となるなり(来世に行くときには、全ての意識行動を蓄えているとされる第八識阿頼耶識に毎日唱えていた光明真言が蓄えられていてこれが来世を導く種となってくれる)。
(注、一切如来心秘密全身舎利寶篋印陀羅尼(一切如来の舎利の功徳により所願成就する陀羅尼との意)
のうまく しっちりや じびきゃなん さらば たたぎゃたなん
おん ぼびばんばだばり ばしゃり ばしゃたい そろ そろ
だらだら さらばたたぎゃた だどだり はんどま
ばんばち じゃやばり ぼだり さんまら たたぎゃた
たらましゃきゃら はらばりたなう ばざら ぼうじまんだ
りょうぎゃらりょうぎりてい さらばたたぎゃた じしゅちてい
ぼうだやぼうだや ぼうじぼうじ ぼうじゃぼうじゃ
さんぼうだに さんぼうだや しゃらしゃらしゃらんと
さらばばだに さらばはんだびぎゃてい ころころ
さらばしゅきゃびぎゃてい さるばたたぎゃた きりだや
ばざらに さんばらさんばら さらばたたぎゃた ぐきや
だらんじ ぼじり ぼでいそぼでい さらばたたぎゃた
じしゅちた だどぎゃらべい そわか
さんまやじしゅちてい そわか さらばたたぎゃた
きりだや だどぼだり そわか そはらちしゅちたさとべい
たたぎゃたじしゅちてい ころころ うんうん そわか
おん さらばたたぎゃた うしゅにしゃ だどぼだらに
さらばたたぎゃたんさだと びぼしたじしゅちていうんうんいそわか
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