先日紹介した「インターネット持仏堂」の2巻目で「倫理」についての話が出てきます。
そもそもは「救済」という霊的次元(個人)の問題と「倫理」という政治(関係性)の問題をどうとらえるか、特定の宗教が国家を支配したり国家に公認されていたりすれば解決するんだけどまあ、それは歴史的にはうまくいかなかったわけだし、現在のカルトや原理主義的考えにどう対処していくか、というところから話は展開していきます。
そこで内田先生は
倫理(ehics)とは、誤解を恐れずに一言で言えば(誤解されるだろうなあ・・・・・・)「常識」(commonsence)のことだと私は思っています。
といいます。
すなわち、「常識」というのは根拠を示せ、と言われても示すことができない「地域限定」「期間限定」のもので、<絶対に原理にはなれない>という限定性が「常識」が「倫理」でありうるポイントだとします。
つまり、「倫理」は「どの共同体も固有のルールを持っているが、そのルールを他の共同体に汎用的に適用する事はできない」という限定そのものに担保されているということです。
「私にとっての『当たり前はあなたにとっての『当たり前』ではない」ということ。それが倫理の倫理性を構築しています。
さらに、すべての社会集団に共通の「常識」というものはないが、「常識」を持たない社会集団はない、という「常識」をもつことで、「倫理的なふるまい」が定まります。
同じ倫理コードを共有している人間同士のあいだでは、その共有コードに照らしてその人の言動の正邪理非を論じる事が倫理的なふるまいです。
けれども同一の倫理コードを共有しない人間が相手のときは、おのれのコードを無限定的に適用して、相手の言動の正邪理非を論じないことが今度は「倫理的なふるまい」であることになります。
つまり「倫理」というのは本質的にダブル・スタンダードなのです。
「身内」に対しては強制的に、「他者」に対しては宥和的に機能するという宿命的な「あいまいさ」が「倫理」の身上なのです。
何でこんなことを書いたかというと、ここ数日書いてきたように、個人的には会社法や金融商品取引法によってクローズアップされてきた企業の「内部統制」とか「コーポレートガバナンス」をめぐる動きに依然違和感があったからです。
「内部統制を強化しろ」といわれたので「はいはい、レビューやモニタリングやアルファベット3文字委員会を作りますよ」という企業側の対応もちょいと情けないと思う一方で、「財務諸表の正確性を確保するための内部統制システムについて会計監査人に監査させろ」という金融商品取引法(の「日本版SOX法」と言われている部分)の「正しさの押し付け」ともとれるやり方が企業活動に(特にコストや機動性の面で)与えるマイナス(や、それで本当に粉飾決算なりが減るのか)を考慮しても資本市場全体にとって本当にプラスになるのか、というのが今ひとつ頭の整理がついていなかったわけです。
その中で、上の「倫理」についての考え方を援用すると、企業倫理をめぐる私の問題意識がある程度整理されるように思います。
会社法対応において「情けない」ふるまいをする企業は、会社がどうあるべきという「身内に対して強制的に」働く(企業ごとの)倫理(常識)が弱い、またはそういうものの必要性を認識していない、ということなんでしょう。
一方である事象をとらえて企業全体を「バッシング」する動きや画一的に規制すれば世の中が良くなる、という発想も短絡的なわけです。
(会社法や金融商品取引法は法律であって経典ではないので、とりあえずやってみて不具合があったら修正していくというメカニズムが働くのであれば、規制自体が悪いという事ではないとは思います)
つまり「企業倫理」のありようは、あまりに画一的なものでは機能せず個々の企業にとって「宥和的」である必要がある反面、個々の企業においても、自己の(内部規律としての)行動原理だけにこだわるのでなく、自分の属する(または参入したいと思う)集団の「常識」を尊重することが求められる、ということなんだと思います。
(消費者金融をめぐる与謝野担当大臣の発言と、厳しい取り立てノルマを科していたアイフルのの例を考えるといいと思います。)
それこそ「そんなこと常識じゃないか」と言われるかもしれませんが、「内部には強制的に、外部には宥和的に」という部分が「腑に落ちた」もので。