2011/04/01
ぽかぽか春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>良寛様の地震後記
新潟出雲崎に住んでいた良寛さんが文政11年(1828年)の真冬に越後を襲った地震のあとに作った漢詩の紹介です。11月12日辰の刻。陽暦では12月18日午前8時頃。「三条地震」はあとの余震が半年以上も続いたそうです。三条、燕のあたり、良寛の住む出雲崎も大きな被害を受けました。震源付近の集落は全戸倒壊し、あたりの惨状は目をおおうばかりであったといいます。
良寛様は地震後を漢詩に詠みました。
日日日日又日日
日日夜夜寒裂肌
漫天黒雲日色薄
匝地狂風巻雪飛
悪浪蹴天魚龍漂
墻壁相打蒼生悲
四十年来一廻首
世移軽靡信若馳
況怙太平人心弛
邪魔結党競乗之
恩義頓滅亡
忠厚更無知
論利争毫末
語道徹骨痴
慢己欺人弥好手
土上加泥無了期
大地茫茫皆如斯
我独鬱陶訴阿誰
凡物自微至顕亦尋常
這回災禍尚似遅
星辰失度何能知
歳序無節己多時
若得此意須自省
何必怨人咎天效女児
(意訳:春庭)
日(にち)日日日又日日 (幾日も幾日も)
日日夜夜寒さ 肌(はだえ)を裂く (日ごと夜ごとの寒さが肌を裂くようだ)
漫天の黒雲 日色薄く (空一面の黒い雲で日の色も薄い)
匝地の狂風 雪を巻いて飛ぶ (あたり一面に狂ったように風が吹いて雪を巻き付ける)
悪浪天を蹴りて魚龍漂ひ (激しく荒い波が天を蹴って、大きな魚も漂流する)
墻壁(しようへき)相打ちて 蒼生悲しむ (土壁が打ち合って人々はおびえ悲しむ)
四十年来一たび 首(こうべ)を廻らせば (過去四十年間を振り返ると)
世の軽靡(けいび)に移ること信に馳するが若し (世の中が浮わつきぜいたくになっていくありさまは、まことに馬を走らせるような速さだった)
況んや 太平を怙んで人心弛(ゆる)み (ましてや太平の世に慣れて人の心は用心を怠って弛み)
邪魔は党を結んで 競ひて之に乗ず (よこしまなやからは徒党を組み 争ってこれにつけこんだ)
恩義頓に滅亡し (情けや正しい道は立ちどころにすたれ)
忠厚更に知る無し (まごころや思いやりを知る人もさらさらいない)
利を論ずれば 毫末を争ひ (もうけ話をすれば 毛の先ほどのわずかな利益を奪い合い)
道を語るを徹骨の痴とす (人の道を説く人を底ぬけの愚か者とみなす)
己に慢り 人を欺くを好手と称し (自分をえらいと思い、人を騙すのをやり手だとする)
土の上に泥を加へて 了期無し (土の上に泥を加えるような浅ましい行いをして、終わる時がない)
大地茫茫として 皆斯(かく)の如し (大地は果てしなく もの皆このようなことだ)
我独り鬱陶(うつとう)たるも 阿誰(だれ)にか訴へん(独り鬱々として、いったい誰にこれを訴えようか)。)
凡そ物微より 顕に至るも亦尋常 (目に見えないようなかすかなことが やがてはっきりと目に見えるようになるのが 尋常なこと)
這(こ)の回(たび)の災禍尚 遅きに似たり(このたびの災害は、人々の心の持ち方が招いたもので、なお遅かったといってよい)
星辰度を失ふこと何ぞ能く知らん (日月や星の運行が乱れていることに誰が気づいていたか)
歳序節無きこと 己(すで)に時多し (四季のめぐりに節度がなくなってから、すでにずいぶん時がたっている)
若し此の意を得ば須(すべから)く自省すべし (もしわたしの言っている意味を理解したならば、すぐに自分をかえりみなさい)
何ぞ必ずしも人を怨み 天を咎めて女児に效(なら)はんや (どうしてこんどの災害を、他人のせいだとして怨んだり、天のせいだとして悪くいったりして、いくじのない女の子の口ぶりをまねてよいものか)
このたびの震災を「天罰だ」と言った都知事に、良寛様のこの詩を読んでほしい。天をとがめたり人にせいにするのは、情けない物言いであると良寛様はおっしゃっている。
「安全、絶対に安全」と言い続けた原発の災禍も、良寛様が「このたびの災害は、人々の心の持ち方が招いたもので、気づくのが遅かったのだ」という通りで、気づくのがおそかった。
地震のあと津波のあとの光景は、言葉を失うほどの衝撃でした。でも、自分の見たこと感じたことを言葉にして表現して残して置くことも大事なことです。
「傾聴ボランティア」の方は、被災者に声をかけ、どのような恐ろしい思い悲しい思いをしたか語ってもらうそうです。心の中に押さえ込んでいた感情を話すことによって解き放つことも被災後の大事なケアだそうです。
とくに、子供達にはこころに感じたことを、絵に描いたり詩にしたりすることはこれから生きていく希望の道をさぐる前提になるのだと聞きました。
良寛さんの「地震後詩」のような傑作でなくとも、心のうちを語っておくことが必要です。
<おわり>
2011/04/10
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>あなたを忘れない(1)桜吹雪忌2011
その人がいたことを忘れないこと、思い出すこと。これが私なりのご供養の方法です。
東日本大震災。余りにも多くの方が被災され、命を落としました。その死も「数字」として表されています。4月9日までに警察が把握している人数だけで死者1万2898人、行方不明者は1万4824人で、合わせて2万7722人。合計3万人近くという膨大な数字のひとつひとつに、一人一人の価値ある人生があり、思い出が残されていることを、決して忘れてはならないと心に刻んでおります。
東日本大震災の大報道のさなか、40日前、2月22日のニュージーランド、クライストチャーチの地震でなくなった日本人犠牲者のうち、若い留学生の名前の何名かが確認されたのですが、とても小さな紙面で報道されていました。人の死に大小はなく、遺族にとっては我が子の死が最大の事件でしょう。しかし、私も3月11日に我が身を襲った地震被害、倒れた本棚で頭を打ち、メガネがつぶれて吹っ飛んでいった、ということと、津波被害第一報のあまりの甚大さに、英語学習や看護学をめざして留学した若い人々の追悼をしている余裕がありませんでした。
クライストチャーチでの地震で、最初の遺体確認となった富山市魚津市の平内好子さんは、昨年3月まで滑川高校の校長先生でした。定年退職のあと、生物学研究者としてダニの研究を続けるため、英語を学びなおそうとしてニュージーランドに留学しました。
還暦を機に、自分の追求してきた分野の研究をまとめておきたいと志したところは、私も平内さんと同じです。
私は博士後期課程に在学中、実践研究の一環ともなるよう、中国に半年間赴任しました。その間、同僚にも学生にも恵まれ、自分の研究を深めることができました。何事もなく無事帰国したことを当たり前のことのように感じていましたが、平内さんを思うと、私はものすごくラッキーだったのだと思います。
私は中国から無事帰国でき、博士号も取得できた。平内さんは、クライストチャーチで命を落とされた。この違いは、ほんの少しの運です。与えられた運命を避けることはできなかったとしても、悲運にあった方のご家族の嘆きは量り知れません。私が還暦を機に研究をまとめたいと志して完遂できたことを嬉しく思うとき、私は必ず、還暦を機にダニの研究を完成させようと志し、しかしそれを果たせなかった平内さんのことを思い出します。
東京の桜は6日には満開となったのですが、8日は強風、9日は雨。週末に花見日和とはなりませんでした。東北の酒蔵が「花見自粛のために東北産のお酒も売れず、地震被害の次は自粛経済被害」と訴えていたので、できるだけ福島や東北の産品を買うことでと東北支援をしたいと思っています。
震災のためお彼岸プラス3月25日の舅命日の墓参りを中止にしました。地震片付けが終わったと報告したら、姑がどうしても家族で墓参りをしたいというので、4月9日、雨の中でしたが、夫、娘、息子、姑とそろって墓参り。舅を偲びました。
4月10日は、姉の命日。菩提寺の裏山に一本の枝垂れ桜があります。10日前後は、桜吹雪が美しい。
姉は美容院を経営していました。姉のおおらかで温かい人柄を慕って来るお客さんが大勢いました。なかにひとり、2ヶ月か3ヶ月に一度、髪を切りにくるおばあさんがいました。乏しい生活費の中から少しずつお金を貯めて、髪のカット代が貯まると姉の店にやってきます。「うちの近所にもいろいろ美容院があるけれど、ここの先生と話しているとほんとうに元気が出て、寂しい人生でももうちょっと生きてみようという気持ちになれるから」と、話して通っていたそうです。
姉はカット代だけで染髪やパーマもしてあげていたようですが、「タダってことにすると向こうが遠慮して来なくなっちゃうから、カット代だけはもらうのよ。ちゃんとお金を貰えば、お客さんとして堂々と来られるから」と姉は言っていました。
お客さんと話しながら髪をカットしたりセットしたり。姉はほんとうに腕のいい美容師でしたが、美容の腕もさることながら、お客さんの心をなごませ、やすらぎを与えるセラピストとしての能力も高かったのだろうと思います。
姉は医者の誤診によって54歳で亡くなりました。病理検査の結果、肉腫の細胞があったという病理医の報告をを、臨床医は無視しました。「中年女性の子宮の病気は筋腫」という予断によって子宮筋腫だからすぐ治る、と診断したのです。ガンより臨床例が少ないという子宮肉腫という症状を見抜けなかった藪医者。しかも、誤診を隠そうとしてセカンドオピニオンを求めた姉を脅し、姉が亡くなってから説明を求めた私と姪を恫喝しました。
地震や津波という天災を受けてしまうのも、誤診という人災を受けてしまうのも人の運命なのかも知れませんが、姉が亡くなって9年もたつのに、いまだに医者を許す気持ちになれません。医者も人だから、間違いを犯さないことはありません。しかし、誤診がわかったあとのひとかけらの誠実さもない態度、患者を人として扱わない尊大で自己保身にのみ走った医者を、許せないのです。
自社が責任を負うべき重大事故を前にして、病院に雲隠れしてしまった社長や、自分たちが政権担当政党であったときに「安全安全」と言い続けて導入を主導したことに口をつぐむ前政権担当政党を許せない気持ちなのと同じ。
自分自身の不注意な運転で他者を事故に遭わせ、心身を傷つけておきながら、自分は「弁護士と保険会社に一任」すればもう責任ないとばかり、身勝手で危険な運転を続ける運転者も、世の中には存在することを知りました。
