角田さんの第12回目(結願)江戸三十三観音霊場・東京十社巡拝行記録・・1
桜花爛漫、命あるものすべてのものが甦る希望の春がやってきました。期待に胸膨らむ春、福聚講(高原耕講元)は、4月3日(日)、今回で目出度く結願になる第12回目の江戸三十三観音霊場・東京十社巡拝行を行いました。参加者は5人。午前10時、京浜急行・青物横丁駅に集合。駅の出口を上がり、表に出るとすぐの所に、第一番札所の海雲寺があります。この日、前夜は東京地方は、冷たい小雨模様で、開花宣言が出た直後の桜の花々には、可哀相な天気でしたが、巡拝時には、雨も止み、花ぐもりの天候でした。この日が、巡拝行の満願達成の結願とあって、心なしか、講員の皆さんは、胸躍るような足取りで、札所に向いました。
午前10時20分、第1番札所である、海雲寺に着きました。門前にどっしりと構え立った石柱に、「開運・千體荒神王霊場」と刻まれてあり、山門の柱には、小さく、金色で「海雲寺」の表札がかかっていました。この山門をくぐりぬけると、正面に、鰐口と大鈴が四個並んだ、入母屋造りに、唐破風の向拝を組んだ社殿が堂々と立っています。中に入ると、高く見上げる天井には、黒色の地に、真四角に碁盤目に区切られたこまに黄色で描かれた江戸の火消しの夥しい纏模様が、美しく、目を楽しませてくれます。
江戸三十三観音霊場番外所
龍吟山 千躰荒神殿 海雲寺(東京都品川区南品川3-5-21)
本尊 十一面観世音菩薩
宗派 曹洞宗
さて、先ほど入った堂宇には由緒の札書きがあります。引用します。「品川千躰三宝荒神の由来・・・古くから、お台所に荒神様をお祀りする習わしがございます。荒神様は、お台所で一番大切な火と水をお守り下さる神様であります。それで、お台所に荒神様をお祀りすれば一切の火難を除き衣食住に不自由しないとされています。品川千躰荒神は、江戸時代から竈の神様、台所の守護神として多くの人々から信仰されてまいりましたが、いまを去る300余年前の寛永14年(1637年)、島原の乱に鍋島甲斐守直澄公がお年十八才で出陣なさいましたが肥前天草の荒神ヶ原にありました荒神様にお詣でになり必勝祈願をなさって出馬されました所、甲斐守様の先頭には必ず千余の神兵が現れその行動は荒神王の荒れさせ給うはかくやと思はれるすさまじさで、流石の暴徒も敵し得ず鎮定しました。以後、鍋島家では、この尊像を守護なさいまして、東都高輪二本榎の別荘に遷座し篤い信心のもとにお祀りしてありましたものを、因縁あって明和7年(1770年)寅三日に、当山に勧請し奉ったものであります。それからは、あらゆる階層の人々の参詣も多くなり、ついに江戸年中行事のひとつにもなりこの尊像を信仰する人々が受けました霊験利生は数えきれないものがあります。」(以上由緒書き終わり)
この堂宇は、本堂ではなく、千躰荒神堂だったのです。お祀りされている尊像・千躰三宝大荒神像は、天竺・インドの毘首羯摩の作といわれており、インドの守護神です。三寶荒神は、台所の火と水を護る神様として、江戸時代から、竈の神さまとして、信仰されてきました。大日如来、文殊菩薩、不動明王の垂迹であり、三面六臂の大憤怒の形相を現す護法神の主といわれています。
荒神様の御真言は、「おん けんばや けんばや そわか」「おん あら はしやのう あきに びぎやら うん そわか」
つい、60年前までは、日本の家庭では、電気、ガスの生活インフラは、まだ整備されておらず、炊飯・炊事は、専ら、竈に薪をくべ、火吹き竹で、風を送り、火力を煽って飯を炊いていたものです。煙は出る、火の暑さで、目から涙が出ました。火は、身近なものでしたから、火事を起こす危険性もあり、台所には、守り神のお札を祀っていたものでした。子供のころはよく飯炊きの手伝いをさせられたものでした。そして荒神様の守り札が、台所に祀ってあつたのを覚えています。そのころは何の疑いも無く、神様に祈れば日々無事に過ごせることを信じていたものでした。今は、遠い昔の、思い出になりました。
海雲寺の沿革 曹洞宗 海雲寺は、建長3年(1251年)不山東用和尚の開基で、始めは、庵瑞林といい海晏寺境内にあって、臨済宗でした。慶長元年(1596年)海晏寺五世分外祖耕大和尚を、開山として曹洞宗に改められ、寛文元年(1661年)海雲寺になりました。御本尊・十一面観世音菩薩は、建長3年創立当時、仏師である春日の作といわれています。
