神道は祭天の古俗(明治24年)・・5
文科大学(東京大学)教授 久 米 邦 武
太神宮も天を祭る
伊勢太神宮には。三神器の鏡劔を(後に劍は尾張熱田太神宮)齋奉ること。普く世の知所なるべし。此鏡は古事記に太神宮の詔を記して。專爲我御魂而如拜吾前伊都岐奉(もはらわがみたまとして、わがまへをいつくがごといつきまつれ)〕とあれば。俗に太神を祠ると思ふも無理ならねど。是も實は天を祭るなり。我御魂の字に注意すべし。此に適例あり。大三輪社は。書紀一書に〔大己貴神曰唯然。廼知汝是吾之幸魂奇魂、今欲何處住耶。對曰。吾欲住於日本國之三諸山。故即營宮彼處。使就而居。大三輪神之神也(大己貴神の曰はく、「唯然なり。廼ち知りぬ、汝は是吾が幸魂奇魂なり。今何処にか住まむと欲ふ」とのたまふ。対へて曰はく、「吾は日本国の三諸山に住まむと欲ふ」といふ。故、即ち宮を彼処に営りて、就きて居しまさしむ。此、大三輪の神なり。(日本書紀・舎人親王(720))と見えて。大己貴神の自ら幸魂奇魂を祠たる所なり。魂とは天の靈顯をいふ。さなくては己が己の魂を崇拜するの理あらんや。大神の我御魂と詔給へるも正にこれに同し。又(日本書紀)垂仁紀に〔故随大神教。立其祠於伊勢國。因興齋宮於五十鈴川上。是謂磯宮。乃天照大神始自天降之處也(故に大神の敎の隨に、其の祠、伊勢國に立つ。因りて、齋宮を五十鈴の川上に興つ。是を磯宮と謂ふ。則ち天照大神の始めて天より降ります處なり。)〕とあるを熟看すべし。始自天降之處とは。天孫瓊々杵尊西降の時。猿田彦大神の〔吾則應到伊勢之狹長田五十鈴川(吾則ち應じて伊勢の狹長田の五十鈴川に到らむ)〕(紀一書)といひたるに考合すれば。其時天照大神は。高天原(大倭)より伊勢に遷都ありて。東國を經營し給へると思はる。磯宮は其宮址なれは。大神の在す時も必す新嘗殿齋服殿を造りて天を祭り。其大殿にて政事を裁せらるゝこと。崇神以前の式の如くにてあるべし。外宮は其離宮なり。古事記傳に。外宮(トツミヤ)は師の祝詞考に。萬葉集なる登都美夜(トツミヤ)の例を引て其は常の大宮の外に建置れて行幸ある宮を云なれば、即天皇の宮にして。別に主あることなし。然れば此伊勢の外宮も。五十鈴宮の外宮にして。天照大御神の宮なりと云たるは、昔より比なき考にして信に然ることなり。然れば元來有し天照大御神の外宮に豐受大神をば鎭祭たるなりとあるは、本居氏諸説の中に、最價値ある金言なり。故に外宮は豐受姫を祠るに非す。磯宮の外宮なり。又磯宮は天照大神を祠るに非す。其大宮の跡に神鏡を齋奉りたるなり。大三輪社には。今も寶殿を造らす。只拜殿のみなりと。是は三諸山を幸魂奇魂の鎮まる所として崇拜し。別に神體を齋かさればなるべし。伊勢・三輪兩神宮の起りは此の如し。皆天を祭るなり。然れども伊勢は天照大神の御魂にて、三輪は大國魂の御魂といへば。直に其人を祭るが如く聞ゆ。因て早き時代より伊勢を天神。三輪を地祇と別ち。之を推究むれば。亦人鬼崇拜の堂の如くにも聞ゆ。因て後世に伊勢を大廟などゝ誤稱するものあり。其は次に辨明すべし。又天照大神の徳を日に比べて天照と申し。大日孁貴と申奉る。故に五瀬命ハ我日神子孫而向日征虜。此逆天道也(日本書紀・神日本磐余彦天皇「今、日神の子孫にして、日に向ひて虜を征つ。此は天道に逆れる也」)と云給ひ。聖武帝は東大寺に大佛を鑄造し給へり。毘廬遮那佛は大日如來なれば。大神を其權化と信し給ふ故なり。天に在て最も人に功用の顯著なるは、日輪に過るものなし。因て大神の徳を賛稱したるにて。大神は日輪のことには非す。又日を天と思ひたるにも非す。大神は天の代表者と信し。日に比べたるなり。大神宮は其詔に我前に拜むが如くせよとの旨に從ひて、其御魂を拜む所なり。漢土の宗廟に國祖を天に配亨するとは大に異なり。