相手を許すことも必要です。しかし、それは罪を悔い、自分にできることで償おうとしている場合です。私が遭遇した誤診をごまかそうとする医者や、交通事故で他者を傷つけておきながら相変わらず身勝手な運転をする人を許すことはできません。
姉御肌で、誰かれとなく人の世話をしていた姉。ぽんぽんと口は磊落だけれど、心が温かい人だということは皆が知っていました。
姉の命日を桜吹雪忌と名付けています。散りゆく花をみつめながら姉を偲びます。
花の季節を前に散っていった、多くの命の冥福を祈ります。
<つづく>
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2011年04月12日
ぽかぽか春庭「『怒濤の虫』の芸術家追悼文」
2011/04/12
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>あなたを忘れない(2)「怒濤の虫」の芸術家追悼文
4月11日午後5時17分、26分。私は入浴中。大きな揺れ、お風呂のお湯は揺れて浴槽から右に左にこぼれました。こわかったです。いざとなったら裸のまま外に飛び出さねばと思いつつ、風呂場のドアが開かなくなると困るから、ドアを押さえているのがせいいっぱい。
震源近くのいわき市では土砂崩れがあり、潰された家の中に人がいるかもしれないというニュース。原発のすぐ近くの震源地。注水が止まってしまったけれど、作業員に退避命令が出たので作業ができなくなったと報道され、大きな災害へ進まないことを祈っています。
地震への不安が続き、長く続いた地震酔い(揺れていなくてもゆらゆらめまいのような症状がおきる)が少しずつおさまったと思ったら、再び大きな揺れと津波警報で、また不安がつのります。
3月大震災。倒れた本棚で頭を打ち、本は部屋の中に山積みになってあふれる。3月中、地震酔いと地震アパシーで片付けもせず、ふとんにもぐりっぱなしだった間、数千冊の本が部屋に山積みのまま。その山に、ふとんの中からもぞもぞと手を伸ばし、手に届いた本を寝床に引っ張り込み、うつらうつら読んでは眠り、また目をあけては読む。何度目かに読み返す本もあったし、ツンドクにしておいたまま十何年もほったらかしていた本もありました。1週間寝ている間に20冊くらい読めた。
という中の一冊に西原理恵子『怒濤の虫』がありました。これもツンドク本でした。私は「まあじゃんほうろうき」の頃の西原理恵子は知らず、読み出したのは「ぼくんち」からです。だから、『怒濤の虫』は読んでなかった。
『怒濤の虫』は、サイバラが初めて「文章も書いた」本。ただし本人が書いた「ナマ西原文」は一篇だけで、あとは「半・西原文」だったり「全・担当文」だったりという初期の西原理恵子なのだけれど、余震に震えてながらも笑いながら読んでおりました。
そんな「半・西原文」、「全・担当文」の中、一篇だけ他とテイストが異なる文がある。「死んだのはひとりの芸術家でした」
1991年3月16日、立川市で起きた工事現場の事故。100トンのくい打ち機が横転し、アパートの上に倒れました。アパートの住人ふたりが下敷きになって亡くなりました。そのひとりが野村昭嘉さん。西原理恵子が土佐から上京し、美術大学受験のために通っていた美大受験予備校の同級生でした。
西原は野村が事故で亡くなった一報を知り、翌日17日に追悼文を「怒濤の虫」連載中のサンデー毎日に書いた。翌日書いたということは、一晩泣き明かした西原が語ったことがらを、サンデー毎日の担当編集者「担当S」「毎日のシマ」こと志摩和生がまとめて書いた「全・担当文」という気もする。
サイバラは、ニュース記事が「フリーター野村昭嘉さん死去」と書いていたことに腹を立て、いっそう涙が倍増してしまったのだった。「その日暮らしではあったが、野村さんは高い志を持って絵を描き続けていた画家なのだ」とサイバラは思う。しかし、世間はその絵が売れていなければ、「絵を描くのを趣味にしているフリーター」としてその死亡記事を書く。
美大予備校時代から純粋に絵に打ち込んでいた青年の姿を、サイバラは語る。『怒濤の虫』以外のエッセイ漫画でも繰り返し語る。生前は1枚の絵も売れず、その日暮らしを続けた。食べるための賃仕事の時間のほかはすべてを絵を描くことに注ぎ、クレーンの下敷きになって26才で早世した野村昭嘉。新聞には「フリーター」としか出なかったその人を、西原は「ひとりの芸術家」として追悼した。
おそらく、サイバラのこの追悼文が作品集出版のきっかけのひとつだろうと思うけれど、「野村昭嘉作品集」は亡くなった2年後、1993年に発売されました。
http://www2.odn.ne.jp/tuyu/gorin/shuhen-nomura.htm
西原の元には、野村の遺族から著作の中に紹介してくれたことへの感謝の手紙が届いたという。野村昭嘉は26才で亡くなってしまったけれど、その作品と作品ノートの文章は、『野村昭嘉作品集』として、残された。作品集を見た人の心に永遠に生きて行く。
野村昭嘉の場合はたまたま、追悼文→出版界の目にとまる→遺作集出版、という過程を経たけれど、友達がただひっそりと追悼してくれる、それだけでも遺族にとってはなぐさめになると思います。ことに、病気で、事故で、災害で、早世した家族がいるとき、遺族はいつまでたってもその悲しみを背負います。亡くなった人を思い出してくれる人がいるとき、つかの間、遺族の心も共に亡き人を偲ぶ心で満たされるのです。
アパートにいた野村さん、家の中にいる一番安心している時間に、よもやの事故で命を失うとは思ってもいなかったことでしょう。私もお風呂の最中にこれほど揺れたのは初めてですけれど、いつ何時どのような災難に遭うのかは、予測もできず、家の中に閉じこもっていたから安全だとはいえません。
<つづく>
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2011年04月13日
ぽかぽか春庭「笠松登のこと」
2011/04/13
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>あなたを忘れない(3)笠松登のこと
12日夜、福島原発事故は、ついにチェルノブイリと同じ規模のレベル7の危険度であると発表されました。目に見えない放射能、「ただちに健康に被害を及ぼすものではありません」という決まり文句も、白々しいだけ。チェルノブイリは、事故発生から25年経た今も、原発を覆い隠した「石棺」の劣化による放射能漏れの危険が続いているのです。そして25年たった今も、子どもの甲状腺ガンの増加などは続いています。
12日も、地震が続きました。何度も地震警報が出て、そのたびにこわい思いをする。揺れに耐え、もう大丈夫かなと、警戒心をほどいても、安心はできません。震源地近くの、もっと揺れが大きかった地域の人々はどれほど不安な気持ちだったろうと思います。
不安を紛らわすための心理だろうと思うのですが、長く音信していなかった人に、突然メールであいさつを出したりしています。年賀状を出さなくなってから、音沙汰をしないことが増えてしまったので、地震見舞いはメールを出すのにひとつのきっかけです。
12日は、このところ活動から遠ざかっていた「日曜地学ハイキング」の世話役の理科の先生に地震見舞いかたがた、近況報告をしました。先生からは「私は2年前に退職して、クモヒトデ三昧の生活をしています」という返信をいただきました。以前にいただいた「クモヒトデ」についてのリーフレットからさらに研究が進んで、仲間との共著も近々出版になるとのこと。日曜地学ハイキングは、14年前、娘が1年半不登校だった間、家から外へ出て行く活動の場として、我が家にとって大事な居場所でした。2ヶ月に一度ほど、化石掘りや鍾乳洞見学などに出かけたのがとてもよい「外歩き」になっていました。
ふとしたきっかけで人と出会い、あるはすれ違う。たった一度の出会いを一生の宝物として大切に記憶の中にとどめておくこともあるし、長い間忘れていた人をふと思い出すこともある。どの人との出会いも、今の私を作ってくれた大事なひとときであったにちがいない。
何かの記念写真で親しげにいっしょに写されている人の顔を見ても、さっぱりと思い出せない人もいる。私は、これまでに出会った人のうちの何人の人を覚えていられるだろうか。出会ったことを手紙で家族に知らせた人もいる。日記に書き留めた人もいる。でもたいていはその後のつきあいが続かなければ、忘れてしまう。
人と人とのかすかな出会いを、確かな文章で書き留める。そんな出会いの数ページを読んだ。読み終わると心震え、私もこれまでに出会った誰彼のことを、一行でもいいから書き留めておきたいという気持ちになる。
「記録を残す選手になるよりも、記憶に残る選手になりたい」とは、新庄剛志はじめ、多くのスポーツ選手が口にしている言葉だという。しかし、なかには記録は残したもののまったく人の記憶には残っていない選手もいるだろう。
笠松登という陸上選手を覚えている人はどれくらいいるだろうか。確かめていないのだが、TBSで笠松についてのドキュメンタリー番組が作られたことがあったらしいので、私が知らないだけで、記憶に残ってるという人もいるのかもしれないが、私はまったく知らなかった。
どのようにして笠松は「記録」に残ったか。
1955(昭和30)年第30回陸上競技選手権大会で、走り高跳び1m85で中央大学の笠松登が優勝。1956年メルボルンオリンピック代表選手に選出される。しかし事故のため選抜から降ろされる。1958(昭和33)年リッカーミシン所属選手として1m95で優勝。だが、選手として活躍できなくなり引退すると、会社勤めもやめてしまった。その後失踪。不確かな情報ではあるが、ホームレス生活ののちに凍死したともいう。ドキュメンタリーで話題になるときも、「スポーツ選手の末路」というような話題でのみ取り上げられる扱いとなってしまった。
どのようにして笠松は人の記憶に残ったか。世間が覚えていることと言ったら、次のような新聞三面記事だろう。
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<東京・新宿>五輪代表選手を襲った輪禍
