2011/03/27
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年3月>必ず春は来る(1)博士号授与式
3月25日金曜日、学位伝達式は13時から行われ、私は博士号を授与されました。私が在籍している大学院も、武道館での卒業式は中止になり、大学会館で学位伝達式だけが行われました。大学院修了祝賀会も中止。交通の便も悪く放射能拡散も心配な中、授与式欠席も考えたのですが、指導教官にお礼も申し上げたかったので、出かけてきました。
30年間の日本語学日本文学研究と3年間の博士論文との格闘の結果、論文が審査を通過し、晴れの博士号授与です。このようなときに私事で喜ぶのは気がひけますが、素直にうれしいです。
2008年に大学院博士後期課程に入学したのは、その前年の2007年の中国赴任がきっかけでした。私が2007年に中国で教えた学生は、中国のトップ大学の若手教師として働いてきた人たちでした。中国の大学院で修士号を得た後、教師として働いていた人のなかから選抜され、日本の大学院で博士号をとるために留学する人たち。彼らは2007年10月に来日し、2008年4月から博士後期課程に入学しました。
私は1988年に日本語教育能力検定試験に合格し、大学院修士課程を終えて修士号を得ていましたから、大学で日本語学や日本語教育学などを教える仕事を続けるために、特に博士号が必要ではありませんでした。しかし、教え子たちが次々に「大学院博士後期課程の試験に合格しました2008年4月に博士課程に入学し、2011年3月の博士号取得をめざします」というメールを寄せてきて、刺激を受けました。
そのメールを見ているうちに、「教え子が博士号をめざして頑張るのだから、私も挑戦してみよう」という気持ちが生まれたのです。
なんとか出願に間に合った大学院の試験を受けて、2008年4月から大学院博士後期課程の学生になりました。仕事を続けながらの「勤労学生」ですが、修士課程に在学していたときは、娘と息子の子育てと日本語教師の仕事と夫の会社の手伝いを同時にこなしながら通学していたのです。今思い出せばよくもあんな忙しい毎日をこなせたものだと感慨にふけってしまいますが、当時はそれがつらいなどと思う余裕もありませんでした。
今は娘も息子も成人し、もう子育ての忙しさはありません。仕事をしながら博士論文を書くことも不可能ではありません。この3年間のたいへんだったことと言えば、「楽しみのための読書」の時間が減ったことくらい。研究に必要な本を読むのでせいいっぱいでした。
博士課程在学中、2009年3月から8月まで中国赴任の仕事もありましたが、在籍のまま仕事と研究を続けることができました。
3年の間に、規定の紀要論文5本、学科12単位のために小論文10篇を書き、4回の中間発表会。最終論文提出は2010年10月28日。12月の最終口頭試問を終えて、2011年1月30日に博論正本を提出。2011年2月、審査委員会の審議を通過しました。
晴れの式ですが、すべて自粛ムードとなったのもやむを得ません。大切な人を失ってしまった人も、家族の安否がわからない人も、大勢いるなか、お祝い事によろこぶ気持ちも晴れ晴れというわけにはいきません。
私にとっての晴れのお祝いは、博士号を手にしての祝賀会でよりも、故郷の両親と姉の墓前で「お母さん、私、博士になりました」と報告したことです。2月27日、母の命日に墓参りしたおりに報告できました。
<つづく>
00:36 コメント(8) ページのトップへ
2011年03月28日
ぽかぽか春庭「母への報告」
2011/03/28
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年3月>必ず春は来る(2)母への報告
2月27日は母の命日です。
27日朝東京を発って群馬へ帰郷。故郷のお寺へお墓参りに行ってきました。毎年寒さが続くころなので、お墓参りも「今回はパス」と省略してしまう年も多かったのですが、今年は2月25日には春一番も吹いたし、温泉にも入りたいし、両親への報告もあるので、出かけてきました。
墓前に、母が私に望んだことをひとつ達成できた、と報告しました。
「お母さん、お父さん、私はハカセになりました」
3月25日の博士号授与式の一ヶ月前ではありましたが、報告できてよかった。2月末はまだ寒いので、学位授与式のあと春休み中に帰郷するという案もあったのですが、そうしていたら、震災後の交通混乱によって両親への報告は当分できないことになっていたでしょうから。
