2011/05/04
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年5月>新緑さんぽ(1)ささやかな行楽
ロシア開催の世界フィギュア選手権。テレビ放映を楽しみました。安藤美姫の世界一位獲得、よかったです。安藤美姫選手は2007年に世界選手権で優勝して以後、2008年には世界選手権途中棄権するなど不調が続き苦しみました。粘り強く復調をはかり、4年ぶりに世界選手権のトップになったこと、多くの人を励ましたことでしょう。
実は、生でフィギュアを観戦したいという娘息子のリクエストに応えて、4月に横浜で開催されることになっていたフィギュア国別対抗戦を見に行く予定でした。3月はじめにはチケットが届いていたのに、震災の影響で、対抗戦は中止になってしまいました。
そのほか、いろいろ予定変更があった中、4月23日には三春の滝桜を見に行く計画で、旅行社に申し込みをしたのもキャンセル。4月生まれの妹への誕生日プレゼントとして「日帰りバスツアー」を申し込んだのです。しかし、3月11日のあと、ぐちゃぐちゃになった部屋がまったく片付かない状態や、私の地震酔いのめまいへの不安から、キャンセルしてしまいました。
「滝桜はまた来年のお楽しみ」ということで納得したのですが、新聞に「平年は30万人の人出があるのに、今年の滝桜見物客は5万人」という記事が出て、見事な桜の写真を見ると、あれま、ちょっとキャンセルを待っていればよかった、と残念です。満開日の予測がぴたりと当たって、満開の2日後の土曜日という絶好日のバスツアー予定だったのに。
福島は風評被害もあって、観光が打撃を受けたということなので、キャンセルして悪いことしたような気分です。
それで、「行ったつもり行楽」をすることにしました。滝桜ツアーに参加すれば、日帰りバスツアーひとり7000円、妹と私の二人分の旅行代金14000円を払い込むはずでした。できる限りお金をつかわずに一日行楽をし、使ったお金と14000円の差額を福島県への義援金にしようと思いついた次第。行楽の足は自転車。乗り物代をかけず、買うのは食べ物飲み物のみという一日自転車ツアーです。
4月29日、ママチャリ自転車ポタリングに出発。
ママチャリポタリングは私の趣味のひとつ。でも、この3年間、週に5日働き、土日は家事と翌週の仕事準備、論文執筆やゼミ出席などで、なかなかゆったり気分でポタリングはできませんでした。
ほんとうに何年ぶりかの、目的地も決めずに出かける「行き当たりばっ旅」
「自転車で出かけて、あちこちぶらつく」というポタリング。
ポタリングは、パターゴルフなどのputterから来た和製英語、という説を長いこと信じてきたのですが、米語口語ではputterまたは potter とも綴られ、 potter around, potter overなどの表現で、ぶらつく、だらだらすごす、などの原義があることがわかりました。(研究社New collegiate English-Japanese Dictionary)。
サイクリングが、「自転車を走らせること」に重きを置く移動手段であるのに対して、ポタリングは「ぶらぶらとあちこちをめぐる自転車移動」をさしています。ただし、米語口語といっても、あまり一般的な表現ではないようです。英語母語話者のカナダ人留学生ふたりに聞いてみたところ、やはり使ったことのない語だと言っていました。日本でしか使われていない表現という意味では和製英語に近いのかも。
29日金曜日。ゆっくり起きてから、しばらくは見沼田んぼとか荒川土手サイクリングコースなどを走ったポタリング記録のサイトを眺めていました。どうしよう。東京近郊の緑の中、自然を求めて走るか、街中の公園めぐりをしながら走るか。
小石川植物園、後楽園、新宿御苑などの庭園めぐりをしようかなと考えて、最初、旧古河庭園へ行きました。入園料150円払って入ったけれど、まだバラの開花には早くて、キモッコウバラ(黄木香薔薇)のほかは咲いていませんでした。それで「緑の中を走る自然と親しむポタリング」というのは変更。結局、今まで何度か走ったことのある、「街中商店街めぐり食べ歩き」ということにしました。めぐった商店街は、霜降銀座、染井商店街、駒込さつき通り商店街、駒込アザレア通り商店街、田端銀座、谷中銀座などです。
旧古河庭園近くの霜降銀座商店街とそれにつながっている染井商店街を往復。霜降銀座は、「名探偵・浅見光彦の住む街」としてミステリーファンにはおなじみの商店街です。私は、推理小説とテレビの2時間番組ミステリーは、「仕事リタイア後のお楽しみ」にとってあり、ほとんど見ていないのですが、震災後、「ぼうっとテレビばかり見てすごしたころ」に、『浅見光彦シリーズ、漂白の楽人』というのを見ました。沼津と新潟越後妻有アート村が出てきましたが、このときは霜降銀座は出ていませんでした。
<つづく>
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2011年05月05日
ぽかぽか春庭「食べ歩きポタリング」
2011/05/05
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年5月>新緑さんぽ(2)食べ歩きポタリング
霜降銀座の、駒込側入り口近くの「西尾中華そば」。12時前なのに、店内のカウンター席7席は満杯、すでに5人ほど並んでいます。う~ん、並ぶのはどうだろうと思っていたら、3人が中に入り、私の前は2人になりました。これならそれほど長くはかからないかと思って待つことしばし。カウンター席が7つあるだけの小さな店ですが、どうやら「ラーメン小僧」たちの行脚地のひとつになっている模様。「魚介だし醤油味」がウリみたい。
「本日のラーメン、鯛ニシチュウ」というのを食べました。おいしかったけれど、私にはラーメンに千円払うのは贅沢のうちです。ま、ポタリングエネルギー補給のため、千円を許しましょう。
食べ終わって、さあ、自転車こぎに出発です。
商店街めぐりのポタリング。
霜降銀座の次は、駒込駅北口のさつき通りと、駒込駅南口のアザレア通り商店街を通り抜ける。花卉に詳しい人によれば、西洋アザレアの原種は台湾つつじだそうですが。わたしにはさつきもつつじもアザレアも区別がつきません。
田端銀座商店街の豆腐屋で厚揚げとがんもどきを一つずつ買いました。250円。愛想の悪いオッサンが、ビニール袋に入れて渡してくれました。
それから谷中銀座へ。1996年にNHK連続テレビ小説『ひまわり』の舞台になり、松嶋菜々子とともに全国区になった地域です。テレビのタウンガイド番組で時々特集放送されるので、上野観光のあと足を伸ばすお客がどっと増えた商店街です。地元の住民相手の素朴な商店街ではなく、観光用になっている店が増えたのはいたしかたないところでしょう。
店前のビール箱にお客が座って、生ビールやラムネを飲んでいる酒屋さん。ラムネ130円を買って、ビール箱に腰掛ける。お客たちが隣の揚げ物屋で買ったらしいチキンカツをほうばっているのを見て、田端銀座で買ったがんもどきを囓ってみた。うん、やっぱり焼いてちょっとお醤油を垂らしたり、煮付けにするほうがおいしいみたい。
「夕焼け段々」へ向かい、途中の総菜屋でコロッケとメンチカツを買う。総菜屋「いちふじ」は、一個30円のコロッケが有名らしい。30円コロッケ4個と、ためしにメンチカツも買ってみる。150円。う~ん、こぶりなコロッケは30円なら許そう、という味。メンチはうちの地元の肉屋のほうがおいしい。ま、観光客相手になってくると、どこも味が落ちるもんです。店前には「撮影禁止」と札が下がっている。コロッケ買わずに写真だけ撮影するヤカラへの警告であろうけれど、買った側からすると、写真くらい好きに撮らせてもいいんじゃないの、と思う。30円でお高くとまるというのも何だし。
谷中墓地を抜ける。鳩山一郎の墓の隣に横山大観があったり、高橋お伝の墓の前を通ったりして、上野桜木町へ。前から気になっていて、一度は入ってみようと思っていたショコラティエ・イナムラショウゾウという店へ。パティスリー・イナムラショウゾウの姉妹店。ここも5人ほど並んでいました。
待っている間、出来上がったキャラメルチョコケーキを若いパティシエが切り分けるようすを見ていたので、かなり長く待ったけれど、退屈はしなかった。いっしょうけんめいモノを作るようすを見ているのは大好きです。ここまでは、いい気分でした。
ショコラティエ・イナムラショウゾウの店の喫茶部。ようやく入り口ドア前の席があいて、座りました。キャラメルミルクチョコレートケーキとレモネードを注文。
あっという間にケーキ(めちゃ甘)を食べ、レモネードは「甘くしないで」というのを忘れてしまい、やたらに甘いので、半分だけ飲んでトイレへ。トイレから出てみたら、テーブルの上はすべて片付けられていた。
お客さんが列を作って待っている状態なので、一人客はテーブルひとつ占領する割にひとり分しか払わないのだから客単価が低いし、早く出ていってもらいたい店側の気持ちはわかるが、レモネード、あと半分飲みたかったのに。ちょい気分悪い。他の2人組やグループ客が長々おしゃべりしているのはお構いなしなのに、一人客がそんなにジャマかい、と思って、ケーキとレモネード代1200円払って出た。
いい感じの店だったら、娘と息子といっしょに上野の科博に来たときにでも寄ってみようと思っていたのだけれど、どんな店かわかったから、もう来なくてもいいや。客あしらいというのは、接客業の基本。どんな客にも気持ちよく楽しくすごしてもらうのがお店の価値を上げると思うのに。
ま、有名店だから、私ひとりが二度と行かないとしても、この先、繁盛をつづけることでしょう。かように、一人旅というのは肩身狭い思いをすることも多いのですが、めげません。おひとり様を大事にせんで、日本の未来はないっ、って白髪振り立ててのお一人様の主張。
<つづく>
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2011年05月06日
ぽかぽか春庭「干し柿と羽二重団子」
2011/05/06
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年5月>新緑さんぽ(3)干し柿と羽二重団子
上野桜木町で、いつも立ち寄るのが、下町風俗資料館付設展示場の「酒屋・吉田屋」。江戸時代の出桁造り(だしげたづくり)の木造建築。旧谷中茶屋町(現谷中六丁目)にあった酒屋が改築する際、台東区が上野桜木町に移転保存した建物です。自転車を店先に置いて、ちょっとベンチでひと休み。家から持ってきた飲み物は、「東京の水道水」を空きペットボトルにつめたものです。(倹約!)
