・二に正思惟というは苦集滅道の四諦のこと。四諦というて三界は皆苦なり、その「苦」は煩悩業で集めるから「集」という。涅槃は滅諦であるから涅槃寂静の境界に契ふを「滅」といふ。それに契ふ行がある。それを「道」といふ。その苦集滅道の四諦は羅漢方が観ずるゆえに小乗であかす所、四諦を観ずるとき、無漏の心相応して能々物の道理を思惟してそうして考えが増長して涅槃という彼岸境界に至られるそれを正思惟という。思も惟も共に能くおもい考えること、能々物の道理を考えて苦は実に苦なり。三界の苦を招くは煩悩という業が原因である。即ち苦は実に苦である。集は実に招くところの因である。滅は実に寂滅の境界で涅槃安楽の境界である。それに至るには戒定慧の三学という道を修せねばならぬ。こういう苦集滅道の四諦の道理を観じてそうして涅槃に至るのを正思惟という。
・三に正語というは無漏の智慧を以て四種の邪命を離れること。四種の邪命とは下口食(百姓などで活命すること)仰口食(天文占考をして活命する)、方口食(官員となって外国に使いに行ったりすること)、維口食(種々の職業をなして活命すること)をいう。・・真実の八正道をするには種々の職業をすることを止める。止めて比丘は乞食をする。清貧の真実の出家として嘘をいわず活命の法をやぶったりせぬことを正語という。
・四に正業というは無漏の智慧を以て身の一切の邪業を離れしむるをいう。
・五に正命というは五種の邪命を離れること。(五種の邪命とは、一には利養のために詐って異相を現ずること、二には利養のために自ら己が功徳を説くこと。三には利養のために吉凶を占相すること・・出家は慈悲のために法を施す・・ゆえに法をほどこしてもろうたら命にかけて聞くがよい。四には利養のために高声にして威を現じ人をして畏怖せしむること。五には邪命によって人を詐偽せずといふこと。)
・六に正精進。無漏の浄智を以て涅槃の道を修行して誠に怠らず精出して少しも他の妄念をまじえず一心に修行するのが「精」で、鉄砲の弾がとんでいくように間で少しも休むことがない、このように少しも油断なく進むが「進」ということ。
・七に正念というは無漏の正智をもって八正道の法を一心にねんずること。
・八に正定というは無漏の正智によりて定にはいる。定にはいるとは散乱心でなく一心に心を落ち着かすこと。前の正念があるとこの正定にはいることができるのである。
以上の八つを通じて八正道ということはこの八つ共に偏見我見を離れて涅槃に至るから、「正」という。「道」は能く仏果に至る大道である。
・三に正語というは無漏の智慧を以て四種の邪命を離れること。四種の邪命とは下口食(百姓などで活命すること)仰口食(天文占考をして活命する)、方口食(官員となって外国に使いに行ったりすること)、維口食(種々の職業をなして活命すること)をいう。・・真実の八正道をするには種々の職業をすることを止める。止めて比丘は乞食をする。清貧の真実の出家として嘘をいわず活命の法をやぶったりせぬことを正語という。
・四に正業というは無漏の智慧を以て身の一切の邪業を離れしむるをいう。
・五に正命というは五種の邪命を離れること。(五種の邪命とは、一には利養のために詐って異相を現ずること、二には利養のために自ら己が功徳を説くこと。三には利養のために吉凶を占相すること・・出家は慈悲のために法を施す・・ゆえに法をほどこしてもろうたら命にかけて聞くがよい。四には利養のために高声にして威を現じ人をして畏怖せしむること。五には邪命によって人を詐偽せずといふこと。)
・六に正精進。無漏の浄智を以て涅槃の道を修行して誠に怠らず精出して少しも他の妄念をまじえず一心に修行するのが「精」で、鉄砲の弾がとんでいくように間で少しも休むことがない、このように少しも油断なく進むが「進」ということ。
・七に正念というは無漏の正智をもって八正道の法を一心にねんずること。
・八に正定というは無漏の正智によりて定にはいる。定にはいるとは散乱心でなく一心に心を落ち着かすこと。前の正念があるとこの正定にはいることができるのである。
以上の八つを通じて八正道ということはこの八つ共に偏見我見を離れて涅槃に至るから、「正」という。「道」は能く仏果に至る大道である。