父は、私が本ばかり読んでいると「目が悪くなる。女の子がメガネをかけると嫁のもらい手が減る」と心配しましたが、母は私の本好きを応援してくれていました。母は「そんなに本が好きなら、本を書く人になったらいいよ。作家になればいい。それとも勉強して、学者になってハカセになるかい」と、私に勧めました。
私は3、4歳のころ、姉が絵本を読み聞かせしてもらっているのを隣で聞いていて、ひとりでに字を覚え、本が読めるようになりました。母は苦しい家計からも本だけは、やりくりして毎月の子供雑誌のほか童話集などを買ってくれました。お気に入りはアンデルセンとラングでした。
私が縁側でおやつを食べながら本を読んでいると、母方の祖母は「私のおっかさんを育てた中郷のひい爺さんは、いっつも本を読んでいる人だったそうだよ」と昔話をしました。幕末か明治初期にさかのぼるころの話です。私の祖母の母親は早くに親を亡くしたため、じいさまに育てられました。そのじいさま(私の祖母の曾祖父)は、お百姓ながら本が大好き。しかし、百姓に座って本を読む時間など与えられず、本が読めるのは畑や田んぼへの行き帰りに大きな籠を背負って歩きながら読むか、食事をしながら目を本に注ぐかしかなく、「中郷のひい爺さまは、いつも食べながら読んでいたそうだ」と話していました。
私が本から目を離すことができずに、おやつの饅頭などを口に入れたまま読むのを「行儀が悪い」と父に叱られると、祖母はこの「食べながら読んでいたじいさま」の話をしてかばってくれました。母も、「本を読むのをやめられないのは、5代前のおじいさんからの遺伝だからしかたがない、と言っていました。母も本を読むのをやめられずにいて、鍋を焦げつかせることがありました。
母自身も本が大好きでしたが、自分の本を買うのは「婦人公論」を定期購読していたくらいで、単行本は市立図書館で借りていました。私も市立図書館が利用できる4年生になると、小学校の図書館のほか市立図書館へも自転車で行くようになりました。
アンデルセンの童話が大好きだった小学校1年生のころ、「大きくなったらアンデルセンになる」と言っていました。自分のノートに幼い文字で自作の童話を書き続け、母は私が童話を書くのをたいそう楽しみにして読んでいました。
私が大学3年生のとき、母は医者の誤診のせいで亡くなりました。私は生きる気力を失って、もう何にもなりたいものなんて無くなりました。
大学卒業後、父が「女が仕事を持つなら、教師が一番無難だろう」というので、父がそう言うなら教師がいいのだろうと中学校国語教師になりました。国語教師なら本を読む時間がとれるのではないかと思ったのですが、好きな本など読む時間がとれないほど、日々ただただ忙しい勤務の3年間でした。
父は私に「無難な人生」を望んで、私はそれに応えようと思いながら応えられず、平穏無事な人生からは外れてしまいました。単身ケニアに行ったことや、ナイロビで出会った元地方新聞の記者、その後はずっと収入が不安定な男との結婚、父には不安なことばかりだったでしょうが、天国の母ならわかってくれると信じて、私は突っ走ってきました。
母が私に望んだことは、私が生き生きと人生に立ち向かい、自分自身を貫いていくことだったと思います。
墓参りのあと、妹一家と温泉に行きました。市内には伊香保温泉石段の湯、赤城温泉天地の湯、白井温泉こもちの湯など、各地区ごとに日帰り温泉があります。今回は吾妻川のほとりにある「小野上温泉さちの湯」に入りました。
妹、姪、姪の次男(1歳半)と露天風呂につかりました。男湯には妹の亭主、姪の亭主、姪の長男が入っています。
故郷はまだ春浅い。白梅紅梅は行き帰りの車の中からきれいに咲いているのが見えましたが、2月28日帰京する電車に乗る頃にはみぞれがふりました。待合室で耳にする故郷なまりのおしゃべりはあたたかかったですが、電車を待つホームは吹きさらし。風邪は東京に戻ってから発症しました。
<つづく>
10:33 コメント(6) ページのトップへ
2011年03月29日
ぽかぽか春庭「母への誓い」
2011/03/29
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年3月>必ず春は来る(3)母への誓い