昭和31年10月15日午前1時30分、新宿区歌舞伎町879のバーやまで友人と飲んでいたメルボルン五輪走り高跳び代表選手で中央大経済学部4年の笠松登(22)が、店内にいた大学生7、8人が持っている時計で酒を飲ませろと経営者の呂にからんでいるのを自分が喧嘩を売られたと思い込み、外へ出ろと乱闘になって叩きのめされた。そこへ酔った男性医師(48)の運転する車が倒れていた笠松に乗り上げ、笠松は頭部内出血と内臓損傷で入院1ヶ月、全治6ヶ月のけがを負った。10月16日、笠松はショックのあまり錯乱して自分で判断が出来ない事から、大学側によって勝手に五輪辞退届を提出されてメルボルン五輪への道を絶たれた。
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私が笠松登のことを知ったのは、ノンフィクション作家保阪正康の『回想わが昭和史』(月刊百科No.579 2011年1月号)による。
保阪が小学校6年生のとき、父親は北海道根室の高校に勤務していた。その高校のグランウンドで黙々と練習に励む走り高跳びの高校生がいた。保阪は弟といっしょに練習を見つめた。
保阪は、貧しい生活の中で死んでいったと聞かされた笠松を、記憶の中に反芻する。
「夕闇の中に身体を横にしてバーを越えていく笠松選手の姿に、私と弟の二人だけが拍手を送った。飛び終えて下からバーを見上げる姿が、今も私の記憶の中にあるのだ。」
小学生の保阪正康が、高校生だった笠松登の走り高跳び練習を見つめている。保阪はその姿を記憶にとどめ、何十年もたってのち、その名を記録する。
オリンピック候補になりながら不運にも出場はできず、記録は残しても一般の人の記憶には残されなかったスポーツ選手。
その姿を見つめていた少年が、自らの半生を振り返るとき、夕日に照らされるグラウンドの中に一本の棒を越えようと努力を続ける選手の姿を記憶の中から掘り起こし、書きとどめる。
私たちは、夕日の中に一本の線を描き、そのバーを越えようとする青年のシルエットを描く。なんだか泣けてくる。私は笠松を知らなかったが、今は知っている。一本のペンがそれを記録したから。
私も、出会った人の姿をこのように書き留める人でありたい。
美しいシルエットの中に描かれる人もいようし、つらい記憶とともに吐き出す姿もあろう。でもそれらの人々すべてが、私とつながっているのだ。
<つづく>
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2011年04月15日
ぽかぽか春庭「渋谷君と野村君のこと、夕鶴の囲炉裏」
2011/04/15
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>あなたを忘れない(4)渋谷君と野村君のこと、夕鶴の囲炉裏
地震で倒れてきた本棚で頭を打ったせいで、どうも調子が悪いと思っていました。仕事の新学期開始が4月下旬からになったのは幸いでしたが、授業開始も目前に、いつもの仕事モードに戻さなければいけないとあせりつつも、なんだかやる気がでず、自分では「地震アパシー(無気力)」と名付けていました。
また、ほんのわずかの募金をしてみて、「世の中には100億円も寄付するお金持ちもいるのに、ほんとうに貧者の一灯で、ささやかだなあ」と、自分の貧しさを情けなく思ったり、原発の新聞報道や自粛騒ぎの世間の動向に無闇と腹を立てたり落ち込んだり。
これはへんだ、、、、、、と、精神科医香山リカの「こころの復興で大切なこと」というウェブ連載エッセイを読みました。(toukuroさんの絵日記で教えていただきました)
私の陥った無気力や落ち込み、被災した人への「こちらは被害が少なくて申し訳ない、感」というのも、災害時心理学ではとうに分析されていた心理状態なのだと納得しました。
被災した人に共感していっしょに泣いていると、普通の人は「共感疲労」状態に陥ってしまう。精神科医は、患者の話を聞くとき、どんな悲惨な体験談であっても、いっしょに涙を流したりするなどの過度の共感を心に持ち込まない訓練をしているのだ、と香山リカは書いています。
第1回http://diamond.jp/articles/-/11751 「一日も早く」にとらわれない
第2回http://diamond.jp/articles/-/11844 被災していない人にも「共感疲労」という苦しみがある
3万人近くも死者行方不明者が出た、そのひとりひとりに、つらく悲しく感じている人はその数倍にも十数倍にもなるでしょう。
私が特に気になっているのは、避難誘導に失敗したという宮城県石巻市の市立大川小学校です。教師に引率されての避難途中、全児童108人の7割にあたる74人が津波に襲われ亡くなっています。当時校内にいた11人の教諭のうち9人が死亡、1人が行方不明、助かったのはひとりだけ。
自分の娘の卒業式に出ていたため、避難誘導の場にいなかったという校長をはじめ、たったひとり助かった教諭と、児童十数人、これからずっと心に深い傷を残すのではないかと案じられます。津波警報が出た場合の避難誘導の方法を、「これから話し合う矢先だった」という校長は、辛いことでしょう。
それにつけて、思い出すことのひとつ。35年前に勤務していた公立中学校で教えた中学生の死について。この中学校で3年という短期間しか勤務しなかったのに、私が担当した演劇部の生徒がふたり亡くなりました。ひとりは病死でひとりは交通事故死です。そのふたりを思うにつけ、一度に7割もの児童を失ったのでは、残された親も先生もいたたまれないだろうと感じます。
私が新任の国語科教師として中学校に赴任したとき、渋谷君は1年生でした。クラブ活動紹介のとき、演劇部を紹介する3年生といっしょに、私も「1年生のみなさん、演劇部は楽しいですよ。俳優やりたい人はもちろん、舞台装置を作るために大工仕事が好きな人、音楽が好きな人、いろんな人が必要です。得意技がない人も、大歓迎」と、参加を呼びかけたら、「ぼくは、何も得意なことも好きなこともないから」と、入部してきました。
渋谷君ともう一人「何もできないから」と、演劇部を希望してきたのですが、その年の演目「夕鶴」の舞台背景の田舎家や囲炉裏などの舞台装置を、夏休み中いっしょに作ってくれました。いつも青白い顔で、入部してきたは暗い顔つきだった渋谷君。「ぼく、女の子に気持ち悪いからそばに来ないでって言われたことあるんだ」と、悩みを打ち明けてきたこともありました。思春期のはじめの、女子生徒を意識し始めた悩みかもと軽く受け流し、「そのうち渋谷君の良さをわかってくれる子も絶対にいるから、君は君のしたいことを一生懸命やっていればいい。今はこの鶴の影絵を作っていればいいさ」などと言って聞き流しました。渋谷君はサボりながらもクラブはやめないで続けていました。
<つづく>
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2011年04月16日
ぽかぽか春庭「渋谷君と野村君のこと、三年寝太郎」
2011/04/16
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>あなたを忘れない(5)渋谷君と野村君のこと、三年寝太郎
ものを作ることに興味が出た渋谷君は2年生になったら「もっといろいろ作りたくなったから、演劇部やめて、技術部に入ります」と、言ってきました。それもひとつの成長なのだろうと思って、「じゃ、技術部で工作とか旋盤とか、いろんな制作を楽しんでね」と、送り出しました。相変わらず顔色はさえないけれど、女の子から「気持ち悪い」と言われても、表情は男の子らしくしっかりしてきたように思えました。今の女子生徒用語なら「キモかわいい」くらいになってきたところだったでしょう。
渋谷君2年生の秋、「渋谷君、なんか風邪みたいで、1週間くらい欠席が続いている」と、同じクラスの女の子が渋谷君のようすを知らせてきました。「あらま、来週あたりは出席できるかな、担任の先生に聞いてみようか」と言っているうち、担任の英語の先生が「うちのクラスの渋谷が再生不良性貧血のため亡くなりました」と、朝の連絡会で報告しました。そんな急に人があっけなく死んでしまうのかと、信じられませんでした。当時、再生不良性貧血には治療法がなかったのです。(現在は骨髄移植や免疫療法などがあります)
お葬式に出るのは、同じクラスの生徒の代表と、教頭、担任、現在所属しているクラブ顧問の技術科の先生、というお達し。私は、「遺族の気持ちを考え、学校関係者が押しかけることは避ける」という学校方針に従いました。クラブの生徒には「文化祭や地区演劇発表会をやり遂げること、自分たちの頑張っている姿を届けることで渋谷君の冥福を祈ることにしましょう」と言いました。
教師2年目の夏休みは『夕鶴』と同じ、木下順二作『三年寝太郎』の練習で連日稽古と舞台装置作り。と、言っても、三年寝太郎の舞台装置は、囲炉裏とか、ほとんど『夕鶴』で作った物の使い回し。
主役の寝太郎を演じたのは、3年生の野村君でした。私が赴任する前の年、1年生のとき、彼は2,3年生の女子が主役を演じているのを、端役でささえました。2年生のとき、唯一の男子俳優希望者ですから、『夕鶴』の与ひょう役に抜擢し、彼は宇野重吉風のひょうひょうとした演技で与ひょうを演じました。3年生になった彼のために、それまでの女子生徒中心だった演目から、男性が主役を張れる演目に変えて『三年寝太郎』を選びました。野村君は、三年寝太郎もがんばってくれました。
教師3年目。卒業した野村君は第一志望の高校に入りました。自宅からは通学に不便な高校でしたが、高校入学祝いは、前々からねだっていたバイク。16歳になったらすぐ免許をとるのだと言い、免許をとるとバイクで通学するようになりました。しかし、通学途中、トラックと衝突して、野村君は16歳で世を去りました。このときは、元クラスメートである卒業生たちといっしょにお葬式に参列しました。(現在は、たいていの高校がバイク通学を禁止するようになっています)
教え子が先に亡くなるなんて、教師にとってはつらいことです。でも、「この死を嘆いていたら、他の生徒の指導が先に進まなくなってしまう」と感じ、生徒とともに泣くことを自分に禁じました。このことは、ずっと私にとって「私は冷たい教師だったのか」という心の負担になっていました。野村君が亡くなった翌年の3月には退職しました。
あれ以来、折に触れて渋谷君と野村君を心の中で追悼してきました。中学生のままのふたりが思い出されました。
精神科医やカウンセラーは、残された者にも、心の手当が必要だといいます。「こころの復興」について読んでいると、私が生徒の死に対して「ずっと泣いていてやれないのは冷たい態度だろうか」と思っていたのは、誤りだったとわかります。亡くなった人の追悼は、いつまでも泣いていることではないのです。