桜花爛漫、命あるものすべてのものが甦る希望の春がやってきました。期待に胸膨らむ春、福聚講(高原耕講元)は、4月3日(日)、今回で目出度く結願になる第12回目の江戸三十三観音霊場・東京十社巡拝行を行いました。参加者は5人。午前10時、京浜急行・青物横丁駅に集合。駅の出口を上がり、表に出るとすぐの所に、第一番札所の海雲寺があります。この日、前夜は東京地方は、冷たい小雨模様で、開花宣言が出た直後の桜の花々には、可哀相な天気でしたが、巡拝時には、雨も止み、花ぐもりの天候でした。この日が、巡拝行の満願達成の結願とあって、心なしか、講員の皆さんは、胸躍るような足取りで、札所に向いました。
午前10時20分、第1番札所である、海雲寺に着きました。門前にどっしりと構え立った石柱に、「開運・千體荒神王霊場」と刻まれてあり、山門の柱には、小さく、金色で「海雲寺」の表札がかかっていました。この山門をくぐりぬけると、正面に、鰐口と大鈴が四個並んだ、入母屋造りに、唐破風の向拝を組んだ社殿が堂々と立っています。中に入ると、高く見上げる天井には、黒色の地に、真四角に碁盤目に区切られたこまに黄色で描かれた江戸の火消しの夥しい纏模様が、美しく、目を楽しませてくれます。
江戸三十三観音霊場番外所
龍吟山 千躰荒神殿 海雲寺(東京都品川区南品川3-5-21)
本尊 十一面観世音菩薩
宗派 曹洞宗
さて、先ほど入った堂宇には由緒の札書きがあります。引用します。「品川千躰三宝荒神の由来・・・古くから、お台所に荒神様をお祀りする習わしがございます。荒神様は、お台所で一番大切な火と水をお守り下さる神様であります。それで、お台所に荒神様をお祀りすれば一切の火難を除き衣食住に不自由しないとされています。品川千躰荒神は、江戸時代から竈の神様、台所の守護神として多くの人々から信仰されてまいりましたが、いまを去る300余年前の寛永14年(1637年)、島原の乱に鍋島甲斐守直澄公がお年十八才で出陣なさいましたが肥前天草の荒神ヶ原にありました荒神様にお詣でになり必勝祈願をなさって出馬されました所、甲斐守様の先頭には必ず千余の神兵が現れその行動は荒神王の荒れさせ給うはかくやと思はれるすさまじさで、流石の暴徒も敵し得ず鎮定しました。以後、鍋島家では、この尊像を守護なさいまして、東都高輪二本榎の別荘に遷座し篤い信心のもとにお祀りしてありましたものを、因縁あって明和7年(1770年)寅三日に、当山に勧請し奉ったものであります。それからは、あらゆる階層の人々の参詣も多くなり、ついに江戸年中行事のひとつにもなりこの尊像を信仰する人々が受けました霊験利生は数えきれないものがあります。」(以上由緒書き終わり)
この堂宇は、本堂ではなく、千躰荒神堂だったのです。お祀りされている尊像・千躰三宝大荒神像は、天竺・インドの毘首羯摩の作といわれており、インドの守護神です。三寶荒神は、台所の火と水を護る神様として、江戸時代から、竈の神さまとして、信仰されてきました。大日如来、文殊菩薩、不動明王の垂迹であり、三面六臂の大憤怒の形相を現す護法神の主といわれています。
荒神様の御真言は、「おん けんばや けんばや そわか」「おん あら はしやのう あきに びぎやら うん そわか」
つい、60年前までは、日本の家庭では、電気、ガスの生活インフラは、まだ整備されておらず、炊飯・炊事は、専ら、竈に薪をくべ、火吹き竹で、風を送り、火力を煽って飯を炊いていたものです。煙は出る、火の暑さで、目から涙が出ました。火は、身近なものでしたから、火事を起こす危険性もあり、台所には、守り神のお札を祀っていたものでした。子供のころはよく飯炊きの手伝いをさせられたものでした。そして荒神様の守り札が、台所に祀ってあつたのを覚えています。そのころは何の疑いも無く、神様に祈れば日々無事に過ごせることを信じていたものでした。今は、遠い昔の、思い出になりました。
海雲寺の沿革 曹洞宗 海雲寺は、建長3年(1251年)不山東用和尚の開基で、始めは、庵瑞林といい海晏寺境内にあって、臨済宗でした。慶長元年(1596年)海晏寺五世分外祖耕大和尚を、開山として曹洞宗に改められ、寛文元年(1661年)海雲寺になりました。御本尊・十一面観世音菩薩は、建長3年創立当時、仏師である春日の作といわれています。