第二二課 敵、味方
一、敵が相手側にばかりあるかと思えば自分の中にもあります。自分の中にある敵を「反省」といいます。
「反省」が出て来るということは辛いものです。自分が二派に分れてその一方が今まで味方だとばかり思っていた一方の自分をたちまち衣を奪って追い散らすのですから、そして新しく起った自分の中の敵が勝鬨かちどきを挙げるのですから、こんな苦々しい事はありません。
しかし、この苦々しさを身内で繰返して置くときは、外の本当の敵に向ったとき、もはや演習済みですから、大変楽です。その敵対処置を知っていてぴしぴしと節に当った処置が出来るのですから、反省の深刻なのは懺悔す。真理の前に、真理ならぬ自分の部分を責め捨て責め捨てして遂に真理に沿う自分にします。ただ懺悔の一法だけで道に達することも出来るのです。懺悔ということは決して弱いものには出来ません。よほど自己完成欲の強いものでなくては出来ません。
(所願成就の祈願や、法要でその成否はこの懺悔がいかに深くできたかによるとされます。勤行でも最初に懺悔がきます。それほど懺悔はたいせつということです。みているとこの懺悔ができない人は運勢も開けていません。)
二、敵となり味方となるのはまだ縁のある方だとするのが大乗仏教の建前です。敵でもなし味方でもない中途の相手が一番自分にとってつまらない無意義な存在です。
法華経提婆品だいばぼんには、釈尊が自分の生涯の深刻な敵であった提婆達多だいばだったに対し、自分に敵であった縁によって将来自分同様な人格完成の見込みのあることを証明されております。鉛も金をこすり合えば多少金がこすり付く道理です。
はじめ先生にひどく楯を突いた生徒が、何かのきっかけでうって変った仲好しになり、卒業後も永く交際を続けて行く例など、案外たくさん聞くことです。そうして、その当時の同級生でただ馴染んでいたものは却って、それきりになってしまっているというのです。
この道理から推して、「敵を一番憎む方法はその敵を何とも思わないことだ」といった人があります。深刻な言葉です。(さらに敵を完膚なきまでにやっつけたい人には「最大の復讐は感謝である」という言葉を送りまます。・・講元)
敵でも本当に力が出し合える敵なら、敵ではなく先生です。負かされて感心するような敵を見出したいものです。
(説法明眼論に聖徳太子は「・・或ハー郡二住シ。戒ハー懸二處シ。或ハー村二處シ。一樹ノ下二宿シ。一河ノ流ヲ汲ミ、一衣ノ同宿、一日ノ夫妻、一所ノ聴聞、暫時ノ同道、半時ノ戯笑、一言ノ会釈、一坐ノ飲酒、同杯同酒、一時ノ同車、同畳ノ同坐、同詠ノー臥、軽重に異有リ。親疎に別有ルモ皆是れ先世ノ結縁ナリ。・・」として縁は前世から続いているとおっしゃいました。敵味方という関係も前世からの深い縁です。・・講元)