今はまだ、どのように追悼したらいいのかさえ、わからず、3万の死者行方不明者の「みたま安かれ」と祈っているばかりです。でも、きっと亡くなった方々も、残された人が長く嘆き悲しみ、立ち直れないことを望んではいないでしょう。
三年寝太郎は、寝続けていても最後は明るく自分の運命を切り開きました。残された人たち、泣き続ける日からきっと立ち上がって、最後に寝太郎が笑えたように、笑顔を取り戻して欲しいと思います。
<つづく>
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2011年04月17日
ぽかぽか春庭「西方さんのこと」
2011/04/17
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>あなたを忘れない(6)西方さんのこと
16日11時すぎ、また地震。東京は4でした。余震疲れなのか、レベル7パニックなのかわかりませんが、春庭が、神経過敏ぎみにいちいち周囲のことがらに反応してキンキンキャンキャンとわめき散らすのも、地震反応と思って大目に見て下さい。(春庭BBSでわめいています)
泰然自若というのはほど遠い、ちょっとのことで怖がったり不安に思ったり。
母が死んだ年55才をとうに超えたのに、相変わらず人間の小さい春庭は、まだまだ修行が足らぬことわかっております。
母にまつわる思い出の中で、よく覚えていることのひとつが、「縁側から上がらなかった人たち」です。(何回か同じエピソードを記していますが)。
母を慕って「お茶飲み」にわが家に立ち寄る人々は多かったのですが、その中でいくら母が「今日はちょっと冷えるから、縁側でなく座敷にどうぞ。おこたがあったかいから」なんて勧めても、部屋へ上がろうとしない人たちが何人かいました。
そんな客が帰ると、母は「あの人はいつも遠慮して、、、、」と残念そうにしていました。
私が高校に入学したあと、母は、ようやく私がものごとを理解できる年頃になったと思ったのか、なぜ縁側から座敷に上がろうとしない客が来るのかを話してくれました。母の生まれ在所近くの地域に差別を受けている地区があったのです。母が通った小学校でもその地区の子供は差別を感じて育っていたのですが、母だけは絶対に同級生を差別するような言動をとらなかった。そのためにその地区の人たちは母を慕って、わが家に立ち寄ってひととき話をして帰って行きました。しかし、「私らが座敷に上がると、他の人たちが寄りづらくなるだろうから」と遠慮して、いつも縁側に立ち寄るだけにしていた、というわけでした。
この「どんな人にも温かい態度で接する。決して人を差別しない。できる限り人の世話をする」という精神は、姉にも妹にも伝わっています。私は、姉や妹のように世話好きにはならず、伯母(母の姉)に似て、人とうまく交際できない遺伝を受け継いでしまったのです。伯母は、子供の頃は家から一歩外に出ると他人と話ができない「場面緘黙症」でしたし、大人になっても職場の人と親しいつきあいはできず、家族以外に友達とつきあうようになったのは、晩年になってからでした。人から攻撃を受けるということについての防御心理というのが、伯母や私に強いように思います。「あの人が私を悪く思っている」と感じてしまうことの心理的なストレスが、伯母も私も大きく、世間からは身をひいて引きこもりがちに生きてきました。
一方、母は町中の人に慕われていました。誰にでも親切で、いつでも親身になって人の世話をしていた母。
でも、母が死んで40年近くなるので、母のことを記憶していてくれる人々も、どんどん死んでいっていることでしょう。母が自分の身体を放り出すようにして助けた、鉄道線路を歩いていて汽車にひかれそうになった幼子も、母のことを思い出すこともないかも知れません。
私と妹が死ねば、母を覚えている人もいなくなる。さびしいけれど、それでいいのでしょう。
私が出会った人。市井の、無名の、どこにでもいそうな人々。記憶の断片の中のひとりひとり。
今日思い出すのは、西方さんのこと。西方だったか、西潟だったのかも覚えていなかったのですけれど、母に出した古い手紙の束が出てきて、その中には「西方さん」と書いてありました。
私と西方さんは、母が亡くなる数年前に出会いました。私は、初めて東京に出てきて、一人暮らしを始めたところでした。母と離れた心細さもあって、母に似ているふっくら体型と、いつもほほえんで周りの人を包み込んでくれるような西方さんに親しみを感じました。
私は、医科大学の内科検査室に「研究補助員」として勤務し、試験に合格して「衛生検査技師」という資格を得ました。衛生検査技師は、「臨床検査技師の業務のうち、生理学検査以外の検査、すなわち検体検査を行うことができる」と定められた資格で、私は「病院等に1年以上勤務し、内科検査に従事した者」が受験できる特例によって試験を受け、資格を得ました。この特例制度は、臨床検査技師が短大卒でなく4年生大学卒資格になって以後、廃止されており、現在ではすべて臨床検査技師に統一されています。検査技師が不足していた時代に特例の資格を与えた、いわば「代用教員」のような制度でした。
西方さんは、私が検査技師の試験に挑戦することがわかると、専門学校や短大を卒業して取得できる資格への挑戦に対して、「私もね、学校行きたかったんだけれど、家が没落しちゃったから、行けなかった。試験で資格取れるなら、がんばりなよ」と、励ましてくれました。
<つづく>
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2011年04月19日
ぽかぽか春庭「思い出し供養」
2011/04/19
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>あなたを忘れない(7)思い出し供養
「高校時代、科学部に所属し、部員として読売学生科学賞を受賞したことがある」ということを評価して採用して貰ったのに、もともとが文系の私は、医学には向かない人間でした。
私の仕事は、血液検査と尿検査でした。血液像を検査して白血病の診断につなげるなど、医学的に重要な仕事であったゆえ、生き甲斐と誇りを持って勤務している検査技師が多かったのに、私は「短期アルバイト」の気持ちが抜けず、資格取得後まもなく退職してしまいました。
急性白血病の患者が入院して1週間もたたないうちに死んでしまう、という生と死を見つめる仕事を続けるには、医学への強い心が必要です。患者の死に打ちのめされているような心情の持ち主は、医学の仕事を続けられない。医学は死の衝撃を乗り越えて進まなければならない仕事です。
40年前、私が病院の検査室勤めを続けられなかったのも、検査を担当した人が死んでしまったりしたときに、いちいちショックを受けてしまうようなヤワな精神だった、というのも理由のひとつでした。
20歳という多感な時期に、生と死と向き合う病院の仕事に従事したことは、私には大きな影響がありました。この内科検査室でのたった1年半に出会った人々。内科検査室の斎藤主任、検査技師の涌井さん、杉本さん、林さん、諏訪さん、、、、病院勤務を辞めたあと、何度か検査室に遊びに行って、「今は公立中学校の国語教師をしています」など、報告もしました。検査室での仕事を続けている元の仲間は温かく迎えてくれました。
西方さんは、内科検査室の試験管を洗ったりする係員でした。とても働き者で、いつも生き生きと仕事をして、仕事の合間にはご家族の話もよくしてくれました。ちょうど母と同じ年頃だったので、とても親しみやすくて、慣れない東京暮らしの私も、西方さんのおしゃべりを聞きながら仕事をすると、気持ちも落ち着きました。
西方さんのお得意の話はいくつかありましたが、繰り返しの昔話のなか、自慢話とも愚痴ともとれるお話に「亀の子束子」の話がありました。江戸っ子のきっぷのよい話しぶりでした。
「うちの爺さんってぇ人は、亀の子束子を考え出して、今で言う実用新案をとって大もうけした人なんだけど、20年の実用新案が切れるとたちまち貧乏になっちゃって、私もこんな試験管洗いの仕事をするようになってさ。実用新案が切れる前に、切れた後のことを考えてお金を貯めるような人だったら、あたしらもこんな苦労はしなかったろうに、なんせ江戸っ子だったからねぇ。あればあるだけ、宵越しの銭は持たないってのが江戸っ子だからね」
現在も続く亀の子束子の会社が東京の滝野川にあります。初代社長は西尾正左衛門という名で、詳しい伝記も会社沿革に書かれています。立志伝中の人物であったようで、実用新案が切れたあとは、すっかり貧乏になってしまったという西方さんの話とは一致しません。西方さんの実家が西尾商店だったのかどうかも今は確かめる方法もわかりません。
検査室退職後、検査室以外の場所へ西方さんに会いにいきました。大学病院の癌病棟でした。私が勤務していた頃、小説家高橋和巳が入院していた病棟です。
娘さんが付き添っていました。試験管を洗っていたころは、ふっくらおおらかな身体をゆすって話込んでいた人だったけれど、「こんなに痩せちゃってねぇ」と言い、頭には毛糸の帽子を被っていました。おそらく抗がん剤で髪の毛が抜けてしまったのだと感じました。
「ここは一流の病院だし、優れた先生が大勢いるのだから、きっと治りますよ」と声をかけて病室を辞したけれど、高橋和巳も結腸癌に勝つことはできず39歳で死んだことが思い出されました。
西方さんとの出会いはほんとうに短い期間だったし、西方さんについてあれこれを知っていたわけでもありません。でも、私が西方さんを覚えていて、その笑い声や昔語りが好きだったこと、そのことは私の中でセピア色になっても確かに心の中にあるのです。もし、西方さんの病室にいた娘さんが「私の母を覚えている人がどれほど残されているのだろう」と思うことがあったら、私は「西方さんを覚えていますよ。西方さんのやさしい笑顔が大好きでした」と伝えたい。
子どもの頃読んだメーテルリンクの『青い鳥』。チルチルとミチルが最初に行った国は、「思い出の国」です。二人は思い出の国で、亡くなったおじいさんとおばあさんに出会いました。おじいさんは「人は死んでも、みんなが心の中で思い出してくれたら、いつでも会うことが出来るんだよ」とチルチルたちに語りました。
私が西方さんを忘れないでいる限り、私の母を覚えていてくれる人がこの世にいることを、信じられるような気がします。