上野桜木町から上野公園へ。東京芸大の正木記念館平櫛田中コレクション。前回見たのとは展示替えになっているのもあったので、ゆるゆると見た。(無料!)芸大美術館は入場料1200円だったので、今回はやめ。食べ物以外にはお金を使わない主旨の散歩なので。
上野の奏楽堂のコンサートも29日は有料だったし、(5月1日には、いつもの無料コンサートもあったのだけれど)博物館も気乗りしなかったので、不忍池へ下る計画をとりやめて、再び谷中墓地の方面へ戻りました。
霊園の日暮里側の出口で「干し柿パックふたつ千円」と言って、自転車の上に干し柿を載せて売っているおっさん。産地表記なしで、なにやら怪しげな干し柿っぽかったけれど、ま、いいかと3パック千円にしてもらって買った。近所のスーパーでは1パック200円くらいの品(たぶん中国製)だけど、いいや。谷中霊園の霊気払い、ということにする。(墓参りにいくと「私は霊感が強いので、毎回だれかの霊が私にくっついてきてしまう」という妹と違い、霊も人を選ぶので私には誰もついて来ることはないのだが。霊にも嫌われている私)
干し柿、母が大好きだった。母が子どもの頃の「一番甘いおやつ」だったから、母は家の玄関脇に柿の木を植えて、毎年甘柿がたわわに成るのを楽しみにしていました。私は子どもの頃は好きじゃなかったのに、年をとったら生の柿も干し柿も食べられるようになりました。
でも、わが家では私しか食べないので、市田柿の干し柿とか、たまにしか買いません。霊園前のちょいあやしげな干し柿だけど、キャラメルチョコケーキよりは体にいい気がする。(そんなにカロリー気にするなら、食べなきゃ良かったんだけど。ショコラティエのケーキ)。
谷中からJRの跨線橋を下りたところ、東日暮里の羽二重団子の店がありました。ええい、リベンジだっ。
なんのリベンジかっていうと、カロリー気にしつつ蛮勇ふるってケーキ食べたのに、店の人にジャマにされたことのリベンジ。もうちょっとゆっくりとした気分で帰りたかった。さっきのケーキはおひるのデザートで、こんどの羽二重団子はおやつってことです。そろそろ3時すぎたし。
あんことみたらし焼き団子の2本セットに、急須の煎茶がついて525円。店奥のお庭を見ながらほっこりできました。と、思ったら3時のせいか、急に女性グループがごったがえしてきた。またジャマにされると、せっかくの「リベンジのんびり気分」が台無しだから、お団子食べ終わったところで、退散。
西尾久から尾久橋あたりへ自転車を向け、地図を見て確かめると、たしかこの先に荒川遊園地がある。
20年以上も前のこと。奨学金でカツカツ食べていたころ、幼い娘と息子にこどもの日の行楽もプレゼントできない生活の中、よく遊びに出かけた遊園地です。都電で行ったこともあったけれど、自転車の前に取り付けた座席に息子、後ろの荷台の座席に娘を乗せて出かけることも多かった。私は疲れるけれど、電車代を浮かせた分で遊園地の乗り物代をまかなうことができたのです。荒川区の区営遊園地なので、アトラクションも1回50円とか100円程度で安かったのですが、麦茶を水筒につめて、おにぎりや鶏唐揚げを作って、節約モードで一日、観覧車や動物コーナーで遊べる所でした。
なつかしいので荒川遊園地に寄って行こうと思ったら、天気雨がぱらつきました。本格的な降りになると、私は傘を差して片手運転ができないので、困ってしまいます。もしかして放射能入りの雨かもしれないし。あわてて帰り道へ。
「食べ歩き商店街さんぽ」一日の行楽費用。
ラーメン1000円、豆腐とガンモ250円、ラムネ130円、コロッケとメンチ270円、キャラメルチョコケーキとレモネード1200円。干し柿1000円、羽二重団子煎茶セット525円。合計4405円。
滝桜見物ツアーへ払うはずだった14000円から差し引き1万円の義援金が用意できました。これまでも、震災援助募金の箱に入れる金額はささやかな気持ちばかりのものでしたけれど、今回の「旅行したつもり寄付」も、もともとがたいしたことのない行楽費ですから、「100億円の寄付」などに比べれば、「貧者の一灯」です。けれど、まあ、気は心、となぐさめながら、おみやげの「あやしい干し柿」を食べました。
<つづく>
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2011年05月07日
ぽかぽか春庭「みどりの日ポタリング」
2011/05/07
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年5月>新緑さんぽ(4)みどりの日ポタリング
5月4日、みどりの日、庭園めぐりをしました。
4月29日は商店街めぐりだけにとどめて、庭巡りをしませんでした。なぜなら、旧古河庭園に入ったとき、「そうだ!みどりの日は4月29日じゃなくて5月4日になったんだった。庭園入園料が無料になるのは4日じゃ」と、気づいたから。「移動の足は自転車。食べ物飲み物以外にお金を使わない一日」という「節約行楽」をするには、「入園料無料」の日を選ばなくては。
朝、9時前に家を出ました。旧古河庭園の前には、開門を待つ人がすでに並んでいました。でも、古河庭園はバラがまだ咲いていないのを4月29日に確認したので、パス。
駒込六義園へ。しだれ桜の花見の時は開いていなかった駒込駅前の染井門が開門していました。いつもは正門から入って、池の周りをぐるっと回って出てくるのですが、染井門側から入ったので久しぶりに北側の木立の中を歩きました。外の車の音を気にしなければ、深い森の中を通り抜けているような気分になります。
藤代峠と名付けられている築山の斜面に赤、白、ピンク、薄紫など色とりどりのツツジが鮮やかに咲いています。立て札に、八重霧島、大紫などの種類が書かれているのを見ながら、30分ほどツツジの間を歩き、写真をいっぱい撮りました。
白山通りから小石川植物園(東京大学大学院 理学系研究科附属植物園)へ。ここもツツジとサツキ、フジがきれいに咲いていました。藤の種類も、長崎一才、野田長藤など、藤色もさまざまな色合いで花房も長短いろいろに咲いています。そうか、藤って豆科の植物なのか。そういえば、スイートピーなどと花の形が同じだ。
白いハンカチのような、「ハンカチの花」も見頃でした。11:30分まで1時間ほど広い園内を散歩。
東京ドームの脇を通って小石川後楽園へ。
園内は地震で壊れたところの補修工事が行われているところもありましたが、つつじ、藤は例年のように咲いて、2月に見た梅は青い実をつけていました。
園内順路の中、段差があるところで、お年寄りを乗せて車椅子を押している方が難儀していたので、お手伝い。補修工事のついでに、段差をなくして、バリアフリーにしてくれたらよいのに。女性ふたりで車椅子を持ち上げるのは、かなり重かった。
12:30まで、「水戸のご老公」になった気分で散歩。
後楽園のお庭のはじっこに、水戸藩家臣・藤田東湖の碑があります。東湖は、徳川斉昭(15代将軍慶喜の父)の腹心として、幕末の水戸藩政を支えました。若き日の西郷隆盛など有為の若者が水戸藩邸の東湖の元に教えを請いに集まり、多大な影響を受けています。
東湖は、安政2年10月2日(1855年11月11日)に発生した安政の大地震の際、母とともに崩れるかかる家から逃れました。しかし、東湖の母親は、「火鉢の不始末から火事をだしたら、申し訳ない」と、邸内に戻ったため、東湖も後を追いました。家は崩れ、鴨居が落下し、母を襲います。東湖は、母を守る為に自らの肩で鴨居を受け止め、母親を脱出させましたが、力尽き、瓦礫の下敷きとなって圧死しました。享年50歳。西郷隆盛は、東湖の死を悼む手紙を書き残しています。
3月11日の大津波の際、寝たきりの老人を介護していたため、「親を置いて逃げるわけにはいかない」と家に残り、ともに波に呑まれたご家族が少なくなかったと聞きます。家族を大切に思い、一命に代えても守りたいというのは藤田東湖ばかりでなく、だれも心に思うことでしょうが、助けられた家族の思いは悲痛なものであるでしょう。残された人々、亡くなった方の分まで生き抜いて欲しい。東北震災の避難所のニュースで、小学生の男の子が「お母さんはいなくなってしまったけれど、お母さんの分まで生きる」と決意を語っていたのをテレビで見ました。残された人々が強く、家族の分まで生き抜いていけるよう、応援していきたいです。
震災義援金を作るための自転車ポタリング、続けます。
<つづく>
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2011年05月08日
ぽかぽか春庭「みどりの日つつじ巡り」
2011/05/08
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年5月>新緑さんぽ(5)みどりの日つつじ巡り