母の命日。2月27日。お墓にお花やお線香を供え、妹の孫ふたりが小さな手を合わせて、ママに言われた通りに「なむ~」と言っています。上は5歳。下は1歳半。上の子は仮面ライダーカブトの大ファンで下の子はアンパンマンに夢中。
妹は、孫息子ふたりにメロメロで、下の子が人見知り最盛期でママにしか抱かれたがらないのをやきもきしています。「バアバに抱っこしよう」と誘っても「カーチャン」と言われて振られてしまい、「もう!」と、怒っています。
私の母は55歳で、孫をひとりも見ることなく死んでしまいました。死の間際にも、結婚して1年ほどの姉に「赤ちゃんは?」と、尋ねていたそうです。「あのとき、嘘でもいいから赤ちゃんができたよって言っておけばよかった」と、姉は悔やんでいました。
こうして墓前にひ孫が手を合わせているのですから、きっと千の風に吹かれながらも喜んでいることでしょう。私の両親にとって、孫は6人、ひ孫も6人になっています。
母は農家の出身だったので、町場の会社員と結婚したことを周囲からうらやましがられていたのですが、母自身は本当は看護師さんになりたかったようです。母が結婚前、行儀作法などを仕込んで貰うため「行儀見習い」(という名目の女中奉公)に行ったという話を伯母から聞いたことがありました。奉公先の医院からは、何をするにも覚えの早い母を見込んで「看護婦」の勉強をさせたいと申し入れがあったそうです。しかし、母の父親は「女は嫁に行け」という方針。親にさからえず、見合い結婚しました。
母は、「自分の腕を頼りに一人で生きていく自立した女性」にあこがれながら、「子を持って母として生きる人生」以外に、選択肢がなかった。自分ではかなえられなかった「自立した人生」を娘達には望んでいたのです。「手に職をつけよ」というのが、母の願いでした。父は「女性は結婚して子育てをするのが最も幸福な人生」と思っていたので、女性が仕事を持つことに積極的ではありませんでした。父と同居した末の妹は、出産を期に会社を退職し、以来NPOなどの仕事をするほかは専業主婦&パート主婦でした。父にとっては末娘が安定した結婚生活を過ごしたことで安心できたことでしょう。
姉は母より若い54歳で亡くなりました。孫4人を得て、孫達の生い立ちに心残りもあったでしょうが、「私は十分に自分の人生を生ききった。自分の生きてきた道に何一つ悔いはない。満足している」と言って死にました。2度結婚して2度離婚し、2人の娘と2度目の相手の連れ子の世話もし、美容院を経営してお客さんに慕われていました。きっちり自立して生き、4人の孫をかわいがっていました。
姉は高校卒業後、専門学校に進学して美容師となり、管理美容師の資格もとりました。2度離婚したので、父が願うような「穏やかな女の幸せ」とは違ったかも知れませんが、手に職をつけたおかげで「イヤだと思ったら我慢せずにさっさと離婚を決意できた」と言っていました。姉は姉で、54年という短いものではあったけれど、自分の人生を精一杯生き、全うしたのです。
最後の日を迎えたとき、私も姉のように、自分の人生に誇りと満足を持って死にたいと願っています。
世間様からは「今時、ハカセ号がなんぼのもんじゃい」と思われるのはわかっているけれど、私は何のためでもなく、ただ、母に会えたとき胸を張って、「自分は自分に与えられた時間を生ききった」と言うために頑張ったのです。博士号に何の実利がなくとも、私自身が「母の前で恥ずかしくない自分でいたい。精一杯自分の時間を自分のために使った」と言うために、この3年間、博士論文と格闘したのです。
博士号をとったからといって大学非常勤講師の時給が上がるわけでもなく、イマドキ博士号を持っていても何の役にもたたないのは承知で、2008年4月から3年間大学院博士後期課程で研究を続けました。
女の細腕で稼ぎ、娘と息子を育てたこと、博士号を得たこと。私は自分に与えられた時間を真摯に生きてきました。週5日月曜日から金曜日まで働き、土日は洗濯や茶碗洗いと翌週の仕事の準備。金曜日夜にはジャズダンスの練習。毎日ブログを更新。
部屋の掃除は思いっきり手抜きだし、人とのつきあいも省略していて、十分でない部分も多々あることは承知ですが、母は「よく頑張りました」と言ってくれるのではないかと思っています。
「お母さんの分まで長生きして、もっともっとがんばるからね」と、母に誓いました。
<つづく>
春庭にお祝いのメッセージを寄せていただき、ありがとうございます。大学院修了生主宰の祝賀会が中止になったのですが、ウェブ友の皆様に祝っていただき、「ウェブ依存症(by むすめの春庭評)」の私になによりのこととうれしく思っております。
