法華玄義に示すが如く三諦の名は瓔珞経等に出、また法華経等に其義あるも、天台の三諦観は慧文禅師が龍樹菩薩の中観論の「因縁所生の法は、我即ち是れ無なりと説く。亦た是れ仮名と為す。亦是れ中道の義なり。{因縁によって生まれたものは、我々は空と説く。それは仮のものであって、それはまた真理でもある。}中論:第24章18詩)なる偈文に依り三諦の玄義を悟り、以てこれを慧思禅師に授け、慧思より智者大師へ傳へたるものである。
されば止観に中論の文を引用し、三諦の妙理を解するを見るも、中観論の三諦観と智者の三諦観と全く同じからざることは、かの龍樹の空観的実相観と三千円具の実相観と遮表(否定から入る考えと肯定から入る考え)同じからざるが如くである。しかも今比等の詳述を略し天台の意によって三諦を解せば一切法は無自性にして三千の法を具するが故に、凡夫の迷情を以て、かれは人なりこれは天なり等と、一相を取って定むべからず、もしかかる一相をとって執せんか、具三千の法の自性に契はざれば、みな破せざるべからず、かく諸法無自性にして、一相に住せざるを空といふ。
また法の本体に定まれる自性なきが故に縁に随って用(働き)を異にす、即ち浄縁に随って佛菩薩等の境界顕はれ、染縁に依って悪趣の境界現ずるを仮と云ふ。かく法の上には定まれる自性なきが故に染浄の縁に随って種々の境を現ずるはこれ空のゆえに仮なり。また縁に随って種々の法と顕はさるるも無自性の故に一相をとって定執すべからず、これ仮の故に空なり、かく空と仮とは同体にして待対を絶するを中諦といふ、かくのごとく空仮中の三諦は只一法に具する所の徳にして、その体(本質)三ならず、三一相即なるを円融の三諦といふ。
湛然の止観大意に三千三諦の理を釈して曰く
「一一の心中に一切心あり。一一の塵の中に一切塵あり。一一の心中に一切塵あり、一一の塵中に一切心あり。一一の塵中に一切刹あり。一切刹塵も復然り。諸法、諸塵、諸刹身、其の体宛然として自性無く、無性にして本来物に随って変ず。所以に相入れども、事は恒に分かたる。故に我が身心、刹塵に遍す。諸仏、衆生も亦復然り、一一の身上の体、恒に同じけれども、何ぞ心・仏・衆生の異なることを妨げん。異の故に染浄の縁を分かつ。縁の体は本と空空にして空ならず。三諦三観三にして三に非ず。三と一、一と三、寄る所無し。諦観を別體と名ずけて復同じ。是の故に能所、二にして二に非ず。(是くの如く観ずる時を心性を観ずと名づく。隨縁にして不変なるが故に性と為し、不変にして隨縁なるが故に心と為す。故に涅槃経に云く『能く心性を観ずるを上定と為す』と。上定は第一義と名づけて仏性と為し、仏性は毘盧遮那と名づく)」(一々の心に一切の心があり、一々の塵のなかに一切の塵があり、一一の塵のなかに一切の心があり、一々の塵のなかに一切の国がある。諸法、諸塵、諸のところの身など其の本質は宛然として自性無く、無性にして本来物に随って変ず。所以にお互いに相入れども、事象は恒に別に顕れる。故に我が身心は宇宙に遍す。諸仏、衆生も本質は同じであるけれども、縁によって異なる。また染と浄とに分かつことができるが、しかし、その異なりや染・浄の縁も本来は空であるから固定的に捉えてはならい。更に空なることにこだわってもならない。空・仮・中という(三つの真理)三諦 から観想する空観・仮観・中観の三つの観想は三であって三でないのである。
されば止観に中論の文を引用し、三諦の妙理を解するを見るも、中観論の三諦観と智者の三諦観と全く同じからざることは、かの龍樹の空観的実相観と三千円具の実相観と遮表(否定から入る考えと肯定から入る考え)同じからざるが如くである。しかも今比等の詳述を略し天台の意によって三諦を解せば一切法は無自性にして三千の法を具するが故に、凡夫の迷情を以て、かれは人なりこれは天なり等と、一相を取って定むべからず、もしかかる一相をとって執せんか、具三千の法の自性に契はざれば、みな破せざるべからず、かく諸法無自性にして、一相に住せざるを空といふ。
また法の本体に定まれる自性なきが故に縁に随って用(働き)を異にす、即ち浄縁に随って佛菩薩等の境界顕はれ、染縁に依って悪趣の境界現ずるを仮と云ふ。かく法の上には定まれる自性なきが故に染浄の縁に随って種々の境を現ずるはこれ空のゆえに仮なり。また縁に随って種々の法と顕はさるるも無自性の故に一相をとって定執すべからず、これ仮の故に空なり、かく空と仮とは同体にして待対を絶するを中諦といふ、かくのごとく空仮中の三諦は只一法に具する所の徳にして、その体(本質)三ならず、三一相即なるを円融の三諦といふ。
湛然の止観大意に三千三諦の理を釈して曰く
「一一の心中に一切心あり。一一の塵の中に一切塵あり。一一の心中に一切塵あり、一一の塵中に一切心あり。一一の塵中に一切刹あり。一切刹塵も復然り。諸法、諸塵、諸刹身、其の体宛然として自性無く、無性にして本来物に随って変ず。所以に相入れども、事は恒に分かたる。故に我が身心、刹塵に遍す。諸仏、衆生も亦復然り、一一の身上の体、恒に同じけれども、何ぞ心・仏・衆生の異なることを妨げん。異の故に染浄の縁を分かつ。縁の体は本と空空にして空ならず。三諦三観三にして三に非ず。三と一、一と三、寄る所無し。諦観を別體と名ずけて復同じ。是の故に能所、二にして二に非ず。(是くの如く観ずる時を心性を観ずと名づく。隨縁にして不変なるが故に性と為し、不変にして隨縁なるが故に心と為す。故に涅槃経に云く『能く心性を観ずるを上定と為す』と。上定は第一義と名づけて仏性と為し、仏性は毘盧遮那と名づく)」(一々の心に一切の心があり、一々の塵のなかに一切の塵があり、一一の塵のなかに一切の心があり、一々の塵のなかに一切の国がある。諸法、諸塵、諸のところの身など其の本質は宛然として自性無く、無性にして本来物に随って変ず。所以にお互いに相入れども、事象は恒に別に顕れる。故に我が身心は宇宙に遍す。諸仏、衆生も本質は同じであるけれども、縁によって異なる。また染と浄とに分かつことができるが、しかし、その異なりや染・浄の縁も本来は空であるから固定的に捉えてはならい。更に空なることにこだわってもならない。空・仮・中という(三つの真理)三諦 から観想する空観・仮観・中観の三つの観想は三であって三でないのである。