水道橋から湯島へ行く道、少し迷いました。神田神社も湯島天神もお参りせず、お腹も空いたので、13:00に湯島の天ぷら屋天久へ。店の外に2人連れが並んでいたので、うしろにつく。以前に旧岩崎邸へ来たとき、近くにあるこの天久に寄ったことがあります。山のようなかき揚げが名物の店。畳席6人分。カウンター席7人分の小さな店ですが、そのときはすぐに食べられたので、2人並んでいても、そんなに待つと思わなかったのです。
しかし、これがたいへんでした。入り口の外でまつこと15分。ドア内に入って立って待つこと10分。待ち席の椅子にすわって10分。カウンターの一人席が空いたので、腰掛けて待つこと。45分。列に並び始めてから天丼を口にするまで、1時間と20分かかりました。連休で大忙しのところ、下ごしらえの職人さんひとり、揚げ方の女性ひとり、お運びひとりで回しているので、客を待たせてしまうのもしかたのないところなのでしょうが、私がこれまでに食べ物を待った最長記録になりました。
やっと運ばれた5色天丼1500円は、食べるのはいつもと同じ早さで20分で食べ終わってしまい、なんだかあっけない。これなら私は待たずに食べられるチェーン店「てんや」の580円天丼のほうがいいわ。天ぷらネタも油も専門店よりは味が落ちるのかもしれないけれど、待たずにすぐ出てくるイージーさが私向き。食べ終わって出たら、もうまもなく3時。
旧岩崎邸は、洋館前に並ぶ列が長く伸び、「入館までの待ち時間は30分」というので、それなら、こんな混んでいる時でなくてもいいや、と庭から洋館の南側を見ただけで出ました。土曜日にコンサートをやっているときに来ようと思います。
不忍池の周辺を自転車で走る。3時半。
上野動物園の忍ばず口に臨時駐輪場があったので、自転車を止めて入って見ました。動物園もみどりの日、無料です。園内、私がこれまでに上野動物園に来たなかで一番の混み混みでした。人の頭越しにレッサーパンダやオカピをみながら、東園へ。パンダはどうなっているかを見ると、園内ぐるりとパンダ待ちの列。2時間待ちというので、象をちらりと見たりラマを見たりしてまた西園にもどって出口へ。
29日に、なつかしい荒川遊園地へ寄れなかったので、子どもが小さい頃よく来た動物園に寄って見たのですが、往時をなつかしんでいる余裕もないくらいの人混みでした。昔は子ども料金、低額ながら有料だったような気がしているけれど、都内在住の小学生、上野動物園は今はいつでも無料。無料だったら毎週行ったかも。子どもが少し大きくなってからは科学博物館がよく行くところになりました、今も毎年恐竜展などに親子で出かけます。4時半。
根津神社のつつじ祭りへ寄りました。甘酒や酒饅頭を売っていたけれど、ここは買わずにつつじだけ見ました。5時。
日本医大の前を通って本郷通りへ。六義園の染井門前へ戻りました。
染井門の斜め向かいのパン屋。ベーカリーカフェに入って、イートインでコーヒーだけ飲むつもりだったのだけれど、おみやげに買ったパンを3個食べちゃいました。おやつにパン3個は多かったか。5時半まで休憩。今日もカロリーオーバーな一日行楽でした。
6時。「夕焼けチャイム」が鳴るころ、家に着きました。
本日の支出。小石川植物園でマンゴージュース130円。天久五色天丼1500円。ニキベーカリーでコーヒーとパン600円。合計2230円。東京花巡り昼食付きという日帰りバスツアー5200円に参加したつもりで、差額の3000円を寄付することにします。
今回のひとり散歩でよかったこと。2年前に買ったデジカメ。はじめてセルフタイマーを使うことができました。機械に弱くて、何の機能も使えなかったのが、本日はきれいなツツジの前で、セルフポートレートスナップ撮影。いやあ、花のように美しいスナップが撮れました、、、、、とはいかず、食べ歩きで一段と膨らんだ太鼓腹が、ど~んと写っております。
5月7日。娘息子と池袋に行き、サンシャインビル59階でランチ。ぼんやりしていた高層からの眺めが、雨が上がりかけると、だんだんにはっきりしてくるようすを見ながら、フレンチのランチコースを楽しみました。3人分で5400円。帰りにコージーコーナーのケーキをおみやげに。1000円。
こうして、2011年のゴールデンウイーク、4月29日からの5月7日まで、行楽飲食費用、13000円なり。同額の13000円を義援金にあてることにします。
自分が楽しんだ分と同額寄付するってのは、いい方法じゃないかしら。自粛するよりは、自分も楽しく消費し、被災地応援もできる。
<つづく>
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2011年05月10日
ぽかぽか春庭「母の日」
2011/05/10
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年5月>新緑さんぽ(6)母の日
私は日替わりで出かける大学ごとに違う鞄を持って出ます。鞄の中にはペンケースが二つずつ入っている。そのうちのふたつは、娘が小学生のころに使っていたペンケースを「捨てるのはもったいない」と拾い上げたもの。蛙のキャラクターが描かれたのや、「インクの染みがついてしまってから捨てる」と、捨てられるところだった品です。
「もう、その古いペンケース、いいかげんで、やめれば」と言って、娘が手縫いの布製ペンケースをプレゼントしてくれました。
今のところ、娘にとって毎日の「家事手伝い」は、家族の夕食つくりで、趣味は手芸です。荷造り紙ヒモを編んだ籠作りとか、刺繍や刺し子をほどこした手作りグッズなどを作っています。母の日に向けて娘が作っていたのは、クロスステッチをあしらったペンケース。「クロスステッチの模様の位置をちょっと間違えちゃった」と言うのですが、見た目にはまたくそんなことはわからないので「それが手作りの味だもの」と言ってありがたく受け取りました。一泊旅行にちょうどよさそうな大きさのバックといっしょに、母の日のお祝いの品です。
5月8日、姑のところへ母の日のご機嫌伺いに出かける私に、息子が同行してくれました。姑が詩吟を吹き込むために使っているカセットレコーダー。「録音してみたら前にテープに吹き込まれていた先生の声が消えてしまった、どうしたらいいの」というおたずねがあったのだけれど、私には機械のことはわからないので、息子にいっしょに行ってもらったのです。息子が、姑にもう一度録音手順を説明し、先生の詩吟を録音済みのテープは、上書き録音ができないようにテープの爪を折って上書き防止措置をとるなど、してくれました。
私も、授業用のビデオテープをDVDに焼き直すなどの措置を息子に任せきりで、私自身はちっとも機械の扱いが進歩しません。しかし、息子にまかせて、やってもらうことがあるってのも、「親孝行させてあげるも、一苦労」のうちかもしれません。
姑に孝行すべき夫は、一日早く7日にご機嫌伺いに行って用足しをしてきたようで、姑は「電球のタマを取り替えてくれ」とか「古新聞をまとめて資源ゴミのところに持っていってほしい」とか、「親孝行させてあげる」用足しを、タカ氏に言いつけています。何かというと「仕事が、仕事が」と忙しがるタカ氏も、86歳の姑の言いつけには逆らえません。
私はいつもの「必要なものがあったら、買い足してください」というお祝い包みを渡すのみで、楽なヨメです。
姑宅に行く前に、前から気になっていたフレンチトースト専門店「Cafe Haru&haru(カフェ・ハルハル)」へ、息子と入ってみました。
「マリアージュ・フレール」というフレンチティーの茶葉をつかっている、紅茶とフレンチトーストの店です。昨年の12月にオープンした店で、東急線の踏切脇にあるのですが、その場所、前は蕎麦屋、その前は何の店だったかわすれてしまったけれど、何業の店がオープンしても、だいたい1年くらいたつと店が変わってしまう場所なのです。「カフェ・ハルハル」も早くお試ししておかないと、入ってみないうちに別の店になってしまうかもしれず、寄ってみました。
私はベーコンエッグとソーセージ付きフレンチトーストとアールグレイ、息子は苺のデザートつきフレンチトーストと、マルコポーロというお茶。中国とチベットの花とフルーツを入れた紅茶、という説明をしてもらいました。
むすこの感想は「とても好みのセットで、おいしかったけれど、セットで1300円もするなら、ボクはサンシャインのオザミで食べたフォアグラリゾット1500円ランチのほうがいいな」と言います。貧乏性は親ゆずり。
そんな22歳、彼女いない歴22年の男子が、母の日にいっしょにフレンチトーストとマリアージュフレールティーなんていうしゃれた紅茶の店に同行してくれるのも、親孝行と言えばいえる。他のテーブルはほとんどおしゃれなデートを楽しむカップルか、ご近所のマダムグループのおしゃべり会で、天丼屋ならひとりで入れる私も、こういう雰囲気だと一人では入りにくかったから、息子を連れてきてちょうどよかった。
お店のサイトはこちら。http://haruandharu.com/