09:16 コメント(4) ページのトップへ
2011年03月30日
ぽかぽか春庭「息子の卒業式」
2011/03/30
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年3月>必ず春は来る(4)息子の卒業式(再掲載)
3月の卒業式。関東東北地方の多くの大学で中止になりました。卒業生にとっては旅立ちの春に晴れ晴れと式に参加できなかったことは残念でしょうが、その気持ちは4月から社会に貢献することで生かしていってほしいと思います。
3月15日、息子の大学卒業式も、予断を許さない原発への不安と計画輪番制停電の実施の影響で卒業式は中止。「卒業証書配布」だけが実施されました。
私は息子の入学式のときには行けなかったので、「あんたが来るなって言っても、卒業式には行くからね」と、息子には言っていたので、卒業式中止はなんとも残念でした。
息子は文学部総代に選ばれたと連絡があり、代表として卒業証書を受け取ることになっていたのです。また、4年間のトータル成績優秀者として表彰され、記念品を授与されることになっていました。
14日になって、「卒業式は中止になるけれど、会議室での博士号授与式のあと、卒業生総代には卒業証書授与があるので、出席してください」という連絡を受けました。せっかくの博士号授与式なのに、地震後の交通状況で新博士にも欠席者が何人もいました。
息子は文学部総代として名を呼ばれ、学長から証書を渡されました。
4年前、2007年4月は私は中国に赴任中で、入学式には行けませんでした。息子が入学したのかどうかもわかりませんでした。
センター試験を受けるときの息子が出した条件は「センター試験の成績のみで合否判断する大学の、史学を学べるところに願書を出す」「もし、合格通知が来ても、入学するかどうかの判断は本人に任せる。母は絶対に、あの大学がいいとか、ここへ入れとか言わないこと。どこにも入学しないという決断をしても文句いわないこと」という条項でした。
高校1年2学期から学校には行かず、翌年夏に文科省の高校卒業資格認定試験に合格すると退学届けを出しました。昼夜逆転生活でゲーム三昧の引きこもり生活を2年半続けての大学入試でしたから、とにかく試験を受ける気になっただけでもよしとして、「入学したくなかったら入学しなくてもよいから」ということで、ようようセンター試験を受けました。
学校授業をきちんと受けたのは中学2年までで、英語では点数はとれるはずもなく、引きこもり中、戦国シュミレーションゲームのために読んだ歴史書の読解力だけが頼り。国語と日本史の成績だけでの勝負でした。
合格通知を都内の2校から受け取り、どちらに入るのかもわからないまま、私は中国へ単身赴任で出国してしまいました。果たして入学する気が起きるのかどうか、心配もつのりましたが、息子が自分で判断でき、よかったと思います。半年の中国赴任を終えて帰宅すると、息子は大学生になっていました。
家から自転車で15分のところにある大学なので、息子は風邪をひいたときと、大学がはしかの流行で封鎖になったとき以外はほぼ無欠席で、精勤賞もの。大学に精勤賞はなかったけれど、成績優秀者として表彰されました。
2月半ばごろ。息子が「母は、今何か買いたい物があるかい」と聞いてきました。「誕生日のお祝いとか母の日のプレゼントは、いっしょに旅行に行くこととか、いっしょに食事にでかけるのがいいって母はいうけれど、今回のはそういうのはダメなんだ。時計とか万年筆とか、物として買えるものじゃないとダメだから、何がほしいか考えといて。予算はきっちり3万円」と、言うのです。
でも、私は服もバッグも興味がない。何も考えないでいたら、「もう、プレゼントの締め切り日だから、なんでもいいから欲しい物言って。そうじゃないともらえなくなる」と、締め切りが迫ってようやく、どうして予算3万円なのか話してくれました。成績優秀者として表彰されるにつき、副賞として3万円相当の記念品が贈られる。その品は万年筆とか時計などの「記念品っぽい」ものがよいと言うのです。その記念品は母へのプレゼントにするから、母の好きな物を言わなくちゃだめなんだ、という説明でした。
そういうことならと、ネットであれこれ検索し、一番「記念品っぽい」ものとして時計を選びました。自分が稼いだ成績で、自分が貰うはずの記念品なのに、それを「母にあげる」という。「はじめての親孝行」?