<おわり>
ぽかぽか春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>良寛様の地震後記
新潟出雲崎に住んでいた良寛さんが文政11年(1828年)の真冬に越後を襲った地震のあとに作った漢詩の紹介です。11月12日辰の刻。陽暦では12月18日午前8時頃。「三条地震」はあとの余震が半年以上も続いたそうです。三条、燕のあたり、良寛の住む出雲崎も大きな被害を受けました。震源付近の集落は全戸倒壊し、あたりの惨状は目をおおうばかりであったといいます。
良寛様は地震後を漢詩に詠みました。
日日日日又日日
日日夜夜寒裂肌
漫天黒雲日色薄
匝地狂風巻雪飛
悪浪蹴天魚龍漂
墻壁相打蒼生悲
四十年来一廻首
世移軽靡信若馳
況怙太平人心弛
邪魔結党競乗之
恩義頓滅亡
忠厚更無知
論利争毫末
語道徹骨痴
慢己欺人弥好手
土上加泥無了期
大地茫茫皆如斯
我独鬱陶訴阿誰
凡物自微至顕亦尋常
這回災禍尚似遅
星辰失度何能知
歳序無節己多時
若得此意須自省
何必怨人咎天效女児
(意訳:春庭)
日(にち)日日日又日日 (幾日も幾日も)
日日夜夜寒さ 肌(はだえ)を裂く (日ごと夜ごとの寒さが肌を裂くようだ)
漫天の黒雲 日色薄く (空一面の黒い雲で日の色も薄い)
匝地の狂風 雪を巻いて飛ぶ (あたり一面に狂ったように風が吹いて雪を巻き付ける)
悪浪天を蹴りて魚龍漂ひ (激しく荒い波が天を蹴って、大きな魚も漂流する)
墻壁(しようへき)相打ちて 蒼生悲しむ (土壁が打ち合って人々はおびえ悲しむ)
四十年来一たび 首(こうべ)を廻らせば (過去四十年間を振り返ると)
世の軽靡(けいび)に移ること信に馳するが若し (世の中が浮わつきぜいたくになっていくありさまは、まことに馬を走らせるような速さだった)
況んや 太平を怙んで人心弛(ゆる)み (ましてや太平の世に慣れて人の心は用心を怠って弛み)
邪魔は党を結んで 競ひて之に乗ず (よこしまなやからは徒党を組み 争ってこれにつけこんだ)
恩義頓に滅亡し (情けや正しい道は立ちどころにすたれ)
忠厚更に知る無し (まごころや思いやりを知る人もさらさらいない)
利を論ずれば 毫末を争ひ (もうけ話をすれば 毛の先ほどのわずかな利益を奪い合い)
道を語るを徹骨の痴とす (人の道を説く人を底ぬけの愚か者とみなす)
己に慢り 人を欺くを好手と称し (自分をえらいと思い、人を騙すのをやり手だとする)
土の上に泥を加へて 了期無し (土の上に泥を加えるような浅ましい行いをして、終わる時がない)
大地茫茫として 皆斯(かく)の如し (大地は果てしなく もの皆このようなことだ)
我独り鬱陶(うつとう)たるも 阿誰(だれ)にか訴へん(独り鬱々として、いったい誰にこれを訴えようか)。)
凡そ物微より 顕に至るも亦尋常 (目に見えないようなかすかなことが やがてはっきりと目に見えるようになるのが 尋常なこと)
這(こ)の回(たび)の災禍尚 遅きに似たり(このたびの災害は、人々の心の持ち方が招いたもので、なお遅かったといってよい)
星辰度を失ふこと何ぞ能く知らん (日月や星の運行が乱れていることに誰が気づいていたか)
歳序節無きこと 己(すで)に時多し (四季のめぐりに節度がなくなってから、すでにずいぶん時がたっている)
若し此の意を得ば須(すべから)く自省すべし (もしわたしの言っている意味を理解したならば、すぐに自分をかえりみなさい)
何ぞ必ずしも人を怨み 天を咎めて女児に效(なら)はんや (どうしてこんどの災害を、他人のせいだとして怨んだり、天のせいだとして悪くいったりして、いくじのない女の子の口ぶりをまねてよいものか)
このたびの震災を「天罰だ」と言った都知事に、良寛様のこの詩を読んでほしい。天をとがめたり人にせいにするのは、情けない物言いであると良寛様はおっしゃっている。
「安全、絶対に安全」と言い続けた原発の災禍も、良寛様が「このたびの災害は、人々の心の持ち方が招いたもので、気づくのが遅かったのだ」という通りで、気づくのがおそかった。
地震のあと津波のあとの光景は、言葉を失うほどの衝撃でした。でも、自分の見たこと感じたことを言葉にして表現して残して置くことも大事なことです。
「傾聴ボランティア」の方は、被災者に声をかけ、どのような恐ろしい思い悲しい思いをしたか語ってもらうそうです。心の中に押さえ込んでいた感情を話すことによって解き放つことも被災後の大事なケアだそうです。
とくに、子供達にはこころに感じたことを、絵に描いたり詩にしたりすることはこれから生きていく希望の道をさぐる前提になるのだと聞きました。
良寛さんの「地震後詩」のような傑作でなくとも、心のうちを語っておくことが必要です。
<おわり>
2011/04/10
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>あなたを忘れない(1)桜吹雪忌2011
その人がいたことを忘れないこと、思い出すこと。これが私なりのご供養の方法です。
東日本大震災。余りにも多くの方が被災され、命を落としました。その死も「数字」として表されています。4月9日までに警察が把握している人数だけで死者1万2898人、行方不明者は1万4824人で、合わせて2万7722人。合計3万人近くという膨大な数字のひとつひとつに、一人一人の価値ある人生があり、思い出が残されていることを、決して忘れてはならないと心に刻んでおります。
東日本大震災の大報道のさなか、40日前、2月22日のニュージーランド、クライストチャーチの地震でなくなった日本人犠牲者のうち、若い留学生の名前の何名かが確認されたのですが、とても小さな紙面で報道されていました。人の死に大小はなく、遺族にとっては我が子の死が最大の事件でしょう。しかし、私も3月11日に我が身を襲った地震被害、倒れた本棚で頭を打ち、メガネがつぶれて吹っ飛んでいった、ということと、津波被害第一報のあまりの甚大さに、英語学習や看護学をめざして留学した若い人々の追悼をしている余裕がありませんでした。
クライストチャーチでの地震で、最初の遺体確認となった富山市魚津市の平内好子さんは、昨年3月まで滑川高校の校長先生でした。定年退職のあと、生物学研究者としてダニの研究を続けるため、英語を学びなおそうとしてニュージーランドに留学しました。
還暦を機に、自分の追求してきた分野の研究をまとめておきたいと志したところは、私も平内さんと同じです。
私は博士後期課程に在学中、実践研究の一環ともなるよう、中国に半年間赴任しました。その間、同僚にも学生にも恵まれ、自分の研究を深めることができました。何事もなく無事帰国したことを当たり前のことのように感じていましたが、平内さんを思うと、私はものすごくラッキーだったのだと思います。
私は中国から無事帰国でき、博士号も取得できた。平内さんは、クライストチャーチで命を落とされた。この違いは、ほんの少しの運です。与えられた運命を避けることはできなかったとしても、悲運にあった方のご家族の嘆きは量り知れません。私が還暦を機に研究をまとめたいと志して完遂できたことを嬉しく思うとき、私は必ず、還暦を機にダニの研究を完成させようと志し、しかしそれを果たせなかった平内さんのことを思い出します。
東京の桜は6日には満開となったのですが、8日は強風、9日は雨。週末に花見日和とはなりませんでした。東北の酒蔵が「花見自粛のために東北産のお酒も売れず、地震被害の次は自粛経済被害」と訴えていたので、できるだけ福島や東北の産品を買うことでと東北支援をしたいと思っています。
震災のためお彼岸プラス3月25日の舅命日の墓参りを中止にしました。地震片付けが終わったと報告したら、姑がどうしても家族で墓参りをしたいというので、4月9日、雨の中でしたが、夫、娘、息子、姑とそろって墓参り。舅を偲びました。
4月10日は、姉の命日。菩提寺の裏山に一本の枝垂れ桜があります。10日前後は、桜吹雪が美しい。
姉は美容院を経営していました。姉のおおらかで温かい人柄を慕って来るお客さんが大勢いました。なかにひとり、2ヶ月か3ヶ月に一度、髪を切りにくるおばあさんがいました。乏しい生活費の中から少しずつお金を貯めて、髪のカット代が貯まると姉の店にやってきます。「うちの近所にもいろいろ美容院があるけれど、ここの先生と話しているとほんとうに元気が出て、寂しい人生でももうちょっと生きてみようという気持ちになれるから」と、話して通っていたそうです。
姉はカット代だけで染髪やパーマもしてあげていたようですが、「タダってことにすると向こうが遠慮して来なくなっちゃうから、カット代だけはもらうのよ。ちゃんとお金を貰えば、お客さんとして堂々と来られるから」と姉は言っていました。
お客さんと話しながら髪をカットしたりセットしたり。姉はほんとうに腕のいい美容師でしたが、美容の腕もさることながら、お客さんの心をなごませ、やすらぎを与えるセラピストとしての能力も高かったのだろうと思います。
姉は医者の誤診によって54歳で亡くなりました。病理検査の結果、肉腫の細胞があったという病理医の報告をを、臨床医は無視しました。「中年女性の子宮の病気は筋腫」という予断によって子宮筋腫だからすぐ治る、と診断したのです。ガンより臨床例が少ないという子宮肉腫という症状を見抜けなかった藪医者。しかも、誤診を隠そうとしてセカンドオピニオンを求めた姉を脅し、姉が亡くなってから説明を求めた私と姪を恫喝しました。
地震や津波という天災を受けてしまうのも、誤診という人災を受けてしまうのも人の運命なのかも知れませんが、姉が亡くなって9年もたつのに、いまだに医者を許す気持ちになれません。医者も人だから、間違いを犯さないことはありません。しかし、誤診がわかったあとのひとかけらの誠実さもない態度、患者を人として扱わない尊大で自己保身にのみ走った医者を、許せないのです。
自社が責任を負うべき重大事故を前にして、病院に雲隠れしてしまった社長や、自分たちが政権担当政党であったときに「安全安全」と言い続けて導入を主導したことに口をつぐむ前政権担当政党を許せない気持ちなのと同じ。
自分自身の不注意な運転で他者を事故に遭わせ、心身を傷つけておきながら、自分は「弁護士と保険会社に一任」すればもう責任ないとばかり、身勝手で危険な運転を続ける運転者も、世の中には存在することを知りました。