86歳の姑がひとり暮らしを続けている家。母の日に訪ねれば、姑は「腰が痛い」などと言いながらも、山かけ丼を作り煮物をならべ、せいいっぱいごちそうしてくれる。姑は月曜日は歯医者通いや定期検診のほか、火曜から土曜まで、詩吟、老人会、童謡を歌う会、お習字、体操の会と、毎日出歩いている。
私も一病息災ながら、仕事も続け趣味のジャズダンスも続けている。夫はあいかわらずひとり気ままに生きている。娘と息子は、祖母にも母にも気遣ってくれる。
あれもないこれも足りないと思えば、不足にきりはないけれど、親子なんとか生きていると思えば、有り難い今の状態なのですから、今週から「週に6日、12週連続で働く日々」をなんとか乗り切ろうと思います。早くも思いは12週間後の夏休みに飛んでいますが、せいぜい老骨むち打って働きましょう。
<つづく>
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2011年05月11日
ぽかぽか春庭「探検家になりたかった」
2011/05/11
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年5月>新緑さんぽ(7)探検家になりたかった
震災後、息子の大学は卒業式を中止しました。卒業式といっしょに実施されるはずだった22年度卒業生成績優秀者表彰式も中止になったため、息子が母にプレゼントする予定の記念品の時計ももらっていませんでした。「あれ?時計くれるっていうの、どうなったのかな。中止のまま?」と思っていたら、成績優秀者表彰式が5月11日に行われるので出席するよう、息子のところへメール通知があったそうです。
息子は、大学院の授業があるのでどっちにしろ大学へ行く日だからと出席し、記念品をもらうことにしましたが、卒業後地方に就職して東京にはいないという人たちにとっては、平日の出席が難しい人もいることでしょう。あとで郵送か何かで記念品が届くのではないかと思います。
息子は「母にあげると言っていた記念品、母の日のプレゼントと兼用になった」と、言います。母の日プレゼントと兼用?、、、、う~ん、ま、いいか。母としては、息子が中世史を研究する、という好きな道を見つけて「この先も貧乏な暮らしを続ける」覚悟の記念品と思うので、喜んでプレゼントを受け取ることにしましょう。
ひとつの道を見つけて、黙々と目標に向かって歩き続ける、山の頂上を目指して一歩一歩前へ進む、頂上は果てしなく遠く、途中で下山を余儀なくされることもあるけれど、再挑戦は何度でも。
3月5日に、登山家栗城史多(くりきのぶかず)さんのドキュメンタリーを見ました。無酸素単独登攀によるエベレスト山頂からの生中継を目指して、挑戦し続けている登山家です。2009年9月チベット側、2010年9月ネパール側から挑んだが、8,000mに達することが出来ず撤退。2011年後期に3度目の挑戦を予定しているそうです。
無酸素で8000m級の山に登ることは私にはできないことですが、見知らぬ土地へ。トロッコに乗って、ローカル電車に乗って、路線バスに揺られて、自転車のペダルを踏んで。いつもどこかに行きたいと思っています。ここからどこか遠くへ行ってみたいと思うことは、人が持つ特性のひとつなのかもしれません。
太古から、人は小さな舟で海を渡り、沙漠を越えて駱駝を駆った。
小学校1年生のときはアンデルセン童話集やラング編集の「世界童話集」が大好きでした。アンデルセンの飛行かばんのように空を飛び、世界中から集められたラングのお話のように、見知らぬ土地を旅したかった。小学校4年生から、市立図書館に通うようになると、探検物語冒険物語に好みが移りました。アマゾン奥地、アフリカ大陸、アジア最奥部などの見知らぬ土地を探検する探検家があこがれの的でした。
将来はアフリカでリビングストンを救出したスタンリーのようなジャーナリストになるか、シルクロードを探検したスウェン・ヘディンのような考古学者地理学者になるか、どちらが探検家として有利だろうかと悩みました。当時は「アフリカ探検」がアフリカに奴隷貿易などの厄災をもたらしたことや、帝国主義による植民地分割が行われたことなどは語られず、「探検」の血沸き胸躍る冒険譚のみが流布していたのです。(リビングストン自身は奴隷貿易に身を以て抗し、そのため暗殺されかかったこともある)
小学校6年生の卒業作文集には「私の将来の希望」として「ジャーナリストになりたい」と書きました。本当は「探検家になりたい」と書きたかったのですが、そんな昔でさえ、すでに地理的な探検の時代は終わっているから「探検家」という職業が成り立たないことは知っていたのです。
探検家希望は、ずっと続きました。高校のころはインカ帝国探検を行った泉靖一のような文化人類学者こそ目指すべき目標と思い、文化人類学者になることが探検家への近道と思いました。20歳のころはコンチキ号や葦船ラー号で大西洋太平洋を航海した人類学者ヘイエルダールがmy heroでした。
植村直己や関野吉晴らをあこがれの目で眺めつつ、私に出来たのは、アフリカに1年弱滞在し、楽しくダンス修行することだけでしたけれど。
現代では、文化人類学や考古学などの学問上の発見はあるけれど、地理上の発見はすでに探検家の手には残されていない、という現実を知り、探検家になる夢は遠のいていきました。アフリカもアマゾン奥地も北極も南極もすでに人類未到の地はなく、すべてが地図の上に書き尽くされていた、、、、未知の土地は宇宙か海底にしかない、、、、
ところが、現代にも「地図上の空白を埋める地理的探検」が残されていたことを知りました。
あまたの登山家探検家が挑み、越えられないで来たチベットの山奥、ツアンポー峡谷です。5マイルが地図上に空白地帯として前人未踏の地となって残されていました。
2010年第8回開高健ノンフィクション賞を受賞した『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』。著者は角幡唯介(かくはた ゆうすけ34歳)。朝日新聞に書評が載ったときの肩書きは「早稲田大学探検部OB」
「OB」を肩書きにするなんて、へんな著者だと思ったが、これは「元朝日新聞記者」とは書きにくい朝日の苦肉の策だったみたい。別に「元朝日記者」という肩書きであったとしても「朝日新聞だからひいきして書評を載せた」なんて思わないのに。
角幡さんのブログhttp://blog.goo.ne.jp/bazoooka
七大陸最高峰踏破最年少記録を打ち立てた野口健さんとか、犬ぞりで北極点を通過した高野孝子さんとか、現代にも冒険家と呼ばれる人々はいるけれど、地図の空白地帯を踏破し、地理上の探検を成し遂げた人がいることは、「元探検家志望」としては胸躍る。
最後の地理上の空白地帯が踏破され、これで本当に「地理的探検家」は最後になりました。でも、この地球上に、冒険や探検のタネはつきません。きっと。
植村直己さん星野道夫さんら、忘れがたい方々の残された足跡を見つめつつ、そして現代の探検家に胸おどらせつつ、私は知の空白地帯、知の最高峰をめざして探検を続けます。
探検家冒険家の偉大な足跡には遠いけれど、私なりの「私も散歩と雑学が好き」精神で歩き回ろうと思っています。
<おわり>
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年5月>新緑さんぽ(1)ささやかな行楽
ロシア開催の世界フィギュア選手権。テレビ放映を楽しみました。安藤美姫の世界一位獲得、よかったです。安藤美姫選手は2007年に世界選手権で優勝して以後、2008年には世界選手権途中棄権するなど不調が続き苦しみました。粘り強く復調をはかり、4年ぶりに世界選手権のトップになったこと、多くの人を励ましたことでしょう。
実は、生でフィギュアを観戦したいという娘息子のリクエストに応えて、4月に横浜で開催されることになっていたフィギュア国別対抗戦を見に行く予定でした。3月はじめにはチケットが届いていたのに、震災の影響で、対抗戦は中止になってしまいました。
そのほか、いろいろ予定変更があった中、4月23日には三春の滝桜を見に行く計画で、旅行社に申し込みをしたのもキャンセル。4月生まれの妹への誕生日プレゼントとして「日帰りバスツアー」を申し込んだのです。しかし、3月11日のあと、ぐちゃぐちゃになった部屋がまったく片付かない状態や、私の地震酔いのめまいへの不安から、キャンセルしてしまいました。
「滝桜はまた来年のお楽しみ」ということで納得したのですが、新聞に「平年は30万人の人出があるのに、今年の滝桜見物客は5万人」という記事が出て、見事な桜の写真を見ると、あれま、ちょっとキャンセルを待っていればよかった、と残念です。満開日の予測がぴたりと当たって、満開の2日後の土曜日という絶好日のバスツアー予定だったのに。
福島は風評被害もあって、観光が打撃を受けたということなので、キャンセルして悪いことしたような気分です。
