福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「神儒仏道基一体論」改め、「神儒仏道基回一体論」・・4

2016-04-09 | 諸経

4、イスラム教も仏教と同じ

「意識と本質―東洋哲学の共時的構造化の為に(井筒俊彦)」ではイスラムも仏教と同じ基盤に立つ、と言っています。

「経験界で出会う事物、あらゆる事象についてその「本質」を捉えようとする、ほとんど本能的とってもいいような内的性向が人間誰にでもある。・・考えてみれば我々の日常的意識の働きそのものが実は大抵の場合、様々な『本質』認知の上になりたっているのだ。
・・サルトル的「嘔吐」の場合あの瞬間に意識の深層が垣間見られることは事実である。もともと言語脱落と本質脱落とかということ自体が深層意識的事態なのであって、それだからこそ「存在」が無節分のままに顕現するのだ。しかしサルトルあるいは『嘔吐』の主人公は深層意識の次元に身を据えてはいない。そこから、その立場から存在世界の実相を見るということは彼にはできない。それだけの準備ができていないのである。だから絶対無分節の『存在』の前に突然立たされて彼は狼狽する。仏教的表現を使っていうなら、世俗諦的意識の働きに慣れ、世俗諦的立場に身を置き、世俗諦的にしかものをみることのできない人は、たまたま勝義諦的事態に触れることがあっても、そこのただ何か得体のしれない、ぶよぶよした、淫らな塊しか見ないのである。実は東洋の伝統ではそのような次元での『存在』こそ神、或いは神以前のもの、例えば荘子の斉物論(注1)の根拠となる「混沌」、華厳の事事無礙・理事無礙の究極的基盤としての『一真法界』(注2)、イスラムの存在一性論(注3)のよって立つ「絶対一者」等々であるのだが。(井筒俊彦はイスラムにおける存在一性論でいわれている神の存在は、突き詰めれば東洋の絶対無と同じ事柄を指している、と言っているようです。)

(注1)『斉物論』では、人間の認識は虚妄,相対的であるから,否定的思弁によって,無の境地にいたって絶対的,一元的認識があることを説いている。
・(注2)、『一真法界』とは華厳宗の極理を示す宇宙観。唯一で真実な絶対無差別の宇宙の実相。唯一絶対の永遠普遍の真理。
・(注3)「存在一性論」とはイスラム教でいう、経験界の事物を真実在者の現われに過ぎないものとし、経験的存在者を表層意識の概念思惟的な虚構とし否定することは、ヴェーダーンタ哲学と変わることはない。イブン・アラビーによれば、世界すなわち全存在界は唯一無二の真実性である絶対無分節の「存在」が様々な「限界線」によって分節された形で我々の表層意識に現われたものとする。



「真空のゆらぎ」から「神の慈愛」によって、様々なものに存在が自己顕現するという説明をする。の研究によって、イスラムにおける神学と哲学の発達が、東洋思想とも西洋思想とも有と無の問題に関して深く繋がっていることが明らかになった。
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