相手を許すことも必要です。しかし、それは罪を悔い、自分にできることで償おうとしている場合です。私が遭遇した誤診をごまかそうとする医者や、交通事故で他者を傷つけておきながら相変わらず身勝手な運転をする人を許すことはできません。
姉御肌で、誰かれとなく人の世話をしていた姉。ぽんぽんと口は磊落だけれど、心が温かい人だということは皆が知っていました。
姉の命日を桜吹雪忌と名付けています。散りゆく花をみつめながら姉を偲びます。
花の季節を前に散っていった、多くの命の冥福を祈ります。
<つづく>
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2011年04月12日
ぽかぽか春庭「『怒濤の虫』の芸術家追悼文」
2011/04/12
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>あなたを忘れない(2)「怒濤の虫」の芸術家追悼文
4月11日午後5時17分、26分。私は入浴中。大きな揺れ、お風呂のお湯は揺れて浴槽から右に左にこぼれました。こわかったです。いざとなったら裸のまま外に飛び出さねばと思いつつ、風呂場のドアが開かなくなると困るから、ドアを押さえているのがせいいっぱい。
震源近くのいわき市では土砂崩れがあり、潰された家の中に人がいるかもしれないというニュース。原発のすぐ近くの震源地。注水が止まってしまったけれど、作業員に退避命令が出たので作業ができなくなったと報道され、大きな災害へ進まないことを祈っています。
地震への不安が続き、長く続いた地震酔い(揺れていなくてもゆらゆらめまいのような症状がおきる)が少しずつおさまったと思ったら、再び大きな揺れと津波警報で、また不安がつのります。
3月大震災。倒れた本棚で頭を打ち、本は部屋の中に山積みになってあふれる。3月中、地震酔いと地震アパシーで片付けもせず、ふとんにもぐりっぱなしだった間、数千冊の本が部屋に山積みのまま。その山に、ふとんの中からもぞもぞと手を伸ばし、手に届いた本を寝床に引っ張り込み、うつらうつら読んでは眠り、また目をあけては読む。何度目かに読み返す本もあったし、ツンドクにしておいたまま十何年もほったらかしていた本もありました。1週間寝ている間に20冊くらい読めた。
という中の一冊に西原理恵子『怒濤の虫』がありました。これもツンドク本でした。私は「まあじゃんほうろうき」の頃の西原理恵子は知らず、読み出したのは「ぼくんち」からです。だから、『怒濤の虫』は読んでなかった。
『怒濤の虫』は、サイバラが初めて「文章も書いた」本。ただし本人が書いた「ナマ西原文」は一篇だけで、あとは「半・西原文」だったり「全・担当文」だったりという初期の西原理恵子なのだけれど、余震に震えてながらも笑いながら読んでおりました。
そんな「半・西原文」、「全・担当文」の中、一篇だけ他とテイストが異なる文がある。「死んだのはひとりの芸術家でした」
1991年3月16日、立川市で起きた工事現場の事故。100トンのくい打ち機が横転し、アパートの上に倒れました。アパートの住人ふたりが下敷きになって亡くなりました。そのひとりが野村昭嘉さん。西原理恵子が土佐から上京し、美術大学受験のために通っていた美大受験予備校の同級生でした。
西原は野村が事故で亡くなった一報を知り、翌日17日に追悼文を「怒濤の虫」連載中のサンデー毎日に書いた。翌日書いたということは、一晩泣き明かした西原が語ったことがらを、サンデー毎日の担当編集者「担当S」「毎日のシマ」こと志摩和生がまとめて書いた「全・担当文」という気もする。
サイバラは、ニュース記事が「フリーター野村昭嘉さん死去」と書いていたことに腹を立て、いっそう涙が倍増してしまったのだった。「その日暮らしではあったが、野村さんは高い志を持って絵を描き続けていた画家なのだ」とサイバラは思う。しかし、世間はその絵が売れていなければ、「絵を描くのを趣味にしているフリーター」としてその死亡記事を書く。
美大予備校時代から純粋に絵に打ち込んでいた青年の姿を、サイバラは語る。『怒濤の虫』以外のエッセイ漫画でも繰り返し語る。生前は1枚の絵も売れず、その日暮らしを続けた。食べるための賃仕事の時間のほかはすべてを絵を描くことに注ぎ、クレーンの下敷きになって26才で早世した野村昭嘉。新聞には「フリーター」としか出なかったその人を、西原は「ひとりの芸術家」として追悼した。
おそらく、サイバラのこの追悼文が作品集出版のきっかけのひとつだろうと思うけれど、「野村昭嘉作品集」は亡くなった2年後、1993年に発売されました。
http://www2.odn.ne.jp/tuyu/gorin/shuhen-nomura.htm
西原の元には、野村の遺族から著作の中に紹介してくれたことへの感謝の手紙が届いたという。野村昭嘉は26才で亡くなってしまったけれど、その作品と作品ノートの文章は、『野村昭嘉作品集』として、残された。作品集を見た人の心に永遠に生きて行く。
野村昭嘉の場合はたまたま、追悼文→出版界の目にとまる→遺作集出版、という過程を経たけれど、友達がただひっそりと追悼してくれる、それだけでも遺族にとってはなぐさめになると思います。ことに、病気で、事故で、災害で、早世した家族がいるとき、遺族はいつまでたってもその悲しみを背負います。亡くなった人を思い出してくれる人がいるとき、つかの間、遺族の心も共に亡き人を偲ぶ心で満たされるのです。
アパートにいた野村さん、家の中にいる一番安心している時間に、よもやの事故で命を失うとは思ってもいなかったことでしょう。私もお風呂の最中にこれほど揺れたのは初めてですけれど、いつ何時どのような災難に遭うのかは、予測もできず、家の中に閉じこもっていたから安全だとはいえません。
<つづく>
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2011年04月13日
ぽかぽか春庭「笠松登のこと」
2011/04/13
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>あなたを忘れない(3)笠松登のこと
12日夜、福島原発事故は、ついにチェルノブイリと同じ規模のレベル7の危険度であると発表されました。目に見えない放射能、「ただちに健康に被害を及ぼすものではありません」という決まり文句も、白々しいだけ。チェルノブイリは、事故発生から25年経た今も、原発を覆い隠した「石棺」の劣化による放射能漏れの危険が続いているのです。そして25年たった今も、子どもの甲状腺ガンの増加などは続いています。
12日も、地震が続きました。何度も地震警報が出て、そのたびにこわい思いをする。揺れに耐え、もう大丈夫かなと、警戒心をほどいても、安心はできません。震源地近くの、もっと揺れが大きかった地域の人々はどれほど不安な気持ちだったろうと思います。
不安を紛らわすための心理だろうと思うのですが、長く音信していなかった人に、突然メールであいさつを出したりしています。年賀状を出さなくなってから、音沙汰をしないことが増えてしまったので、地震見舞いはメールを出すのにひとつのきっかけです。
12日は、このところ活動から遠ざかっていた「日曜地学ハイキング」の世話役の理科の先生に地震見舞いかたがた、近況報告をしました。先生からは「私は2年前に退職して、クモヒトデ三昧の生活をしています」という返信をいただきました。以前にいただいた「クモヒトデ」についてのリーフレットからさらに研究が進んで、仲間との共著も近々出版になるとのこと。日曜地学ハイキングは、14年前、娘が1年半不登校だった間、家から外へ出て行く活動の場として、我が家にとって大事な居場所でした。2ヶ月に一度ほど、化石掘りや鍾乳洞見学などに出かけたのがとてもよい「外歩き」になっていました。
ふとしたきっかけで人と出会い、あるはすれ違う。たった一度の出会いを一生の宝物として大切に記憶の中にとどめておくこともあるし、長い間忘れていた人をふと思い出すこともある。どの人との出会いも、今の私を作ってくれた大事なひとときであったにちがいない。
何かの記念写真で親しげにいっしょに写されている人の顔を見ても、さっぱりと思い出せない人もいる。私は、これまでに出会った人のうちの何人の人を覚えていられるだろうか。出会ったことを手紙で家族に知らせた人もいる。日記に書き留めた人もいる。でもたいていはその後のつきあいが続かなければ、忘れてしまう。
人と人とのかすかな出会いを、確かな文章で書き留める。そんな出会いの数ページを読んだ。読み終わると心震え、私もこれまでに出会った誰彼のことを、一行でもいいから書き留めておきたいという気持ちになる。
「記録を残す選手になるよりも、記憶に残る選手になりたい」とは、新庄剛志はじめ、多くのスポーツ選手が口にしている言葉だという。しかし、なかには記録は残したもののまったく人の記憶には残っていない選手もいるだろう。
笠松登という陸上選手を覚えている人はどれくらいいるだろうか。確かめていないのだが、TBSで笠松についてのドキュメンタリー番組が作られたことがあったらしいので、私が知らないだけで、記憶に残ってるという人もいるのかもしれないが、私はまったく知らなかった。
どのようにして笠松は「記録」に残ったか。
1955(昭和30)年第30回陸上競技選手権大会で、走り高跳び1m85で中央大学の笠松登が優勝。1956年メルボルンオリンピック代表選手に選出される。しかし事故のため選抜から降ろされる。1958(昭和33)年リッカーミシン所属選手として1m95で優勝。だが、選手として活躍できなくなり引退すると、会社勤めもやめてしまった。その後失踪。不確かな情報ではあるが、ホームレス生活ののちに凍死したともいう。ドキュメンタリーで話題になるときも、「スポーツ選手の末路」というような話題でのみ取り上げられる扱いとなってしまった。
どのようにして笠松は人の記憶に残ったか。世間が覚えていることと言ったら、次のような新聞三面記事だろう。
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<東京・新宿>五輪代表選手を襲った輪禍