それで、「行ったつもり行楽」をすることにしました。滝桜ツアーに参加すれば、日帰りバスツアーひとり7000円、妹と私の二人分の旅行代金14000円を払い込むはずでした。できる限りお金をつかわずに一日行楽をし、使ったお金と14000円の差額を福島県への義援金にしようと思いついた次第。行楽の足は自転車。乗り物代をかけず、買うのは食べ物飲み物のみという一日自転車ツアーです。
4月29日、ママチャリ自転車ポタリングに出発。
ママチャリポタリングは私の趣味のひとつ。でも、この3年間、週に5日働き、土日は家事と翌週の仕事準備、論文執筆やゼミ出席などで、なかなかゆったり気分でポタリングはできませんでした。
ほんとうに何年ぶりかの、目的地も決めずに出かける「行き当たりばっ旅」
「自転車で出かけて、あちこちぶらつく」というポタリング。
ポタリングは、パターゴルフなどのputterから来た和製英語、という説を長いこと信じてきたのですが、米語口語ではputterまたは potter とも綴られ、 potter around, potter overなどの表現で、ぶらつく、だらだらすごす、などの原義があることがわかりました。(研究社New collegiate English-Japanese Dictionary)。
サイクリングが、「自転車を走らせること」に重きを置く移動手段であるのに対して、ポタリングは「ぶらぶらとあちこちをめぐる自転車移動」をさしています。ただし、米語口語といっても、あまり一般的な表現ではないようです。英語母語話者のカナダ人留学生ふたりに聞いてみたところ、やはり使ったことのない語だと言っていました。日本でしか使われていない表現という意味では和製英語に近いのかも。
29日金曜日。ゆっくり起きてから、しばらくは見沼田んぼとか荒川土手サイクリングコースなどを走ったポタリング記録のサイトを眺めていました。どうしよう。東京近郊の緑の中、自然を求めて走るか、街中の公園めぐりをしながら走るか。
小石川植物園、後楽園、新宿御苑などの庭園めぐりをしようかなと考えて、最初、旧古河庭園へ行きました。入園料150円払って入ったけれど、まだバラの開花には早くて、キモッコウバラ(黄木香薔薇)のほかは咲いていませんでした。それで「緑の中を走る自然と親しむポタリング」というのは変更。結局、今まで何度か走ったことのある、「街中商店街めぐり食べ歩き」ということにしました。めぐった商店街は、霜降銀座、染井商店街、駒込さつき通り商店街、駒込アザレア通り商店街、田端銀座、谷中銀座などです。
旧古河庭園近くの霜降銀座商店街とそれにつながっている染井商店街を往復。霜降銀座は、「名探偵・浅見光彦の住む街」としてミステリーファンにはおなじみの商店街です。私は、推理小説とテレビの2時間番組ミステリーは、「仕事リタイア後のお楽しみ」にとってあり、ほとんど見ていないのですが、震災後、「ぼうっとテレビばかり見てすごしたころ」に、『浅見光彦シリーズ、漂白の楽人』というのを見ました。沼津と新潟越後妻有アート村が出てきましたが、このときは霜降銀座は出ていませんでした。
<つづく>
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2011年05月05日
ぽかぽか春庭「食べ歩きポタリング」
2011/05/05
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年5月>新緑さんぽ(2)食べ歩きポタリング
霜降銀座の、駒込側入り口近くの「西尾中華そば」。12時前なのに、店内のカウンター席7席は満杯、すでに5人ほど並んでいます。う~ん、並ぶのはどうだろうと思っていたら、3人が中に入り、私の前は2人になりました。これならそれほど長くはかからないかと思って待つことしばし。カウンター席が7つあるだけの小さな店ですが、どうやら「ラーメン小僧」たちの行脚地のひとつになっている模様。「魚介だし醤油味」がウリみたい。
「本日のラーメン、鯛ニシチュウ」というのを食べました。おいしかったけれど、私にはラーメンに千円払うのは贅沢のうちです。ま、ポタリングエネルギー補給のため、千円を許しましょう。
食べ終わって、さあ、自転車こぎに出発です。
商店街めぐりのポタリング。
霜降銀座の次は、駒込駅北口のさつき通りと、駒込駅南口のアザレア通り商店街を通り抜ける。花卉に詳しい人によれば、西洋アザレアの原種は台湾つつじだそうですが。わたしにはさつきもつつじもアザレアも区別がつきません。
田端銀座商店街の豆腐屋で厚揚げとがんもどきを一つずつ買いました。250円。愛想の悪いオッサンが、ビニール袋に入れて渡してくれました。
それから谷中銀座へ。1996年にNHK連続テレビ小説『ひまわり』の舞台になり、松嶋菜々子とともに全国区になった地域です。テレビのタウンガイド番組で時々特集放送されるので、上野観光のあと足を伸ばすお客がどっと増えた商店街です。地元の住民相手の素朴な商店街ではなく、観光用になっている店が増えたのはいたしかたないところでしょう。
店前のビール箱にお客が座って、生ビールやラムネを飲んでいる酒屋さん。ラムネ130円を買って、ビール箱に腰掛ける。お客たちが隣の揚げ物屋で買ったらしいチキンカツをほうばっているのを見て、田端銀座で買ったがんもどきを囓ってみた。うん、やっぱり焼いてちょっとお醤油を垂らしたり、煮付けにするほうがおいしいみたい。
「夕焼け段々」へ向かい、途中の総菜屋でコロッケとメンチカツを買う。総菜屋「いちふじ」は、一個30円のコロッケが有名らしい。30円コロッケ4個と、ためしにメンチカツも買ってみる。150円。う~ん、こぶりなコロッケは30円なら許そう、という味。メンチはうちの地元の肉屋のほうがおいしい。ま、観光客相手になってくると、どこも味が落ちるもんです。店前には「撮影禁止」と札が下がっている。コロッケ買わずに写真だけ撮影するヤカラへの警告であろうけれど、買った側からすると、写真くらい好きに撮らせてもいいんじゃないの、と思う。30円でお高くとまるというのも何だし。
谷中墓地を抜ける。鳩山一郎の墓の隣に横山大観があったり、高橋お伝の墓の前を通ったりして、上野桜木町へ。前から気になっていて、一度は入ってみようと思っていたショコラティエ・イナムラショウゾウという店へ。パティスリー・イナムラショウゾウの姉妹店。ここも5人ほど並んでいました。
待っている間、出来上がったキャラメルチョコケーキを若いパティシエが切り分けるようすを見ていたので、かなり長く待ったけれど、退屈はしなかった。いっしょうけんめいモノを作るようすを見ているのは大好きです。ここまでは、いい気分でした。
ショコラティエ・イナムラショウゾウの店の喫茶部。ようやく入り口ドア前の席があいて、座りました。キャラメルミルクチョコレートケーキとレモネードを注文。
あっという間にケーキ(めちゃ甘)を食べ、レモネードは「甘くしないで」というのを忘れてしまい、やたらに甘いので、半分だけ飲んでトイレへ。トイレから出てみたら、テーブルの上はすべて片付けられていた。
お客さんが列を作って待っている状態なので、一人客はテーブルひとつ占領する割にひとり分しか払わないのだから客単価が低いし、早く出ていってもらいたい店側の気持ちはわかるが、レモネード、あと半分飲みたかったのに。ちょい気分悪い。他の2人組やグループ客が長々おしゃべりしているのはお構いなしなのに、一人客がそんなにジャマかい、と思って、ケーキとレモネード代1200円払って出た。
いい感じの店だったら、娘と息子といっしょに上野の科博に来たときにでも寄ってみようと思っていたのだけれど、どんな店かわかったから、もう来なくてもいいや。客あしらいというのは、接客業の基本。どんな客にも気持ちよく楽しくすごしてもらうのがお店の価値を上げると思うのに。
ま、有名店だから、私ひとりが二度と行かないとしても、この先、繁盛をつづけることでしょう。かように、一人旅というのは肩身狭い思いをすることも多いのですが、めげません。おひとり様を大事にせんで、日本の未来はないっ、って白髪振り立ててのお一人様の主張。
<つづく>
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2011年05月06日
ぽかぽか春庭「干し柿と羽二重団子」
2011/05/06
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年5月>新緑さんぽ(3)干し柿と羽二重団子
上野桜木町で、いつも立ち寄るのが、下町風俗資料館付設展示場の「酒屋・吉田屋」。江戸時代の出桁造り(だしげたづくり)の木造建築。旧谷中茶屋町(現谷中六丁目)にあった酒屋が改築する際、台東区が上野桜木町に移転保存した建物です。自転車を店先に置いて、ちょっとベンチでひと休み。家から持ってきた飲み物は、「東京の水道水」を空きペットボトルにつめたものです。(倹約!)
