ここにおいて、上の理事に各々惣別ある教意を会すべきである。即ち體用同時、事即理なるゆゑ、事の総別が即く理の総別である。
十界三千の事造差別しながら、事と事と互に摂融し、一を挙ぐれば一切は一の惣に趣き、而も一切諸法の各々自性を失はざるを事造三千の総別といひ、而も三千の法を、體一互融の理具の性より観るとき、三千互融の理體の中に於て、一を挙ぐればその一に一切を摂し、而も自余の一切其自體失はざる惣別の義あり、されば三千の法體における一の惣別を、理具の方面より見て理の惣別といひ事の方面よりみて事の惣別といふ。
十不二門指要鈔(ブリタニカ大百科辞典によると「中国,宋の知礼の著。湛然の『十不二門』に対する注釈書で,観心の対象が妄念を離れた純粋な心であるとする山外派の主張に対して,一心三観などの瞑想法の対象となるのは,迷っている状態のままの心であると主張し,天台宗教学をもとの形に復することをねらいとしている。」とされます)に理事の惣別を明かし、理事共に惣は一念なりとせるは如上の意によるものである。かく十界三千の宛然と並び立ち、而も一性無性體一互融、事理同時なる妙體を実相といひ、本覚の體となす。
しかして現前の色心が具三千の実相の體なることを知らるるは、三千の法體に空仮中の三諦の徳を具せるによる。
喩へば日輪の體に具へたる光の徳用に依りて、日輪の體の顕はるるが如く、三千の法體に三諦の性徳を具するが故に、一念心が具三千の妙法體なることが顕るるのである。
十界三千の事造差別しながら、事と事と互に摂融し、一を挙ぐれば一切は一の惣に趣き、而も一切諸法の各々自性を失はざるを事造三千の総別といひ、而も三千の法を、體一互融の理具の性より観るとき、三千互融の理體の中に於て、一を挙ぐればその一に一切を摂し、而も自余の一切其自體失はざる惣別の義あり、されば三千の法體における一の惣別を、理具の方面より見て理の惣別といひ事の方面よりみて事の惣別といふ。
十不二門指要鈔(ブリタニカ大百科辞典によると「中国,宋の知礼の著。湛然の『十不二門』に対する注釈書で,観心の対象が妄念を離れた純粋な心であるとする山外派の主張に対して,一心三観などの瞑想法の対象となるのは,迷っている状態のままの心であると主張し,天台宗教学をもとの形に復することをねらいとしている。」とされます)に理事の惣別を明かし、理事共に惣は一念なりとせるは如上の意によるものである。かく十界三千の宛然と並び立ち、而も一性無性體一互融、事理同時なる妙體を実相といひ、本覚の體となす。
しかして現前の色心が具三千の実相の體なることを知らるるは、三千の法體に空仮中の三諦の徳を具せるによる。
喩へば日輪の體に具へたる光の徳用に依りて、日輪の體の顕はるるが如く、三千の法體に三諦の性徳を具するが故に、一念心が具三千の妙法體なることが顕るるのである。