一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

ポピュリズムとか「反ポピュリズム」というポピュリズムとか

2006-05-20 | よしなしごと

ホントは先日のエントリに続いて仏教の話を書きたかったのですが、ちょっと生臭い話が続いてそちらに話がそれてしまいました。

※もっとも、現世における「善悪」は霊的次元における「救済」の基準とは別物で、現世的な論理によっては判定できない(人間の側から救済をコントロールはできない)ので、決して「ナマグサ」がいけない、というわけではないらしいのですが、まあ、そのへんも含めて後日・・・

で、ナマグサついでに気になった話をいくつか

まずは ろじゃあさんbunさん がとりあげられている、今週号の週刊現代の、「大銀行の「隠れサラ金」ビジネスを許すな」という記事への与謝野経済財政・金融担当相のコメント。ろじゃあさんの記事から孫引きさせていただくと

メガバンクと消費者金融が(業務・資本提携して)一心同体になってしまっている現状は、私個人としては驚きです。銀行の仕事は利益追求だけではないはずです。社会にしっかり目を向け、お金をどう振り分けるか。それが銀行の本来の仕事のはず。社会的意義のあることをやるのが、銀行の使命でしょう。

小説の『金色夜叉』では、ありませんが、高利貸は昔から存在します。しかし、私はひっそりとやるものだと思っていた。最近のように消費者金融が盛んにテレビコマーシャルを流し続けているのには、違和感がある。消費者金融の高金利については法整備を進めていきますが、メガバンクが消費者金融と提携していることは、各行の人生観が問われる問題です。われわれ(金融庁は)とやかく言いませんが、(メガバンクのやり方は)私の趣味には合っていませんね。

メガバンクは、経営危機を6兆円にものぼる国民の税金による公的資金を投入してもらって救われた、税金を使わせてもらったことを真剣に考えれば高利な事業はできないはずだ。

一応「(金融庁は)とやかく言いませんが、」ということで、行政機関の長としての発言ではないとしても、相当違和感があります。
「税金を使わせてもらったことを真剣に考えれば高利な事業はできない」というあたりは、そもそも公的資金投入の目的として「金融システムの維持」に「(与謝野大臣の考える)公益的な企業活動」を加えるつもりだったら、優先株でなくもっと企業活動をコントロールする資金注入の方法をとったほうがよかったわけです。

また、消費者金融と上限金利問題は、銀行の公的資金投入とは別問題で、公的資金注入をした立場からは銀行が収益を向上させ公的資金を返済できたことをまず評価(自画自賛?)すべきです。
「高利貸はひっそりと・・・」といっても逆に「サラ金」だけに消費者金融を独占させるのは消費者保護にならないでしょうし、そこまで銀行に行為規制をするのであれば、公的資金を投入したまま国営化したほうがいいと思います。

要するに、原因を分析せず、解決策も提起せずに現象面をあげつらって感情的に非難する、しかも属性にレッテルを貼る、というところが私が不快に思った点ですね。


こういうのを「ポピュリズム」というんでしょうか。


ただ、「ポピュリズム」と言う言葉もちょっと違和感があるんですよね。

(と、ここで話が変わります)

以前書いた山口県光市の母子殺害事件についてのエントリ(こちら)にTBいただいた 「元検弁護士のつぶやき」で矢部善朗さんが 宮崎学氏主催「緊急!「人権派弁護士」批判に答える。」参加(Kawakita on the Web)という記事を紹介されていました。
※以下一部加除しながら孫引きで引用させていただきました。

これを見ると

・2005年11月28日に最高裁から2006年の2月7日または3月14日に口頭弁論を開くと当時の弁護人へ通知。
(口頭弁論が開かれるということは二審判決が覆るということなので)当時の弁護人は最高裁に口頭弁論の延期を申し込む。
・2005年12月6日に当時の弁護人が安田氏に弁護を任せる予定の旨を最高裁に通知。  ・その直後に最高裁は2006年3月14日に口頭弁論を開くことを決定。延期を認めず。