昭和31年10月15日午前1時30分、新宿区歌舞伎町879のバーやまで友人と飲んでいたメルボルン五輪走り高跳び代表選手で中央大経済学部4年の笠松登(22)が、店内にいた大学生7、8人が持っている時計で酒を飲ませろと経営者の呂にからんでいるのを自分が喧嘩を売られたと思い込み、外へ出ろと乱闘になって叩きのめされた。そこへ酔った男性医師(48)の運転する車が倒れていた笠松に乗り上げ、笠松は頭部内出血と内臓損傷で入院1ヶ月、全治6ヶ月のけがを負った。10月16日、笠松はショックのあまり錯乱して自分で判断が出来ない事から、大学側によって勝手に五輪辞退届を提出されてメルボルン五輪への道を絶たれた。
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私が笠松登のことを知ったのは、ノンフィクション作家保阪正康の『回想わが昭和史』(月刊百科No.579 2011年1月号)による。
保阪が小学校6年生のとき、父親は北海道根室の高校に勤務していた。その高校のグランウンドで黙々と練習に励む走り高跳びの高校生がいた。保阪は弟といっしょに練習を見つめた。
保阪は、貧しい生活の中で死んでいったと聞かされた笠松を、記憶の中に反芻する。
「夕闇の中に身体を横にしてバーを越えていく笠松選手の姿に、私と弟の二人だけが拍手を送った。飛び終えて下からバーを見上げる姿が、今も私の記憶の中にあるのだ。」
小学生の保阪正康が、高校生だった笠松登の走り高跳び練習を見つめている。保阪はその姿を記憶にとどめ、何十年もたってのち、その名を記録する。
オリンピック候補になりながら不運にも出場はできず、記録は残しても一般の人の記憶には残されなかったスポーツ選手。
その姿を見つめていた少年が、自らの半生を振り返るとき、夕日に照らされるグラウンドの中に一本の棒を越えようと努力を続ける選手の姿を記憶の中から掘り起こし、書きとどめる。
私たちは、夕日の中に一本の線を描き、そのバーを越えようとする青年のシルエットを描く。なんだか泣けてくる。私は笠松を知らなかったが、今は知っている。一本のペンがそれを記録したから。
私も、出会った人の姿をこのように書き留める人でありたい。
美しいシルエットの中に描かれる人もいようし、つらい記憶とともに吐き出す姿もあろう。でもそれらの人々すべてが、私とつながっているのだ。
<つづく>
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2011年04月15日
ぽかぽか春庭「渋谷君と野村君のこと、夕鶴の囲炉裏」
2011/04/15
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>あなたを忘れない(4)渋谷君と野村君のこと、夕鶴の囲炉裏
地震で倒れてきた本棚で頭を打ったせいで、どうも調子が悪いと思っていました。仕事の新学期開始が4月下旬からになったのは幸いでしたが、授業開始も目前に、いつもの仕事モードに戻さなければいけないとあせりつつも、なんだかやる気がでず、自分では「地震アパシー(無気力)」と名付けていました。
また、ほんのわずかの募金をしてみて、「世の中には100億円も寄付するお金持ちもいるのに、ほんとうに貧者の一灯で、ささやかだなあ」と、自分の貧しさを情けなく思ったり、原発の新聞報道や自粛騒ぎの世間の動向に無闇と腹を立てたり落ち込んだり。
これはへんだ、、、、、、と、精神科医香山リカの「こころの復興で大切なこと」というウェブ連載エッセイを読みました。(toukuroさんの絵日記で教えていただきました)
私の陥った無気力や落ち込み、被災した人への「こちらは被害が少なくて申し訳ない、感」というのも、災害時心理学ではとうに分析されていた心理状態なのだと納得しました。
被災した人に共感していっしょに泣いていると、普通の人は「共感疲労」状態に陥ってしまう。精神科医は、患者の話を聞くとき、どんな悲惨な体験談であっても、いっしょに涙を流したりするなどの過度の共感を心に持ち込まない訓練をしているのだ、と香山リカは書いています。
第1回http://diamond.jp/articles/-/11751 「一日も早く」にとらわれない
第2回http://diamond.jp/articles/-/11844 被災していない人にも「共感疲労」という苦しみがある
3万人近くも死者行方不明者が出た、そのひとりひとりに、つらく悲しく感じている人はその数倍にも十数倍にもなるでしょう。
私が特に気になっているのは、避難誘導に失敗したという宮城県石巻市の市立大川小学校です。教師に引率されての避難途中、全児童108人の7割にあたる74人が津波に襲われ亡くなっています。当時校内にいた11人の教諭のうち9人が死亡、1人が行方不明、助かったのはひとりだけ。
自分の娘の卒業式に出ていたため、避難誘導の場にいなかったという校長をはじめ、たったひとり助かった教諭と、児童十数人、これからずっと心に深い傷を残すのではないかと案じられます。津波警報が出た場合の避難誘導の方法を、「これから話し合う矢先だった」という校長は、辛いことでしょう。
それにつけて、思い出すことのひとつ。35年前に勤務していた公立中学校で教えた中学生の死について。この中学校で3年という短期間しか勤務しなかったのに、私が担当した演劇部の生徒がふたり亡くなりました。ひとりは病死でひとりは交通事故死です。そのふたりを思うにつけ、一度に7割もの児童を失ったのでは、残された親も先生もいたたまれないだろうと感じます。
私が新任の国語科教師として中学校に赴任したとき、渋谷君は1年生でした。クラブ活動紹介のとき、演劇部を紹介する3年生といっしょに、私も「1年生のみなさん、演劇部は楽しいですよ。俳優やりたい人はもちろん、舞台装置を作るために大工仕事が好きな人、音楽が好きな人、いろんな人が必要です。得意技がない人も、大歓迎」と、参加を呼びかけたら、「ぼくは、何も得意なことも好きなこともないから」と、入部してきました。
渋谷君ともう一人「何もできないから」と、演劇部を希望してきたのですが、その年の演目「夕鶴」の舞台背景の田舎家や囲炉裏などの舞台装置を、夏休み中いっしょに作ってくれました。いつも青白い顔で、入部してきたは暗い顔つきだった渋谷君。「ぼく、女の子に気持ち悪いからそばに来ないでって言われたことあるんだ」と、悩みを打ち明けてきたこともありました。思春期のはじめの、女子生徒を意識し始めた悩みかもと軽く受け流し、「そのうち渋谷君の良さをわかってくれる子も絶対にいるから、君は君のしたいことを一生懸命やっていればいい。今はこの鶴の影絵を作っていればいいさ」などと言って聞き流しました。渋谷君はサボりながらもクラブはやめないで続けていました。
<つづく>
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2011年04月16日
ぽかぽか春庭「渋谷君と野村君のこと、三年寝太郎」
2011/04/16
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>あなたを忘れない(5)渋谷君と野村君のこと、三年寝太郎
ものを作ることに興味が出た渋谷君は2年生になったら「もっといろいろ作りたくなったから、演劇部やめて、技術部に入ります」と、言ってきました。それもひとつの成長なのだろうと思って、「じゃ、技術部で工作とか旋盤とか、いろんな制作を楽しんでね」と、送り出しました。相変わらず顔色はさえないけれど、女の子から「気持ち悪い」と言われても、表情は男の子らしくしっかりしてきたように思えました。今の女子生徒用語なら「キモかわいい」くらいになってきたところだったでしょう。
渋谷君2年生の秋、「渋谷君、なんか風邪みたいで、1週間くらい欠席が続いている」と、同じクラスの女の子が渋谷君のようすを知らせてきました。「あらま、来週あたりは出席できるかな、担任の先生に聞いてみようか」と言っているうち、担任の英語の先生が「うちのクラスの渋谷が再生不良性貧血のため亡くなりました」と、朝の連絡会で報告しました。そんな急に人があっけなく死んでしまうのかと、信じられませんでした。当時、再生不良性貧血には治療法がなかったのです。(現在は骨髄移植や免疫療法などがあります)
お葬式に出るのは、同じクラスの生徒の代表と、教頭、担任、現在所属しているクラブ顧問の技術科の先生、というお達し。私は、「遺族の気持ちを考え、学校関係者が押しかけることは避ける」という学校方針に従いました。クラブの生徒には「文化祭や地区演劇発表会をやり遂げること、自分たちの頑張っている姿を届けることで渋谷君の冥福を祈ることにしましょう」と言いました。
教師2年目の夏休みは『夕鶴』と同じ、木下順二作『三年寝太郎』の練習で連日稽古と舞台装置作り。と、言っても、三年寝太郎の舞台装置は、囲炉裏とか、ほとんど『夕鶴』で作った物の使い回し。
主役の寝太郎を演じたのは、3年生の野村君でした。私が赴任する前の年、1年生のとき、彼は2,3年生の女子が主役を演じているのを、端役でささえました。2年生のとき、唯一の男子俳優希望者ですから、『夕鶴』の与ひょう役に抜擢し、彼は宇野重吉風のひょうひょうとした演技で与ひょうを演じました。3年生になった彼のために、それまでの女子生徒中心だった演目から、男性が主役を張れる演目に変えて『三年寝太郎』を選びました。野村君は、三年寝太郎もがんばってくれました。
教師3年目。卒業した野村君は第一志望の高校に入りました。自宅からは通学に不便な高校でしたが、高校入学祝いは、前々からねだっていたバイク。16歳になったらすぐ免許をとるのだと言い、免許をとるとバイクで通学するようになりました。しかし、通学途中、トラックと衝突して、野村君は16歳で世を去りました。このときは、元クラスメートである卒業生たちといっしょにお葬式に参列しました。(現在は、たいていの高校がバイク通学を禁止するようになっています)
教え子が先に亡くなるなんて、教師にとってはつらいことです。でも、「この死を嘆いていたら、他の生徒の指導が先に進まなくなってしまう」と感じ、生徒とともに泣くことを自分に禁じました。このことは、ずっと私にとって「私は冷たい教師だったのか」という心の負担になっていました。野村君が亡くなった翌年の3月には退職しました。
あれ以来、折に触れて渋谷君と野村君を心の中で追悼してきました。中学生のままのふたりが思い出されました。
精神科医やカウンセラーは、残された者にも、心の手当が必要だといいます。「こころの復興」について読んでいると、私が生徒の死に対して「ずっと泣いていてやれないのは冷たい態度だろうか」と思っていたのは、誤りだったとわかります。亡くなった人の追悼は、いつまでも泣いていることではないのです。