いいえ、親孝行は、生まれてきてくれたことです。予定日の40日前の早産で、帝王切開で生まれたときは仮死状態。生後3日間は生死さえわかりませんでした。また、乳児検診では仮死状態で脳内に酸素が行かなかったことの影響がどれほど出てくるかわからないので、成長過程でどんな身体的知能的な障害がでるかわからないと言われました。その子が、こうして生きていてくれるのですから、それだけで大きな親孝行です。
息子、3月中、初めて「お他所」でのアルバイトをしました。これまでは夫の自営する事務所での校正の手伝いなどでしたから、アルバイトといっても「人様の釜の飯を食う」修行にはなっていませんでした。今回も在籍している大学での「学生スタッフ」というアルバイトですから完全には「人様の釜の飯」ではありませんけれど、人間関係が苦手な息子なので、他所で勤まるのかと案じていました。
仕事は「一日中パソコン使う仕事」だったそうで、息子は「人には疲れるけれどパソコンには別段疲れない」と言うのです。家にいたって、一日中パソコンゲームしている息子ですから、そうか、こういう仕事があるなら、なんとか生きて行けそうだという見通しもついて、ほっとしました。
しかし、この身の丈にあったアルバイトも計画停電の影響で短縮され、あまり稼げない見通し。余震に驚いておきた23日も。体調も万全ではないので、「風邪が治りきっていないのだから、電話して仕事を休んでもいいんじゃないの?」と言ってみたのですが、息子は「行くと約束したから行く」と、いつもの自転車で出かけていきました。
4月からは大学院生。史学研究の道に進みます。どういう未来が待っているのかわからないけれど、とにかく、生きているだけで親孝行!です。
我が子が生きていてくれることの幸運を思えば、家族を失った人々の悲しみがよりいっそう身に染みます。
ただ祈り続けています。
<おわり>
mackychanさん、conparu さん、コメントをありがとうございました。「息子の卒業式」は3/30に再掲載しました。
08:52 コメント(2) ページのトップへ
2011年03月31日
ぽかぽか春庭「アトムさん無事」
2011/03/31
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年3月>必ず春は来る(5)アトムさん無事!
