福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

人間は霊性的自覚で不条理を超えられる(鈴木大拙「仏教の大意」)

2024-02-08 | 法話

人間は霊性的自覚で不条理を超えられる

「パスカルは人間を思惟する葦だと言ひますが、この思惟または思想を観照の意義にとってはなりません。観照とか禅観とか静慮とかいふことも大事には相違ありません。・・(しかし)霊性的自覚にはこれ以上のものがあります。静観とか瞑想とかいふとそこには二元性のものがあります。観ずるものと観ざられるものといふやうに能・所(自分・対象)があり、主客があります。霊性的に自覚することは、自覚なき自覚であるので、全く絶対性をもったものです。千差万別の分別界では因果だの業だの価値だのといふものがあります。知性としての人間はこれを無視するわけにはいかない、即ちその中に「落」ちるより外ないのです。併し只、霊性的自覚といふ一些子があるので人間は「無寒暑」のところに住むことができるのです、「不落因果」(注3)を体認することができるのです。宇宙そのものは無意味で無価値で三文銭に直らぬが、人間の霊性的自覚によりて無価の値を得るのです。・・

人間が宇宙より大だといふのは是の故です(注1)。時間空間からみれば人間は如何にもか弱いものです。が、霊性の上からすると、人間には従って宇宙には測り知られぬ尊厳があります。赤裸々になった人間、社会的地位も勢力もなにもない人間、この人間が持ち得る霊性的自覚の故に、「天上天下唯我独尊」と絶叫せられるのです。さうして此の一大肯定に達するの途はあらゆる人間の悩み・・知性的に道徳的に多くの悩みを経過することによりて始めて到り得られるところのものです。畢竟如何、いわく、「寒時には闍梨を寒殺し、熱時には闍梨を熱殺す(注2)」(鈴木大拙「仏教の大意」)

 

 

(注1)「興禅護国論の序」

「大宋国の天台山留学、日本国の阿闍梨、伝燈大法師位、栄西跋す

大いなる哉、心や。天の高きは極むべからず、しかるに心は天の上に出ず。地の厚きは測るべからず、しかるに心は地の下に出ず・・・」

(注2)『碧巌録』第四十三則 

「挙す。僧、洞山に問う、『寒暑到来す、如何が回避せん』。山云く、『何ぞ無寒暑の処に向かって去らざる』。僧云く、『如何なるか是れ無寒暑の処』。山云く、『寒時は闍黎を寒殺し、熱時は闍黎を熱殺す』。」ここで「寒暑」とは人生の生老病死に表される『苦・不条理』であろうと思われます。「苦・不条理」を避けるにはどうすればよいかと問われて霊性を自覚することにより不条理になりきれということでしょうか?。

 

(注3)「無門関第二則・百丈野狐」

 

「百丈和尚、凡(およ)そ参の次で、一老人有って常に衆に随って法を聴く。衆人退けば老人も亦た退く。忽ち一日退かず。師遂に問う「面前に立つ者は復た是れ何人ぞ」老人云く、「諾、某甲は非人。過去、迦葉仏の時に於て曾て此の山に住す。因みに学人問う、大修行底の人還って因果に落ちるや。某甲対へて云く「因果に落ちず」。五百生野狐身に堕す。

今請う、和尚一転語を代わって貴えに野狐を脱せしめよ」と。遂に問う「大修行底の人、還って因果に落つるや」。師云く「因果を昧(くらま)さず」。

老人言下に大悟し、作礼して云く「某甲、已に野狐身を脱して山後に住在す。敢て和尚に告ぐ、乞ふらくは、亡僧の事例に依れ」。

師、維那をして白槌して衆に告げしむ、「食後に亡僧を送らん」と。大衆言議すらく「一衆皆な安し、涅槃堂に又た人の病む無し。何が故ぞ是くの如くなる」と。

食後に只だ師の衆を領して山後の嵒下(がんか)に至って、杖を以て一死野狐を挑出し、乃ち火葬に依らしむるを見る。師、晩に至って上堂、前の因縁を挙す。

黄蘗便ち問う、「古人錯って一転語を祗対(しつい)し、五百生野狐身に堕す。転々錯らざれば合(まさ)に箇の甚麼か作るべき」。師云く「近前来、伊(かれ)が与めに道はん」。黄蘗遂に近前して、師に一掌を与ふ。師、手を拍って笑って云く、「将に謂へり胡鬚赤と。更に赤鬚胡有り」

 

無門曰く「不落因果、甚と為か野狐に堕す。不昧因果、甚と為てか野狐を脱す。若し者裏(しゃり)に向って一隻眼を著得せば、便ち前百丈の風流五百生を贏(か)ち得たることを知り得ん」。頌に曰く「不落と不昧と、両采一賽(さい)。不昧と不落と、千錯万錯。」

 

 

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