どうしても祈願しなければおさまらない事が出来て自宅の御大師様や川崎大師に祈願しました。昨年は不首尾でした。(しかしこれは今になってみると不首尾の方が結果としてよかったことが後でわかりました。不首尾の方がよい時は「自利」のみを祈願しており結果として不首尾に終わっているということに気が付きました)今は利他を祈願して霊験を頂きつつあります。
エゴ的祈願を止めて、「どうか人々の苦しみがすこしでも和らぎますように」と利他心のみで額着いて拝んでいます。すると一週間もしないうちに事態は好転し始めました。
此のブログでも何度も出しましたが、利他を先に拝むとかえって自利となることが図らずも証明されました。自利利他ではなく「利他自利」です。
この「利他」が「自利」となることの根拠を出しておきます。
1、仏説毘沙門天功徳経に「若し人ありて我が福を得んと欲せば、 五戒を持ち、三帰して 無上菩提を願求せば決定して施与して 一切於毘沙門の福を成就することを得ん。願ふ所は五種あるべし。 一は 父母孝養の為、 二は 功徳善根の為、三は 国土豊饒の為、四は 一切衆生の為、五は 無上菩提の為に願ふべし。若し人ありて此の五種の心を除いて(自利のみを)ねがうとも福を得るべからず。」
2、夢中問答集(無窓疎石)に「もし人正念に住して或ひは道行を成ぜむがため、或ひは他人を利益せむがために現報を祈り変へむと思ひて仏力・法力によりて至誠心にて修せば定業なりとも必ず転ずべし。・・若し人凡上の執着によりて命を延べたく福を保ちたき故に祈るならば、かやうの欲心は仏心と冥合せざるゆえに感応あるべからず。」
3、金沢雲龍寺住職、荒崎良徳師の「般若心経に救われた私」(大法輪22年8月号)
「昭和58年私(荒崎)は大きな苦しみに出会い、自殺を考えるに至った。・・私は布施波羅蜜多を行じようと思い立った。 僧侶として布施できるものは『法』しかないとおもい各宗派の高僧にきてもらい苦しみ真只中の58年に「金沢南無の会」を立ち上げた。この会を続けていくうち、各宗の高僧の法話と聴衆の鋭い質問に自身も広く新しい世界に踏み込めた。写経するようになり其の中で無限に広がる仏様の世界に身を委ねることができるようになった。自殺を考えていた過去が遠い夢の中のように思える。」
4、「両手両足のない中村久子の言葉」「人間には絶え間のない苦しみがある。夫に先立たれた妻、子に死なれた親、一生身動きすらもできないお気の毒な方もあります。どんな境遇の人でも、その苦しみや、かなしみを、ぐちや、不平で終わることなく、それを喜びにかえていただくことが、善知識と思わせいただき、われ一人の助かりでなく、人さまにも喜びをお分けさせていただくのでございます。」(黒瀬昇次郎『中村久子の生涯』)