3月11日以後、ずっと心配を続けていた三陸の漁師アトムさん。
避難者名簿にもお名前がなく、お知り合いの方からの安否情報を求める文がヤフー質問箱その他に載せられているのに、まったく情報が入らないので、案じていました。
今夜、アトムさんご本人からメールが届きました。外洋の遠洋漁業に携わっていたのだそうで、ご家族も無事との連絡をいただき、ほんとうに嬉しく、震災以後、被災者のことや原発のことなどでずっと心が晴れ晴れしない気持ちになっていたのが、春の日差しがさすような温かい気持ちになりました。
わが家の片付けは遅々として進みませんが、それでも今日は浴槽に投げ入れてあった本の片付けをして、3週間ぶりにお湯につかりました。
もっと早く片付けをすれば早くにお風呂にも入れた環境です。私の区はガスも電気も滞りなくインフラの不自由はない地区なので。でも、避難所にいる方々は、お風呂に入るのも不自由をなさっているという記事を見て、わが家は3週間いっさいの暖房を使わず、お風呂もシャワーを5分ほど浴びるだけで済ませてきました。
我慢大会のようなことをしていて何か被災者の役に立つのかと言われれば、わが家が家の中でダウンコートを着込んで過ごすことに意味がないのかもしれませんが、これは一種の祈りのような気持ちです。私だけがぬくぬくと豊かさを満喫するような生活はしない、避難所の人々とまったく同じにはできないけれど、少しでも不自由さを共有することで共感の気持ちを表したかった。水のペットボトルもトイレットペーパーも買わなかった。トイレットペーパーは生協の買い置き品があったから不自由はありませんでしたが、牛乳が買えないのは困りました。わが家の息子、マサイ族の人々のように主な栄養源は牛乳という偏食家なので。
そんなこんなの不自由はありましたが、それくらいのことは何のその。アトムさんからの「無事」メールで、4月のさくらを心待ちにする気分が出てきました。
避難所のみなさん、花咲く日を待ちましょう。
<おわり>
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年3月>必ず春は来る(1)博士号授与式
3月25日金曜日、学位伝達式は13時から行われ、私は博士号を授与されました。私が在籍している大学院も、武道館での卒業式は中止になり、大学会館で学位伝達式だけが行われました。大学院修了祝賀会も中止。交通の便も悪く放射能拡散も心配な中、授与式欠席も考えたのですが、指導教官にお礼も申し上げたかったので、出かけてきました。
30年間の日本語学日本文学研究と3年間の博士論文との格闘の結果、論文が審査を通過し、晴れの博士号授与です。このようなときに私事で喜ぶのは気がひけますが、素直にうれしいです。
2008年に大学院博士後期課程に入学したのは、その前年の2007年の中国赴任がきっかけでした。私が2007年に中国で教えた学生は、中国のトップ大学の若手教師として働いてきた人たちでした。中国の大学院で修士号を得た後、教師として働いていた人のなかから選抜され、日本の大学院で博士号をとるために留学する人たち。彼らは2007年10月に来日し、2008年4月から博士後期課程に入学しました。
私は1988年に日本語教育能力検定試験に合格し、大学院修士課程を終えて修士号を得ていましたから、大学で日本語学や日本語教育学などを教える仕事を続けるために、特に博士号が必要ではありませんでした。しかし、教え子たちが次々に「大学院博士後期課程の試験に合格しました2008年4月に博士課程に入学し、2011年3月の博士号取得をめざします」というメールを寄せてきて、刺激を受けました。
そのメールを見ているうちに、「教え子が博士号をめざして頑張るのだから、私も挑戦してみよう」という気持ちが生まれたのです。
なんとか出願に間に合った大学院の試験を受けて、2008年4月から大学院博士後期課程の学生になりました。仕事を続けながらの「勤労学生」ですが、修士課程に在学していたときは、娘と息子の子育てと日本語教師の仕事と夫の会社の手伝いを同時にこなしながら通学していたのです。今思い出せばよくもあんな忙しい毎日をこなせたものだと感慨にふけってしまいますが、当時はそれがつらいなどと思う余裕もありませんでした。
今は娘も息子も成人し、もう子育ての忙しさはありません。仕事をしながら博士論文を書くことも不可能ではありません。この3年間のたいへんだったことと言えば、「楽しみのための読書」の時間が減ったことくらい。研究に必要な本を読むのでせいいっぱいでした。