上野桜木町から上野公園へ。東京芸大の正木記念館平櫛田中コレクション。前回見たのとは展示替えになっているのもあったので、ゆるゆると見た。(無料!)芸大美術館は入場料1200円だったので、今回はやめ。食べ物以外にはお金を使わない主旨の散歩なので。
上野の奏楽堂のコンサートも29日は有料だったし、(5月1日には、いつもの無料コンサートもあったのだけれど)博物館も気乗りしなかったので、不忍池へ下る計画をとりやめて、再び谷中墓地の方面へ戻りました。
霊園の日暮里側の出口で「干し柿パックふたつ千円」と言って、自転車の上に干し柿を載せて売っているおっさん。産地表記なしで、なにやら怪しげな干し柿っぽかったけれど、ま、いいかと3パック千円にしてもらって買った。近所のスーパーでは1パック200円くらいの品(たぶん中国製)だけど、いいや。谷中霊園の霊気払い、ということにする。(墓参りにいくと「私は霊感が強いので、毎回だれかの霊が私にくっついてきてしまう」という妹と違い、霊も人を選ぶので私には誰もついて来ることはないのだが。霊にも嫌われている私)
干し柿、母が大好きだった。母が子どもの頃の「一番甘いおやつ」だったから、母は家の玄関脇に柿の木を植えて、毎年甘柿がたわわに成るのを楽しみにしていました。私は子どもの頃は好きじゃなかったのに、年をとったら生の柿も干し柿も食べられるようになりました。
でも、わが家では私しか食べないので、市田柿の干し柿とか、たまにしか買いません。霊園前のちょいあやしげな干し柿だけど、キャラメルチョコケーキよりは体にいい気がする。(そんなにカロリー気にするなら、食べなきゃ良かったんだけど。ショコラティエのケーキ)。
谷中からJRの跨線橋を下りたところ、東日暮里の羽二重団子の店がありました。ええい、リベンジだっ。
なんのリベンジかっていうと、カロリー気にしつつ蛮勇ふるってケーキ食べたのに、店の人にジャマにされたことのリベンジ。もうちょっとゆっくりとした気分で帰りたかった。さっきのケーキはおひるのデザートで、こんどの羽二重団子はおやつってことです。そろそろ3時すぎたし。
あんことみたらし焼き団子の2本セットに、急須の煎茶がついて525円。店奥のお庭を見ながらほっこりできました。と、思ったら3時のせいか、急に女性グループがごったがえしてきた。またジャマにされると、せっかくの「リベンジのんびり気分」が台無しだから、お団子食べ終わったところで、退散。
西尾久から尾久橋あたりへ自転車を向け、地図を見て確かめると、たしかこの先に荒川遊園地がある。
20年以上も前のこと。奨学金でカツカツ食べていたころ、幼い娘と息子にこどもの日の行楽もプレゼントできない生活の中、よく遊びに出かけた遊園地です。都電で行ったこともあったけれど、自転車の前に取り付けた座席に息子、後ろの荷台の座席に娘を乗せて出かけることも多かった。私は疲れるけれど、電車代を浮かせた分で遊園地の乗り物代をまかなうことができたのです。荒川区の区営遊園地なので、アトラクションも1回50円とか100円程度で安かったのですが、麦茶を水筒につめて、おにぎりや鶏唐揚げを作って、節約モードで一日、観覧車や動物コーナーで遊べる所でした。
なつかしいので荒川遊園地に寄って行こうと思ったら、天気雨がぱらつきました。本格的な降りになると、私は傘を差して片手運転ができないので、困ってしまいます。もしかして放射能入りの雨かもしれないし。あわてて帰り道へ。
「食べ歩き商店街さんぽ」一日の行楽費用。
ラーメン1000円、豆腐とガンモ250円、ラムネ130円、コロッケとメンチ270円、キャラメルチョコケーキとレモネード1200円。干し柿1000円、羽二重団子煎茶セット525円。合計4405円。
滝桜見物ツアーへ払うはずだった14000円から差し引き1万円の義援金が用意できました。これまでも、震災援助募金の箱に入れる金額はささやかな気持ちばかりのものでしたけれど、今回の「旅行したつもり寄付」も、もともとがたいしたことのない行楽費ですから、「100億円の寄付」などに比べれば、「貧者の一灯」です。けれど、まあ、気は心、となぐさめながら、おみやげの「あやしい干し柿」を食べました。
<つづく>
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2011年05月07日
ぽかぽか春庭「みどりの日ポタリング」
2011/05/07
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年5月>新緑さんぽ(4)みどりの日ポタリング
5月4日、みどりの日、庭園めぐりをしました。
4月29日は商店街めぐりだけにとどめて、庭巡りをしませんでした。なぜなら、旧古河庭園に入ったとき、「そうだ!みどりの日は4月29日じゃなくて5月4日になったんだった。庭園入園料が無料になるのは4日じゃ」と、気づいたから。「移動の足は自転車。食べ物飲み物以外にお金を使わない一日」という「節約行楽」をするには、「入園料無料」の日を選ばなくては。
朝、9時前に家を出ました。旧古河庭園の前には、開門を待つ人がすでに並んでいました。でも、古河庭園はバラがまだ咲いていないのを4月29日に確認したので、パス。
駒込六義園へ。しだれ桜の花見の時は開いていなかった駒込駅前の染井門が開門していました。いつもは正門から入って、池の周りをぐるっと回って出てくるのですが、染井門側から入ったので久しぶりに北側の木立の中を歩きました。外の車の音を気にしなければ、深い森の中を通り抜けているような気分になります。
藤代峠と名付けられている築山の斜面に赤、白、ピンク、薄紫など色とりどりのツツジが鮮やかに咲いています。立て札に、八重霧島、大紫などの種類が書かれているのを見ながら、30分ほどツツジの間を歩き、写真をいっぱい撮りました。
白山通りから小石川植物園(東京大学大学院 理学系研究科附属植物園)へ。ここもツツジとサツキ、フジがきれいに咲いていました。藤の種類も、長崎一才、野田長藤など、藤色もさまざまな色合いで花房も長短いろいろに咲いています。そうか、藤って豆科の植物なのか。そういえば、スイートピーなどと花の形が同じだ。
白いハンカチのような、「ハンカチの花」も見頃でした。11:30分まで1時間ほど広い園内を散歩。
東京ドームの脇を通って小石川後楽園へ。
園内は地震で壊れたところの補修工事が行われているところもありましたが、つつじ、藤は例年のように咲いて、2月に見た梅は青い実をつけていました。
園内順路の中、段差があるところで、お年寄りを乗せて車椅子を押している方が難儀していたので、お手伝い。補修工事のついでに、段差をなくして、バリアフリーにしてくれたらよいのに。女性ふたりで車椅子を持ち上げるのは、かなり重かった。
12:30まで、「水戸のご老公」になった気分で散歩。
後楽園のお庭のはじっこに、水戸藩家臣・藤田東湖の碑があります。東湖は、徳川斉昭(15代将軍慶喜の父)の腹心として、幕末の水戸藩政を支えました。若き日の西郷隆盛など有為の若者が水戸藩邸の東湖の元に教えを請いに集まり、多大な影響を受けています。
東湖は、安政2年10月2日(1855年11月11日)に発生した安政の大地震の際、母とともに崩れるかかる家から逃れました。しかし、東湖の母親は、「火鉢の不始末から火事をだしたら、申し訳ない」と、邸内に戻ったため、東湖も後を追いました。家は崩れ、鴨居が落下し、母を襲います。東湖は、母を守る為に自らの肩で鴨居を受け止め、母親を脱出させましたが、力尽き、瓦礫の下敷きとなって圧死しました。享年50歳。西郷隆盛は、東湖の死を悼む手紙を書き残しています。
3月11日の大津波の際、寝たきりの老人を介護していたため、「親を置いて逃げるわけにはいかない」と家に残り、ともに波に呑まれたご家族が少なくなかったと聞きます。家族を大切に思い、一命に代えても守りたいというのは藤田東湖ばかりでなく、だれも心に思うことでしょうが、助けられた家族の思いは悲痛なものであるでしょう。残された人々、亡くなった方の分まで生き抜いて欲しい。東北震災の避難所のニュースで、小学生の男の子が「お母さんはいなくなってしまったけれど、お母さんの分まで生きる」と決意を語っていたのをテレビで見ました。残された人々が強く、家族の分まで生き抜いていけるよう、応援していきたいです。
