福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

大般涅槃經金剛身品第五(全巻書き下し)

2022-07-29 | 諸経

大般涅槃經金剛身品第五

(仏は、護法の因縁を以ての故に是の金剛身を成就することを得、とするがこの護法には法のために武装して戦闘することも含む、という。日蓮も多く引用した所。)

 

 

爾時世尊復迦葉に告げたまはく「善男子、如來身は是れ常住身・不可壞身・金剛身・非雜食身、即是ち法身なり」。迦葉菩薩白佛言「世尊、佛所説の如く、如是等の身、我悉く不見なり。唯だ無常、破壞、塵土、雜食等の身を見る。何以故。如來、今ま當に涅槃されたまふが故なり。佛、迦葉に告げたまはく、「汝今、如來之身は不堅可壞、凡夫身の如しと謂ふこと莫れ。善男子。汝今當に知るべし。如來之身は無量億劫堅牢にして壞れ難し。人天身にあらず、恐怖身にあらず、雜食身にあらず。如來之身は身にあらずして是れ身、不生不滅、不習不修、無量無邊、足跡あることなし。無知無形にして畢竟清淨なり。動搖あることなし。無受無行、不住不作、無味無雜なり、是れ有爲にあらず、非業非果、非行非滅、非心非數、

不可思議、常不可議、無識離心にして亦た不離心なり。其の心は平等、無有亦有、去來あることなくして而も亦た去來す。不破不壞。不斷不絶。不出不滅。非主亦主。非有非無。非覺非觀。非字非不字。非定非不定。不可見了了見。無處亦處。無宅亦宅。無闇無明。寂あることなくして亦た寂靜。是無所有。不受不施。清淨無垢。無諍斷諍。住無住處。不取不墮。非法非非法。非福田非非福田。無盡不盡。離一切盡。是空離空。常住ならずといえども念念滅にあらず。垢濁あることなし。無字離字。非聲非説。亦非修習。非稱非量。非一非異。非像非相。諸相莊嚴。非勇非畏。無寂不寂。無熱不熱。覩見すべからず。相貌あることなし。如

來、一切衆生を度脱す。度脱なきが故に能く衆生を解す。解あることなきが故に衆生を覺了す。無覺了なるが故に如實に説法す。二あることなきが故に不可量無等等、平なること虚空のごとくして形貌あることなし。無生性に同じく不斷不常。常に一乘を行ず。衆生は三を見、不退不轉、一切の結を断ず。不戰不觸、非性住性、非合非散、非長非短、非圓非方、非

陰入界亦陰入界、非増非損、非勝非負。如來之身は如是の無量功徳を成就す。知者あることなく、不知者なく、見者あることなく、不見者なし。爲あるにあらず、爲なきにあらず。非世非不世、非作非不作、非依非不依、非四大非不四大、非因非不因、非衆生非不衆生、非沙門非婆羅門、是師子大師子、非身非不身、宣説すべからず。一法相を除き算數すべからず。般涅槃時、般涅槃せず。如來法身は皆な悉く如是の無量微妙功徳を成就す。迦葉、唯だ如

來のみありて乃ち是の相を知る。諸の聲聞縁覺の知る所に非ず。迦葉。如是の功徳成如來身を成ず。是れ雜食し長養するところの身に非ず。迦葉。如來の眞身功徳は如是なり。云何んが復、諸疾・患苦・危脆・不堅、坏器のごとくなるを得ん乎。迦葉、如來の病苦を示すゆえんは、諸衆生を調伏せんと欲する為の故なり。善男子、汝今當に知るべし。如來之身は即ち金剛身なり。汝、今日より常に當に專心に此の義を思惟すべし。食身を念ずること莫れ。亦た當に人の爲に如來身は即ち是れ法身なりと説け」。

迦葉菩薩白佛言「世尊。如來は如是の功徳を成就したまふ。其の身云何んぞ當に病苦無常破壞あるべき。我今日より常に當に如來の身は是れ常法身・安樂之身なるを思惟すべし。

亦當に人の爲に如是に廣説すべし。唯だ然り世尊、如來の法身は金剛不壞なり。而も未だ所因云何を知るあたはず。佛、迦葉に告げたまはく「能く正法を護持する因縁を以ての故に是の金剛身を成就することを得。迦葉、我往昔において護法因縁、今、是の金剛身常住不壞を成就するを得る。善男子よ、正法を護持する者は五戒を受けず、威儀を修せず、應に刀劍・弓箭・鉾槊を持ちて持戒清淨比丘を守護すべし」。迦葉菩薩白佛言「世尊。若し比丘ありて守護を離れ獨り空閑・塚間・樹下に処らば當に是の人、眞比丘と為すと説くべし。若し守護隨逐する行者あらば當に知るべし、是輩は是れ禿居士(半僧半俗の僧)なり」。佛迦葉につげたまはく「是の語を作して禿居士と言ふこと莫れ。若し比丘ありて所至の處に随ひて供身

