三千は法の体にして三諦は法の徳なり、しかして三諦の性徳が人にあって修徳の智慧となり、空仮中の円融の性徳を観ずるを三観といふ。一心この観に住せば、迷情のために隔てられし依正色心の差相民泯亡し、本有融妙の三千の実相顕現し、一切國土は毘盧遮那の寂光土と顕はれ、一切衆生は毘盧遮那の妙体妙用を現成するに至るのである。
凡そ佛教は因縁生無自性、無我の理を説き、人をして其の玄旨を体せしめんとするものである。即ち因縁生無常無我の理を明かし人をして人空無我の理を證せしめんとするは小乗仏教にして、個体を人法二空一切皆空の理に即せしめんとするは、唯識、三論宗等の教、また個別体を真如無相の理に即せしめんとするものは、起信論等の所説である。
しかして此等大乗佛教は性相の相即不離の理を明かすも要は九界衆生の個別体を、一如真如の理に帰没せしめんとするものである。しかるに天台にては三千円融の理を説き、理事各々惣別ある秘旨を談じ、十界の差相その當体を動ぜず、各々法界の主となる理趣を明かす、これ天台にて他家には事理相即の語あるも、相即の円旨を知らず、天台独りその実義を開演すとなすゆえんである。
しかも真言密教より観れば、個体を法性空に帰没する旨を明かす天台以外の諸教も個体に即して三千融妙の実相を体する秘義を開演する天台の説も、凡て人を仮とし法を實とし仮なる人を遮し、實なる法に帰せんとする宗極に至っては、その旨趣を同じうするものといふべきである。
凡そ佛教は因縁生無自性、無我の理を説き、人をして其の玄旨を体せしめんとするものである。即ち因縁生無常無我の理を明かし人をして人空無我の理を證せしめんとするは小乗仏教にして、個体を人法二空一切皆空の理に即せしめんとするは、唯識、三論宗等の教、また個別体を真如無相の理に即せしめんとするものは、起信論等の所説である。
しかして此等大乗佛教は性相の相即不離の理を明かすも要は九界衆生の個別体を、一如真如の理に帰没せしめんとするものである。しかるに天台にては三千円融の理を説き、理事各々惣別ある秘旨を談じ、十界の差相その當体を動ぜず、各々法界の主となる理趣を明かす、これ天台にて他家には事理相即の語あるも、相即の円旨を知らず、天台独りその実義を開演すとなすゆえんである。
しかも真言密教より観れば、個体を法性空に帰没する旨を明かす天台以外の諸教も個体に即して三千融妙の実相を体する秘義を開演する天台の説も、凡て人を仮とし法を實とし仮なる人を遮し、實なる法に帰せんとする宗極に至っては、その旨趣を同じうするものといふべきである。