震災義援金を作るための自転車ポタリング、続けます。
<つづく>
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2011年05月08日
ぽかぽか春庭「みどりの日つつじ巡り」
2011/05/08
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年5月>新緑さんぽ(5)みどりの日つつじ巡り
水道橋から湯島へ行く道、少し迷いました。神田神社も湯島天神もお参りせず、お腹も空いたので、13:00に湯島の天ぷら屋天久へ。店の外に2人連れが並んでいたので、うしろにつく。以前に旧岩崎邸へ来たとき、近くにあるこの天久に寄ったことがあります。山のようなかき揚げが名物の店。畳席6人分。カウンター席7人分の小さな店ですが、そのときはすぐに食べられたので、2人並んでいても、そんなに待つと思わなかったのです。
しかし、これがたいへんでした。入り口の外でまつこと15分。ドア内に入って立って待つこと10分。待ち席の椅子にすわって10分。カウンターの一人席が空いたので、腰掛けて待つこと。45分。列に並び始めてから天丼を口にするまで、1時間と20分かかりました。連休で大忙しのところ、下ごしらえの職人さんひとり、揚げ方の女性ひとり、お運びひとりで回しているので、客を待たせてしまうのもしかたのないところなのでしょうが、私がこれまでに食べ物を待った最長記録になりました。
やっと運ばれた5色天丼1500円は、食べるのはいつもと同じ早さで20分で食べ終わってしまい、なんだかあっけない。これなら私は待たずに食べられるチェーン店「てんや」の580円天丼のほうがいいわ。天ぷらネタも油も専門店よりは味が落ちるのかもしれないけれど、待たずにすぐ出てくるイージーさが私向き。食べ終わって出たら、もうまもなく3時。
旧岩崎邸は、洋館前に並ぶ列が長く伸び、「入館までの待ち時間は30分」というので、それなら、こんな混んでいる時でなくてもいいや、と庭から洋館の南側を見ただけで出ました。土曜日にコンサートをやっているときに来ようと思います。
不忍池の周辺を自転車で走る。3時半。
上野動物園の忍ばず口に臨時駐輪場があったので、自転車を止めて入って見ました。動物園もみどりの日、無料です。園内、私がこれまでに上野動物園に来たなかで一番の混み混みでした。人の頭越しにレッサーパンダやオカピをみながら、東園へ。パンダはどうなっているかを見ると、園内ぐるりとパンダ待ちの列。2時間待ちというので、象をちらりと見たりラマを見たりしてまた西園にもどって出口へ。
29日に、なつかしい荒川遊園地へ寄れなかったので、子どもが小さい頃よく来た動物園に寄って見たのですが、往時をなつかしんでいる余裕もないくらいの人混みでした。昔は子ども料金、低額ながら有料だったような気がしているけれど、都内在住の小学生、上野動物園は今はいつでも無料。無料だったら毎週行ったかも。子どもが少し大きくなってからは科学博物館がよく行くところになりました、今も毎年恐竜展などに親子で出かけます。4時半。
根津神社のつつじ祭りへ寄りました。甘酒や酒饅頭を売っていたけれど、ここは買わずにつつじだけ見ました。5時。
日本医大の前を通って本郷通りへ。六義園の染井門前へ戻りました。
染井門の斜め向かいのパン屋。ベーカリーカフェに入って、イートインでコーヒーだけ飲むつもりだったのだけれど、おみやげに買ったパンを3個食べちゃいました。おやつにパン3個は多かったか。5時半まで休憩。今日もカロリーオーバーな一日行楽でした。
6時。「夕焼けチャイム」が鳴るころ、家に着きました。
本日の支出。小石川植物園でマンゴージュース130円。天久五色天丼1500円。ニキベーカリーでコーヒーとパン600円。合計2230円。東京花巡り昼食付きという日帰りバスツアー5200円に参加したつもりで、差額の3000円を寄付することにします。
今回のひとり散歩でよかったこと。2年前に買ったデジカメ。はじめてセルフタイマーを使うことができました。機械に弱くて、何の機能も使えなかったのが、本日はきれいなツツジの前で、セルフポートレートスナップ撮影。いやあ、花のように美しいスナップが撮れました、、、、、とはいかず、食べ歩きで一段と膨らんだ太鼓腹が、ど~んと写っております。
5月7日。娘息子と池袋に行き、サンシャインビル59階でランチ。ぼんやりしていた高層からの眺めが、雨が上がりかけると、だんだんにはっきりしてくるようすを見ながら、フレンチのランチコースを楽しみました。3人分で5400円。帰りにコージーコーナーのケーキをおみやげに。1000円。
こうして、2011年のゴールデンウイーク、4月29日からの5月7日まで、行楽飲食費用、13000円なり。同額の13000円を義援金にあてることにします。
自分が楽しんだ分と同額寄付するってのは、いい方法じゃないかしら。自粛するよりは、自分も楽しく消費し、被災地応援もできる。
<つづく>
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2011年05月10日
ぽかぽか春庭「母の日」
2011/05/10
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年5月>新緑さんぽ(6)母の日
私は日替わりで出かける大学ごとに違う鞄を持って出ます。鞄の中にはペンケースが二つずつ入っている。そのうちのふたつは、娘が小学生のころに使っていたペンケースを「捨てるのはもったいない」と拾い上げたもの。蛙のキャラクターが描かれたのや、「インクの染みがついてしまってから捨てる」と、捨てられるところだった品です。
「もう、その古いペンケース、いいかげんで、やめれば」と言って、娘が手縫いの布製ペンケースをプレゼントしてくれました。
今のところ、娘にとって毎日の「家事手伝い」は、家族の夕食つくりで、趣味は手芸です。荷造り紙ヒモを編んだ籠作りとか、刺繍や刺し子をほどこした手作りグッズなどを作っています。母の日に向けて娘が作っていたのは、クロスステッチをあしらったペンケース。「クロスステッチの模様の位置をちょっと間違えちゃった」と言うのですが、見た目にはまたくそんなことはわからないので「それが手作りの味だもの」と言ってありがたく受け取りました。一泊旅行にちょうどよさそうな大きさのバックといっしょに、母の日のお祝いの品です。
5月8日、姑のところへ母の日のご機嫌伺いに出かける私に、息子が同行してくれました。姑が詩吟を吹き込むために使っているカセットレコーダー。「録音してみたら前にテープに吹き込まれていた先生の声が消えてしまった、どうしたらいいの」というおたずねがあったのだけれど、私には機械のことはわからないので、息子にいっしょに行ってもらったのです。息子が、姑にもう一度録音手順を説明し、先生の詩吟を録音済みのテープは、上書き録音ができないようにテープの爪を折って上書き防止措置をとるなど、してくれました。
私も、授業用のビデオテープをDVDに焼き直すなどの措置を息子に任せきりで、私自身はちっとも機械の扱いが進歩しません。しかし、息子にまかせて、やってもらうことがあるってのも、「親孝行させてあげるも、一苦労」のうちかもしれません。
姑に孝行すべき夫は、一日早く7日にご機嫌伺いに行って用足しをしてきたようで、姑は「電球のタマを取り替えてくれ」とか「古新聞をまとめて資源ゴミのところに持っていってほしい」とか、「親孝行させてあげる」用足しを、タカ氏に言いつけています。何かというと「仕事が、仕事が」と忙しがるタカ氏も、86歳の姑の言いつけには逆らえません。
私はいつもの「必要なものがあったら、買い足してください」というお祝い包みを渡すのみで、楽なヨメです。
姑宅に行く前に、前から気になっていたフレンチトースト専門店「Cafe Haru&haru(カフェ・ハルハル)」へ、息子と入ってみました。
「マリアージュ・フレール」というフレンチティーの茶葉をつかっている、紅茶とフレンチトーストの店です。昨年の12月にオープンした店で、東急線の踏切脇にあるのですが、その場所、前は蕎麦屋、その前は何の店だったかわすれてしまったけれど、何業の店がオープンしても、だいたい1年くらいたつと店が変わってしまう場所なのです。「カフェ・ハルハル」も早くお試ししておかないと、入ってみないうちに別の店になってしまうかもしれず、寄ってみました。