と、(前任の弁護士の読みの甘さ・無責任さはさておき)安田弁護士の選任に対してかなり厳しい運営がなされているようにも見えます。
安田弁護士の主張の詳細はこちらの記事をご覧いただくとして、気になったのがそこで語られている最近の「ポピュリズム」について。  

<宮台真司氏>
最近の多くの問題がポピュリズム戦争になっていることを指摘。特に昨年の総選挙以降、その傾向に歯止めがかからなくなってきている。

 <中村順英氏(日本弁護士連合会前副会長)>
刑事弁護人の活動は被害者の感情を逆撫でするような面があり、善玉(被害者)と悪玉(加害者)の二項対立が煽られる。
犯罪への恐怖心が異常なまでに煽られている。
悪党と決めたら煮るなり焼くなりどうにでもしてよいと考えるような感情が蔓延している。
司法がポピュリズムに抗し難くなってきている。

<二木啓孝氏(日刊ゲンダイ記者)>
共謀罪や今回の件を含め嫌な感じがするのが「天井を低く」なっているということ。
天井を低くすれば皆が頭を垂れるだろうという流れになっている。
頭を垂れろという倫理観のバックグランドがポピュリズム。
そのようなポピュリズムを醸成しているのは活字よりも映像のもつ訴求力の強さ。
作っている方も正しい正しくないは自覚しておらず、ウケるかウケないかしか気にしていない。

ここで指摘されているような面は確かにあるのですが、私は「ポピュリズムだ」と批判する人の根底にも「私は正しいが、大衆の誤解に乗っかって私を非難する奴は怪しからん」という感情を感じてしまいます。
そもそも「多くの人がなんとなくそう思う」というのは結構重要なことなんじゃないでしょうか。国政の根幹を成す選挙制度自体がそうですし、「ポピュリズム批判」をする人ほど「市民の声を聞け」と言ったりしますよね。

私が思うに「ポピュリズム」の問題点は根拠なく感情を煽ることにあり、それへの反論(抵抗)として大事なのは、その主張の前提となる事実を正確に認識することであり、多様な論点(反対意見やその結果が何をもたらすか等)を提供する、というプロセスなのだと思います。

「ポピュリズムだ!」と観念的に批判するだけでは、ポピュリズムに対する有効な反撃にはなっておらず、それを声高に叫ぶことは逆に「『反ポピュリズム』というポピュリズムだ」という(出来そこないの早口言葉みたいですが)水掛け論的な批判を惹起するだけのように思います。
(その意味では上の与謝野大臣の発言などにはいちいち突っ込むことが大事だと思いますw) 

この集会でも「宮台氏の語るポピュリズムに抗するための処方箋」、として

・国家は社会をサポートする存在であり、社会をサポートできない国家はねじ伏せられる。それが近代社会の本義であり、その手段が憲法。
・フランスはデモ・暴動・ストで民主制は不完全さを補完するような文化的リソースがある。
・アメリカの場合は、宗教的結社の伝統。優勝劣敗路線ではあるが、それに伍するNPO・NGO・寄付・ボランティアの伝統の厚みがあるから社会が回る。
・日本にはそのようなものはないので、ルールを踏まえればなんでもあり、になると本当に何でもありになる。自分たちが連帯して国家をねじ伏せたという共通の経験を我々は持っていないので、それをどうカバーするのかということを戦略的に考えなければならない。

という言われているのですが、このような語り口を見ると、これ自体が「日本はここが弱いので気をつけないといけない」というそれこそポピュリズムに特徴的な煽りの言い回しのようにも思えてしまいます(宮台真司って以前は「大きな物語」に対する「小さな物語」の役割を語っていたように思うのですが、「大きな物語」に宗旨変えしたんでしょうか)。


長々と書いてしまいましたが「絶対的な正しさの持つ危うさ」というあたりから、やっと次につながりそうです。

コメント (2)
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