今はまだ、どのように追悼したらいいのかさえ、わからず、3万の死者行方不明者の「みたま安かれ」と祈っているばかりです。でも、きっと亡くなった方々も、残された人が長く嘆き悲しみ、立ち直れないことを望んではいないでしょう。
三年寝太郎は、寝続けていても最後は明るく自分の運命を切り開きました。残された人たち、泣き続ける日からきっと立ち上がって、最後に寝太郎が笑えたように、笑顔を取り戻して欲しいと思います。
<つづく>
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2011年04月17日
ぽかぽか春庭「西方さんのこと」
2011/04/17
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>あなたを忘れない(6)西方さんのこと
16日11時すぎ、また地震。東京は4でした。余震疲れなのか、レベル7パニックなのかわかりませんが、春庭が、神経過敏ぎみにいちいち周囲のことがらに反応してキンキンキャンキャンとわめき散らすのも、地震反応と思って大目に見て下さい。(春庭BBSでわめいています)
泰然自若というのはほど遠い、ちょっとのことで怖がったり不安に思ったり。
母が死んだ年55才をとうに超えたのに、相変わらず人間の小さい春庭は、まだまだ修行が足らぬことわかっております。
母にまつわる思い出の中で、よく覚えていることのひとつが、「縁側から上がらなかった人たち」です。(何回か同じエピソードを記していますが)。
母を慕って「お茶飲み」にわが家に立ち寄る人々は多かったのですが、その中でいくら母が「今日はちょっと冷えるから、縁側でなく座敷にどうぞ。おこたがあったかいから」なんて勧めても、部屋へ上がろうとしない人たちが何人かいました。
そんな客が帰ると、母は「あの人はいつも遠慮して、、、、」と残念そうにしていました。
私が高校に入学したあと、母は、ようやく私がものごとを理解できる年頃になったと思ったのか、なぜ縁側から座敷に上がろうとしない客が来るのかを話してくれました。母の生まれ在所近くの地域に差別を受けている地区があったのです。母が通った小学校でもその地区の子供は差別を感じて育っていたのですが、母だけは絶対に同級生を差別するような言動をとらなかった。そのためにその地区の人たちは母を慕って、わが家に立ち寄ってひととき話をして帰って行きました。しかし、「私らが座敷に上がると、他の人たちが寄りづらくなるだろうから」と遠慮して、いつも縁側に立ち寄るだけにしていた、というわけでした。
この「どんな人にも温かい態度で接する。決して人を差別しない。できる限り人の世話をする」という精神は、姉にも妹にも伝わっています。私は、姉や妹のように世話好きにはならず、伯母(母の姉)に似て、人とうまく交際できない遺伝を受け継いでしまったのです。伯母は、子供の頃は家から一歩外に出ると他人と話ができない「場面緘黙症」でしたし、大人になっても職場の人と親しいつきあいはできず、家族以外に友達とつきあうようになったのは、晩年になってからでした。人から攻撃を受けるということについての防御心理というのが、伯母や私に強いように思います。「あの人が私を悪く思っている」と感じてしまうことの心理的なストレスが、伯母も私も大きく、世間からは身をひいて引きこもりがちに生きてきました。
一方、母は町中の人に慕われていました。誰にでも親切で、いつでも親身になって人の世話をしていた母。
でも、母が死んで40年近くなるので、母のことを記憶していてくれる人々も、どんどん死んでいっていることでしょう。母が自分の身体を放り出すようにして助けた、鉄道線路を歩いていて汽車にひかれそうになった幼子も、母のことを思い出すこともないかも知れません。
私と妹が死ねば、母を覚えている人もいなくなる。さびしいけれど、それでいいのでしょう。
私が出会った人。市井の、無名の、どこにでもいそうな人々。記憶の断片の中のひとりひとり。
今日思い出すのは、西方さんのこと。西方だったか、西潟だったのかも覚えていなかったのですけれど、母に出した古い手紙の束が出てきて、その中には「西方さん」と書いてありました。
私と西方さんは、母が亡くなる数年前に出会いました。私は、初めて東京に出てきて、一人暮らしを始めたところでした。母と離れた心細さもあって、母に似ているふっくら体型と、いつもほほえんで周りの人を包み込んでくれるような西方さんに親しみを感じました。
私は、医科大学の内科検査室に「研究補助員」として勤務し、試験に合格して「衛生検査技師」という資格を得ました。衛生検査技師は、「臨床検査技師の業務のうち、生理学検査以外の検査、すなわち検体検査を行うことができる」と定められた資格で、私は「病院等に1年以上勤務し、内科検査に従事した者」が受験できる特例によって試験を受け、資格を得ました。この特例制度は、臨床検査技師が短大卒でなく4年生大学卒資格になって以後、廃止されており、現在ではすべて臨床検査技師に統一されています。検査技師が不足していた時代に特例の資格を与えた、いわば「代用教員」のような制度でした。
西方さんは、私が検査技師の試験に挑戦することがわかると、専門学校や短大を卒業して取得できる資格への挑戦に対して、「私もね、学校行きたかったんだけれど、家が没落しちゃったから、行けなかった。試験で資格取れるなら、がんばりなよ」と、励ましてくれました。
<つづく>
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2011年04月19日
ぽかぽか春庭「思い出し供養」
2011/04/19
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>あなたを忘れない(7)思い出し供養
「高校時代、科学部に所属し、部員として読売学生科学賞を受賞したことがある」ということを評価して採用して貰ったのに、もともとが文系の私は、医学には向かない人間でした。
私の仕事は、血液検査と尿検査でした。血液像を検査して白血病の診断につなげるなど、医学的に重要な仕事であったゆえ、生き甲斐と誇りを持って勤務している検査技師が多かったのに、私は「短期アルバイト」の気持ちが抜けず、資格取得後まもなく退職してしまいました。
急性白血病の患者が入院して1週間もたたないうちに死んでしまう、という生と死を見つめる仕事を続けるには、医学への強い心が必要です。患者の死に打ちのめされているような心情の持ち主は、医学の仕事を続けられない。医学は死の衝撃を乗り越えて進まなければならない仕事です。
40年前、私が病院の検査室勤めを続けられなかったのも、検査を担当した人が死んでしまったりしたときに、いちいちショックを受けてしまうようなヤワな精神だった、というのも理由のひとつでした。
20歳という多感な時期に、生と死と向き合う病院の仕事に従事したことは、私には大きな影響がありました。この内科検査室でのたった1年半に出会った人々。内科検査室の斎藤主任、検査技師の涌井さん、杉本さん、林さん、諏訪さん、、、、病院勤務を辞めたあと、何度か検査室に遊びに行って、「今は公立中学校の国語教師をしています」など、報告もしました。検査室での仕事を続けている元の仲間は温かく迎えてくれました。
西方さんは、内科検査室の試験管を洗ったりする係員でした。とても働き者で、いつも生き生きと仕事をして、仕事の合間にはご家族の話もよくしてくれました。ちょうど母と同じ年頃だったので、とても親しみやすくて、慣れない東京暮らしの私も、西方さんのおしゃべりを聞きながら仕事をすると、気持ちも落ち着きました。
西方さんのお得意の話はいくつかありましたが、繰り返しの昔話のなか、自慢話とも愚痴ともとれるお話に「亀の子束子」の話がありました。江戸っ子のきっぷのよい話しぶりでした。
「うちの爺さんってぇ人は、亀の子束子を考え出して、今で言う実用新案をとって大もうけした人なんだけど、20年の実用新案が切れるとたちまち貧乏になっちゃって、私もこんな試験管洗いの仕事をするようになってさ。実用新案が切れる前に、切れた後のことを考えてお金を貯めるような人だったら、あたしらもこんな苦労はしなかったろうに、なんせ江戸っ子だったからねぇ。あればあるだけ、宵越しの銭は持たないってのが江戸っ子だからね」
現在も続く亀の子束子の会社が東京の滝野川にあります。初代社長は西尾正左衛門という名で、詳しい伝記も会社沿革に書かれています。立志伝中の人物であったようで、実用新案が切れたあとは、すっかり貧乏になってしまったという西方さんの話とは一致しません。西方さんの実家が西尾商店だったのかどうかも今は確かめる方法もわかりません。
検査室退職後、検査室以外の場所へ西方さんに会いにいきました。大学病院の癌病棟でした。私が勤務していた頃、小説家高橋和巳が入院していた病棟です。
娘さんが付き添っていました。試験管を洗っていたころは、ふっくらおおらかな身体をゆすって話込んでいた人だったけれど、「こんなに痩せちゃってねぇ」と言い、頭には毛糸の帽子を被っていました。おそらく抗がん剤で髪の毛が抜けてしまったのだと感じました。
「ここは一流の病院だし、優れた先生が大勢いるのだから、きっと治りますよ」と声をかけて病室を辞したけれど、高橋和巳も結腸癌に勝つことはできず39歳で死んだことが思い出されました。
西方さんとの出会いはほんとうに短い期間だったし、西方さんについてあれこれを知っていたわけでもありません。でも、私が西方さんを覚えていて、その笑い声や昔語りが好きだったこと、そのことは私の中でセピア色になっても確かに心の中にあるのです。もし、西方さんの病室にいた娘さんが「私の母を覚えている人がどれほど残されているのだろう」と思うことがあったら、私は「西方さんを覚えていますよ。西方さんのやさしい笑顔が大好きでした」と伝えたい。
子どもの頃読んだメーテルリンクの『青い鳥』。チルチルとミチルが最初に行った国は、「思い出の国」です。二人は思い出の国で、亡くなったおじいさんとおばあさんに出会いました。おじいさんは「人は死んでも、みんなが心の中で思い出してくれたら、いつでも会うことが出来るんだよ」とチルチルたちに語りました。
私が西方さんを忘れないでいる限り、私の母を覚えていてくれる人がこの世にいることを、信じられるような気がします。
<おわり>