私はベーコンエッグとソーセージ付きフレンチトーストとアールグレイ、息子は苺のデザートつきフレンチトーストと、マルコポーロというお茶。中国とチベットの花とフルーツを入れた紅茶、という説明をしてもらいました。
むすこの感想は「とても好みのセットで、おいしかったけれど、セットで1300円もするなら、ボクはサンシャインのオザミで食べたフォアグラリゾット1500円ランチのほうがいいな」と言います。貧乏性は親ゆずり。
そんな22歳、彼女いない歴22年の男子が、母の日にいっしょにフレンチトーストとマリアージュフレールティーなんていうしゃれた紅茶の店に同行してくれるのも、親孝行と言えばいえる。他のテーブルはほとんどおしゃれなデートを楽しむカップルか、ご近所のマダムグループのおしゃべり会で、天丼屋ならひとりで入れる私も、こういう雰囲気だと一人では入りにくかったから、息子を連れてきてちょうどよかった。
お店のサイトはこちら。http://haruandharu.com/
86歳の姑がひとり暮らしを続けている家。母の日に訪ねれば、姑は「腰が痛い」などと言いながらも、山かけ丼を作り煮物をならべ、せいいっぱいごちそうしてくれる。姑は月曜日は歯医者通いや定期検診のほか、火曜から土曜まで、詩吟、老人会、童謡を歌う会、お習字、体操の会と、毎日出歩いている。
私も一病息災ながら、仕事も続け趣味のジャズダンスも続けている。夫はあいかわらずひとり気ままに生きている。娘と息子は、祖母にも母にも気遣ってくれる。
あれもないこれも足りないと思えば、不足にきりはないけれど、親子なんとか生きていると思えば、有り難い今の状態なのですから、今週から「週に6日、12週連続で働く日々」をなんとか乗り切ろうと思います。早くも思いは12週間後の夏休みに飛んでいますが、せいぜい老骨むち打って働きましょう。
<つづく>
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2011年05月11日
ぽかぽか春庭「探検家になりたかった」
2011/05/11
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年5月>新緑さんぽ(7)探検家になりたかった
震災後、息子の大学は卒業式を中止しました。卒業式といっしょに実施されるはずだった22年度卒業生成績優秀者表彰式も中止になったため、息子が母にプレゼントする予定の記念品の時計ももらっていませんでした。「あれ?時計くれるっていうの、どうなったのかな。中止のまま?」と思っていたら、成績優秀者表彰式が5月11日に行われるので出席するよう、息子のところへメール通知があったそうです。
息子は、大学院の授業があるのでどっちにしろ大学へ行く日だからと出席し、記念品をもらうことにしましたが、卒業後地方に就職して東京にはいないという人たちにとっては、平日の出席が難しい人もいることでしょう。あとで郵送か何かで記念品が届くのではないかと思います。
息子は「母にあげると言っていた記念品、母の日のプレゼントと兼用になった」と、言います。母の日プレゼントと兼用?、、、、う~ん、ま、いいか。母としては、息子が中世史を研究する、という好きな道を見つけて「この先も貧乏な暮らしを続ける」覚悟の記念品と思うので、喜んでプレゼントを受け取ることにしましょう。
ひとつの道を見つけて、黙々と目標に向かって歩き続ける、山の頂上を目指して一歩一歩前へ進む、頂上は果てしなく遠く、途中で下山を余儀なくされることもあるけれど、再挑戦は何度でも。
3月5日に、登山家栗城史多(くりきのぶかず)さんのドキュメンタリーを見ました。無酸素単独登攀によるエベレスト山頂からの生中継を目指して、挑戦し続けている登山家です。2009年9月チベット側、2010年9月ネパール側から挑んだが、8,000mに達することが出来ず撤退。2011年後期に3度目の挑戦を予定しているそうです。
無酸素で8000m級の山に登ることは私にはできないことですが、見知らぬ土地へ。トロッコに乗って、ローカル電車に乗って、路線バスに揺られて、自転車のペダルを踏んで。いつもどこかに行きたいと思っています。ここからどこか遠くへ行ってみたいと思うことは、人が持つ特性のひとつなのかもしれません。
太古から、人は小さな舟で海を渡り、沙漠を越えて駱駝を駆った。
小学校1年生のときはアンデルセン童話集やラング編集の「世界童話集」が大好きでした。アンデルセンの飛行かばんのように空を飛び、世界中から集められたラングのお話のように、見知らぬ土地を旅したかった。小学校4年生から、市立図書館に通うようになると、探検物語冒険物語に好みが移りました。アマゾン奥地、アフリカ大陸、アジア最奥部などの見知らぬ土地を探検する探検家があこがれの的でした。
将来はアフリカでリビングストンを救出したスタンリーのようなジャーナリストになるか、シルクロードを探検したスウェン・ヘディンのような考古学者地理学者になるか、どちらが探検家として有利だろうかと悩みました。当時は「アフリカ探検」がアフリカに奴隷貿易などの厄災をもたらしたことや、帝国主義による植民地分割が行われたことなどは語られず、「探検」の血沸き胸躍る冒険譚のみが流布していたのです。(リビングストン自身は奴隷貿易に身を以て抗し、そのため暗殺されかかったこともある)
小学校6年生の卒業作文集には「私の将来の希望」として「ジャーナリストになりたい」と書きました。本当は「探検家になりたい」と書きたかったのですが、そんな昔でさえ、すでに地理的な探検の時代は終わっているから「探検家」という職業が成り立たないことは知っていたのです。
探検家希望は、ずっと続きました。高校のころはインカ帝国探検を行った泉靖一のような文化人類学者こそ目指すべき目標と思い、文化人類学者になることが探検家への近道と思いました。20歳のころはコンチキ号や葦船ラー号で大西洋太平洋を航海した人類学者ヘイエルダールがmy heroでした。
植村直己や関野吉晴らをあこがれの目で眺めつつ、私に出来たのは、アフリカに1年弱滞在し、楽しくダンス修行することだけでしたけれど。
現代では、文化人類学や考古学などの学問上の発見はあるけれど、地理上の発見はすでに探検家の手には残されていない、という現実を知り、探検家になる夢は遠のいていきました。アフリカもアマゾン奥地も北極も南極もすでに人類未到の地はなく、すべてが地図の上に書き尽くされていた、、、、未知の土地は宇宙か海底にしかない、、、、
ところが、現代にも「地図上の空白を埋める地理的探検」が残されていたことを知りました。
あまたの登山家探検家が挑み、越えられないで来たチベットの山奥、ツアンポー峡谷です。5マイルが地図上に空白地帯として前人未踏の地となって残されていました。
2010年第8回開高健ノンフィクション賞を受賞した『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』。著者は角幡唯介(かくはた ゆうすけ34歳)。朝日新聞に書評が載ったときの肩書きは「早稲田大学探検部OB」
「OB」を肩書きにするなんて、へんな著者だと思ったが、これは「元朝日新聞記者」とは書きにくい朝日の苦肉の策だったみたい。別に「元朝日記者」という肩書きであったとしても「朝日新聞だからひいきして書評を載せた」なんて思わないのに。
角幡さんのブログhttp://blog.goo.ne.jp/bazoooka
七大陸最高峰踏破最年少記録を打ち立てた野口健さんとか、犬ぞりで北極点を通過した高野孝子さんとか、現代にも冒険家と呼ばれる人々はいるけれど、地図の空白地帯を踏破し、地理上の探検を成し遂げた人がいることは、「元探検家志望」としては胸躍る。
最後の地理上の空白地帯が踏破され、これで本当に「地理的探検家」は最後になりました。でも、この地球上に、冒険や探検のタネはつきません。きっと。
植村直己さん星野道夫さんら、忘れがたい方々の残された足跡を見つめつつ、そして現代の探検家に胸おどらせつつ、私は知の空白地帯、知の最高峰をめざして探検を続けます。
探検家冒険家の偉大な足跡には遠いけれど、私なりの「私も散歩と雑学が好き」精神で歩き回ろうと思っています。
<おわり>