取足、讀誦經典思惟坐禪、來りて問法する者あらば即ち爲に宣説す。所謂る布施・持戒・福徳・少欲知足、能く如是の種種説法すと雖も然もなほ能く師子吼を作すことあたはず。師子の圍繞する所とならず、非法の惡人を降伏すること能ず。如是の比丘、自利及び利衆生すること能ず。當に知るべし是輩の懈怠懶惰、能く持戒し淨行を守護すと雖も當に知るべし是の人は能く爲す所なし。若し比丘ありて供身之具、亦た常に豐足す。復た能く所受の禁戒を護持し、能く師子吼して妙法を廣説す。修多羅・祇夜・受記・伽陀・優陀那・伊帝目多伽・闍陀

伽・毘佛略・阿浮陀達磨(修多羅(契経)・祇夜(応頌)・受記(予言)・伽陀(諷誦)・優陀那(自説)・伊帝目多伽(本事)・闍陀伽(本生)・毘仏略(方広)・阿浮陀達磨(未曾有))を謂ふ。如是等の九部經典を以て他のために廣説す。諸衆生利益を安樂するが故に、如是の言を唱ふ。「涅槃經中、諸比丘を制す。應に奴婢・牛羊非法之物を畜養すべからず。若し比丘ありて如是等の不淨之物を蓄ふるあらば應當に之を治すべし。如來先に異部經中において、比丘如是等非法之物を畜ふるあらば、某甲國王、法の如く之を治す、驅って還俗せしめよ」と説く。若し比丘ありて、能く如是の師子吼を作す時、破戒者ありて是語を聞き已りて、咸く共に瞋恚して是法師を害せん。是の説法者は設ひ復た命終すとも故に持戒自利利他と名く。是の縁を以ての故に、我、國主群臣宰相諸優婆塞、説法人を護るを聽す。若し正法を護ることを得んと欲する者あらば、當に如是に學すべし。迦葉、如是に破戒して法を護らざる者を禿居士と名く。持戒者は如是の名を得るに非ず。善男子、過去久遠無量無邊阿僧祇劫に、此の拘尸那城において佛ありて出世す。歡喜増益如來・應供正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・佛・世尊と號す。爾時世界、廣博嚴淨、豐樂安隱、人民熾盛にして飢渇あることなし。安樂國の諸菩薩等の如く、彼の佛世尊、世に住して無量、衆生を化し已りて然して後に乃ち娑羅雙樹において入般涅槃さる。佛涅槃後、遺法世に住すること無量億歳、餘四十年、佛法未滅。爾時、一持戒比丘あり、名て曰く覺徳。多くの徒衆あり。眷屬圍繞す。能く師子吼して九部經典を頒宣廣説す。諸比丘を制して「奴婢・牛羊・非法之物を畜養するを得ざれ」と。爾時、多く破戒比丘あり。是説を作すを聞きて皆な惡心を生ず。刀杖を執持して是法師に逼る。是時國王名を曰く有徳、是事を聞き已りて護法のための故に即便ち説法者所に往至して、是の破戒諸惡比丘極と共に戰鬪を極めて、説法者をして危害を免れ得しむ。王、時に槍を被りて擧身周遍す。爾時、覺徳、尋いで王を讃じて言く「善哉善哉。王、今眞の是れ護正法者なり。當來之世、此身當に無量法器となるべし」。王、是時において法を聞くことを得已りて心大歡喜す。尋いで即ち命終して阿閦佛國に生じ彼の佛の為に第一弟子と作る。其の王の將ゐ從へる人民眷屬は、戰鬪の者あり、隨喜者ありて、一切、菩提之心を退かず。命終して悉く阿閦佛國に生ず。覺徳比丘、却後、壽終りて亦、阿閦佛國に往生することを得て彼の佛の為に聲聞衆中第二弟子となる。若し正法滅盡せんと欲する時あらば、應當に如是に受持擁護すべし。迦葉、爾の時の王とは則ち我身是なり。説法比丘は迦葉佛是なり。迦葉、正法を護る者は如是等の無量の果報を得。是因縁を以て、我、今日において種種相を以て自ら莊嚴し、法身不可壞身を成就することを得」。

