神仏は心の中にいらっしゃいます。
「大方廣佛華嚴經夜摩天宮菩薩説偈品第十六」には「心佛及衆生 是三無差別」とあり、
「修証義、第五章 行持報恩」には「いはゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり。過去・現在・未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり。」とあります。
即心是佛は大乗仏教の根幹です。
そして神道でも、中世では本地垂迹説を期に神観念が変化した、といわれます。鎌倉期に成立した初期の両部・伊勢神道に、「神が心中に宿る」という理解が見られます。心とは神明の主、であるから、祈祷者が誠と礼を尽くすことが成仏への近道だという教えです。
身中祓詞(みなかのはらいのことば)には「天照坐皇大神の宣く。人はすなわち天下の神物なり。須らく静まることを掌るべし。心は則ち神明の本主たり。・・・六根清浄なるが故に我が身中主(みなかぬし)安らかなり。我が身中主安らかなるが故に天地の神と同根なり。天地の神と同根なるが故に万生の霊と同体なり。万物の霊と同体なるが故に為すところ願として成就(なら)ずといふことなし。」とあります。「心は則ち神明の本の主」なのです。
ここで「心」とは何かかが大問題ですがとりあえず、「心」が神仏の住処であることは確かです。さすれば神仏分離がいかに愚かなことかがわかります。「我が心」を強制的に分離させることですから・・。
「大方廣佛華嚴經夜摩天宮菩薩説偈品第十六」には「心佛及衆生 是三無差別」とあり、
「修証義、第五章 行持報恩」には「いはゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり。過去・現在・未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり。」とあります。
即心是佛は大乗仏教の根幹です。
そして神道でも、中世では本地垂迹説を期に神観念が変化した、といわれます。鎌倉期に成立した初期の両部・伊勢神道に、「神が心中に宿る」という理解が見られます。心とは神明の主、であるから、祈祷者が誠と礼を尽くすことが成仏への近道だという教えです。
身中祓詞(みなかのはらいのことば)には「天照坐皇大神の宣く。人はすなわち天下の神物なり。須らく静まることを掌るべし。心は則ち神明の本主たり。・・・六根清浄なるが故に我が身中主(みなかぬし)安らかなり。我が身中主安らかなるが故に天地の神と同根なり。天地の神と同根なるが故に万生の霊と同体なり。万物の霊と同体なるが故に為すところ願として成就(なら)ずといふことなし。」とあります。「心は則ち神明の本の主」なのです。
ここで「心」とは何かかが大問題ですがとりあえず、「心」が神仏の住処であることは確かです。さすれば神仏分離がいかに愚かなことかがわかります。「我が心」を強制的に分離させることですから・・。