文科大学(東京大学)教授 久 米 邦 武
太神宮も天を祭る
伊勢太神宮には。三神器の鏡劔を(後に劍は尾張熱田太神宮)齋奉ること。普く世の知所なるべし。此鏡は古事記に太神宮の詔を記して。專爲我御魂而如拜吾前伊都岐奉(もはらわがみたまとして、わがまへをいつくがごといつきまつれ)〕とあれば。俗に太神を祠ると思ふも無理ならねど。是も實は天を祭るなり。我御魂の字に注意すべし。此に適例あり。大三輪社は。書紀一書に〔大己貴神曰唯然。廼知汝是吾之幸魂奇魂、今欲何處住耶。對曰。吾欲住於日本國之三諸山。故即營宮彼處。使就而居。大三輪神之神也(大己貴神の曰はく、「唯然なり。廼ち知りぬ、汝は是吾が幸魂奇魂なり。今何処にか住まむと欲ふ」とのたまふ。対へて曰はく、「吾は日本国の三諸山に住まむと欲ふ」といふ。故、即ち宮を彼処に営りて、就きて居しまさしむ。此、大三輪の神なり。(日本書紀・舎人親王(720))と見えて。大己貴神の自ら幸魂奇魂を祠たる所なり。魂とは天の靈顯をいふ。さなくては己が己の魂を崇拜するの理あらんや。大神の我御魂と詔給へるも正にこれに同し。又(日本書紀)垂仁紀に〔故随大神教。立其祠於伊勢國。因興齋宮於五十鈴川上。是謂磯宮。乃天照大神始自天降之處也(故に大神の敎の隨に、其の祠、伊勢國に立つ。因りて、齋宮を五十鈴の川上に興つ。是を磯宮と謂ふ。則ち天照大神の始めて天より降ります處なり。)〕とあるを熟看すべし。始自天降之處とは。天孫瓊々杵尊西降の時。猿田彦大神の〔吾則應到伊勢之狹長田五十鈴川(吾則ち應じて伊勢の狹長田の五十鈴川に到らむ)〕(紀一書)といひたるに考合すれば。其時天照大神は。高天原(大倭)より伊勢に遷都ありて。東國を經營し給へると思はる。磯宮は其宮址なれは。大神の在す時も必す新嘗殿齋服殿を造りて天を祭り。其大殿にて政事を裁せらるゝこと。崇神以前の式の如くにてあるべし。外宮は其離宮なり。古事記傳に。外宮(トツミヤ)は師の祝詞考に。萬葉集なる登都美夜(トツミヤ)の例を引て其は常の大宮の外に建置れて行幸ある宮を云なれば、即天皇の宮にして。別に主あることなし。然れば此伊勢の外宮も。五十鈴宮の外宮にして。天照大御神の宮なりと云たるは、昔より比なき考にして信に然ることなり。然れば元來有し天照大御神の外宮に豐受大神をば鎭祭たるなりとあるは、本居氏諸説の中に、最價値ある金言なり。故に外宮は豐受姫を祠るに非す。磯宮の外宮なり。又磯宮は天照大神を祠るに非す。其大宮の跡に神鏡を齋奉りたるなり。大三輪社には。今も寶殿を造らす。只拜殿のみなりと。是は三諸山を幸魂奇魂の鎮まる所として崇拜し。別に神體を齋かさればなるべし。伊勢・三輪兩神宮の起りは此の如し。皆天を祭るなり。然れども伊勢は天照大神の御魂にて、三輪は大國魂の御魂といへば。直に其人を祭るが如く聞ゆ。因て早き時代より伊勢を天神。三輪を地祇と別ち。之を推究むれば。亦人鬼崇拜の堂の如くにも聞ゆ。因て後世に伊勢を大廟などゝ誤稱するものあり。其は次に辨明すべし。又天照大神の徳を日に比べて天照と申し。大日孁貴と申奉る。故に五瀬命ハ我日神子孫而向日征虜。此逆天道也(日本書紀・神日本磐余彦天皇「今、日神の子孫にして、日に向ひて虜を征つ。此は天道に逆れる也」)と云給ひ。聖武帝は東大寺に大佛を鑄造し給へり。毘廬遮那佛は大日如來なれば。大神を其權化と信し給ふ故なり。天に在て最も人に功用の顯著なるは、日輪に過るものなし。因て大神の徳を賛稱したるにて。大神は日輪のことには非す。又日を天と思ひたるにも非す。大神は天の代表者と信し。日に比べたるなり。大神宮は其詔に我前に拜むが如くせよとの旨に從ひて、其御魂を拜む所なり。漢土の宗廟に國祖を天に配亨するとは大に異なり。