迦葉菩薩復白佛言「世尊、如來常身は猶し石に畫くが如し」と。佛、迦葉に告げたまはく「善男子、是の因縁を以ての故に、比丘比丘尼優婆塞優婆夷、應當に勤加して正法を護持すべし。護法の果報は廣大無量なり。善男子、是の故に護法優婆塞等、應に刀杖を執りて如是の持法比丘を擁護すべし。若し五戒を受持し具す者有るも、名て大乘人となすを得ざる也。五戒を受けざるも爲に正法を護る者は大乘と名く。正法を護る者は應當に刀劍器仗を執持して法師を侍衞すべし」と。迦葉白佛言「世尊、若し諸比丘、如是等の諸優婆塞、刀杖を持する者と共に伴侶と為らば、師有りとなす耶、師無しと為ん乎。是れ持戒と為すや。是れ破戒と為すや」。佛告迦葉「是等を破戒人と為すと謂莫れ。善男子、我涅槃後、濁惡之世國土荒亂し、互ひに相抄掠して人民飢餓せん。爾時、多く飢餓を為すが故に發心出家する者あり。如是之人は名て禿人と為す。是の禿人輩、持戒威儀具足清淨比丘の正法を護持するものあるを見て、驅逐して出さしめ、若しくは殺し、若くは害す」。迦葉菩薩復白佛言「世尊、是の持戒人の正法を護る者は云何んが當に村落城邑に遊行して教化するを得べきや」。「善男子、是故に我、今、持戒人、諸白衣持刀杖者に依りて以って伴侶と為すことを聽す。若し諸國王大臣長者優婆塞等、護法の為の故に刀杖を持すると雖も、我説きて是等を名けて持戒と為す。刀杖を持すると雖も應に斷命すべからず。若し能く如是ならば、即ち名けて第一持戒と為すことを得」。迦葉言さく「夫れ護法者は謂く正見を具し能く廣く大乘經典を宣説す。終に王者の寶蓋・油瓶・穀米・種種果蓏を捉持せず。利養の為に國王大臣長者に親近せず。諸檀越において心諂曲なく、威儀を具足し、破戒の諸惡人等を摧伏す。是を持戒護法之師と名く。能く衆生の眞善知識と為る。其の心、弘廣、譬へば大海の如し。迦葉よ、若し比丘ありて利養を以ての故に他の為に説法す。是の人、所有の徒衆眷屬亦た是師に效ひて利養を貪求す。是の人、如是に便ち自ら衆を壞す。迦葉よ、衆に三種あり。一は犯戒雜僧。二は愚癡僧。三は清淨僧なり。破戒雜僧は則ち壞すべきこと易く、持戒淨僧は利養の因縁の能く壞すること能ざる所なり。云何んが破戒雜僧。若し比丘ありて禁戒を持すと雖も利養の為の故に破戒者と坐起行來して共に相親附し其の事業を同ふす、是を破戒と名け、亦た雜僧と名く。云何んが愚癡僧。若し比丘ありて阿蘭若處に在り、諸根不利・闇鈍どんもう・少欲乞食、説戒日及び自恣の時において、諸弟子に清淨懺悔を教へ、非弟子の多く禁戒を犯すを見て、教へて清淨懺悔せしむる能はず。而も便ち與共に説戒自恣す。是を愚癡僧と名く。云何んが清淨僧と名く。

比丘僧ありて百千億の魔の壞することあたはざるところなり。是れ菩薩衆本性清淨、能く如上二部之衆を調へて、悉く清淨衆中に安住せしむる。是を護法無上大師と名く。善持律の者、

調伏して衆生を利せんと欲する為の故に、諸戒相、若しは輕、若しは重を知る。是れ律に非ざる者は則ち證知せず。若し是れ律なる者は則便ち證知す。云何んが衆生を調ふるが故にす。若し諸菩薩、衆生を化せんが為に、常に聚落に入りて時節を擇ばず。或は寡婦及び婬女舍に至り與同に住止して多年を經歴す。若し是れ聲聞は應に爲すべからざる所、是を調伏利益衆生と名く。云何んが知重なる。若し、如來、事に因りて制戒するを見、汝、今日より愼んで更に犯すこと莫れ。四重禁の如きは出家之人の應に作すべからざる所。而るを故らに作すは是沙門に非ず、釋種子に非ず。是を名けて重と為す。云何んが輕となすや。若し輕事を犯すに如是に三諫するに、若し能く捨つる者は是を名けて輕となす。非律不證とは、若し不清淨物受用すべしと讃説する者あらば、共に同止せず。是律應證とは、善く戒律を学び破戒に近ずかず、所行、戒律に隨順ずるあるを見て心に歡喜を生ず。如是に能く佛法の所作を知りて

善能く解説す、是を律師、善く一字を解すと名く。善く契經を持するも亦復た如是なり如是なり。善男子、佛法は無量不可思議なり。如來も亦た爾なり。不可思議なり」。迦葉菩薩白佛言「世尊、如是なり如是なり。誠に聖教の如し。佛法は無量不可思議なり。如來も亦た爾なり。不可思議なり。故に知りぬ、如來は常住不壞にして變異あることなし。我今、善く學び亦た當に人の爲に是義を廣宣すべし」。

爾時、佛、迦葉菩薩を讃じたまはく「善哉善哉、如來身者は即ち是れ金剛不可壞身なり。菩薩、應當に如是に善く正見正知を学ぶべし。若し能く如是に了了知見せば即ち是れ佛金剛之身不可壞身を見ること鏡中において諸色像を見るが如し」。

 

 

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