第二一課 橋は流れて水は流れず
私たち鰹節をナイフで削るときには、鰹節を確しかと握り押えてナイフの方を動かして削ります。鰹節を橋とし、ナイフを水としますと、この場合は、この章の標題とは反対の「水は流れて橋は流れず」であります。それは当然あたりまえのことです。
しかし、鰹節削りの鉋が出来て鰹節を削るときには、今度は鰹節の方を動かします。この場合には橋に譬えた鰹節の方を動かし、水に譬える鉋は動かさないのですから、「橋は流れて水は流れず」です。
物事は、時と場合で自由な考え方、自由な使い方をしなければならない。鰹節を削るのには必ず鰹節を握り押えて削るもの、すなわち「水は流れて橋は流れず」の一方ばかりの考え方に凝り固まっている人は、折角鰹節削りの鉋箱が出来ても、どこまでも鰹節の方を動かしてはならぬものとして、鉋箱を逆さかさまにして鰹節に宛てがうでしょう。それでは不便で仕方がありません。
しかし鰹節と鉋の関係の融通ぐらいは、簡単なことですから誰でも無意識に自然にやっていて、別に大した考えを費さなくとも済みます。しかしもっと重大な事件に出合うと人間というものは案外、習慣や型に捉われて、なかなか自由な考え方で適切な処置をつけかねます。そこで、そういう捉われた頭を変換さすために仏教の禅語で「橋は流れて水は流れず」というような奇妙な言葉を、わざと言い出して、ちょっと人の気を抜くのです。禅語にはかなり沢山、こういう奇妙な言葉があります。普通は「水は流れて橋は流れず」です。それを逆にしたのは、つまり、物事の相対性を言ったのです。私たちが日常向い合っている物事について、私たちが考えたり、行為したりする態度を自由にしなさいと訓おしえた言葉です。この自由な、融通の利く考え方をしなければ、太陽ばかり動いて地球の廻転運行なぞは思いも及ばなかったでしょう。
(天動説というと橋本凝胤師のことを思い出します。薬師寺123代管主と法相宗管長をつとめ昭和の怪僧といわれ生涯独身であった橋本凝胤師は経典を信じるとして天動説を説き(倶舎論等の仏典では須弥山の周りに日月もまわっている、このような須弥山が10億あるとされました)、週刊朝日誌上で徳川夢声と激論をたたかわせています。現代文明に対する批評だったとされます。子供のころこの論争をどこかで読んで橋本凝胤師にあこがれたものでした。現在では、インフレーション理論・ビッグバン理論・ひも理論など宇宙論はさまざまですがいずれも単純な地動説などではないことはたしかです。むしろ仏教の宇宙論、四劫説(宇宙は成・住・壊・空劫を繰り返す)に近ずいてきているのです。)