博士課程在学中、2009年3月から8月まで中国赴任の仕事もありましたが、在籍のまま仕事と研究を続けることができました。
3年の間に、規定の紀要論文5本、学科12単位のために小論文10篇を書き、4回の中間発表会。最終論文提出は2010年10月28日。12月の最終口頭試問を終えて、2011年1月30日に博論正本を提出。2011年2月、審査委員会の審議を通過しました。
晴れの式ですが、すべて自粛ムードとなったのもやむを得ません。大切な人を失ってしまった人も、家族の安否がわからない人も、大勢いるなか、お祝い事によろこぶ気持ちも晴れ晴れというわけにはいきません。
私にとっての晴れのお祝いは、博士号を手にしての祝賀会でよりも、故郷の両親と姉の墓前で「お母さん、私、博士になりました」と報告したことです。2月27日、母の命日に墓参りしたおりに報告できました。
<つづく>
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2011年03月28日
ぽかぽか春庭「母への報告」
2011/03/28
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年3月>必ず春は来る(2)母への報告
2月27日は母の命日です。
27日朝東京を発って群馬へ帰郷。故郷のお寺へお墓参りに行ってきました。毎年寒さが続くころなので、お墓参りも「今回はパス」と省略してしまう年も多かったのですが、今年は2月25日には春一番も吹いたし、温泉にも入りたいし、両親への報告もあるので、出かけてきました。
墓前に、母が私に望んだことをひとつ達成できた、と報告しました。
「お母さん、お父さん、私はハカセになりました」
3月25日の博士号授与式の一ヶ月前ではありましたが、報告できてよかった。2月末はまだ寒いので、学位授与式のあと春休み中に帰郷するという案もあったのですが、そうしていたら、震災後の交通混乱によって両親への報告は当分できないことになっていたでしょうから。
父は、私が本ばかり読んでいると「目が悪くなる。女の子がメガネをかけると嫁のもらい手が減る」と心配しましたが、母は私の本好きを応援してくれていました。母は「そんなに本が好きなら、本を書く人になったらいいよ。作家になればいい。それとも勉強して、学者になってハカセになるかい」と、私に勧めました。
私は3、4歳のころ、姉が絵本を読み聞かせしてもらっているのを隣で聞いていて、ひとりでに字を覚え、本が読めるようになりました。母は苦しい家計からも本だけは、やりくりして毎月の子供雑誌のほか童話集などを買ってくれました。お気に入りはアンデルセンとラングでした。
私が縁側でおやつを食べながら本を読んでいると、母方の祖母は「私のおっかさんを育てた中郷のひい爺さんは、いっつも本を読んでいる人だったそうだよ」と昔話をしました。幕末か明治初期にさかのぼるころの話です。私の祖母の母親は早くに親を亡くしたため、じいさまに育てられました。そのじいさま(私の祖母の曾祖父)は、お百姓ながら本が大好き。しかし、百姓に座って本を読む時間など与えられず、本が読めるのは畑や田んぼへの行き帰りに大きな籠を背負って歩きながら読むか、食事をしながら目を本に注ぐかしかなく、「中郷のひい爺さまは、いつも食べながら読んでいたそうだ」と話していました。
私が本から目を離すことができずに、おやつの饅頭などを口に入れたまま読むのを「行儀が悪い」と父に叱られると、祖母はこの「食べながら読んでいたじいさま」の話をしてかばってくれました。母も、「本を読むのをやめられないのは、5代前のおじいさんからの遺伝だからしかたがない、と言っていました。母も本を読むのをやめられずにいて、鍋を焦げつかせることがありました。
母自身も本が大好きでしたが、自分の本を買うのは「婦人公論」を定期購読していたくらいで、単行本は市立図書館で借りていました。私も市立図書館が利用できる4年生になると、小学校の図書館のほか市立図書館へも自転車で行くようになりました。
アンデルセンの童話が大好きだった小学校1年生のころ、「大きくなったらアンデルセンになる」と言っていました。自分のノートに幼い文字で自作の童話を書き続け、母は私が童話を書くのをたいそう楽しみにして読んでいました。
私が大学3年生のとき、母は医者の誤診のせいで亡くなりました。私は生きる気力を失って、もう何にもなりたいものなんて無くなりました。
大学卒業後、父が「女が仕事を持つなら、教師が一番無難だろう」というので、父がそう言うなら教師がいいのだろうと中学校国語教師になりました。国語教師なら本を読む時間がとれるのではないかと思ったのですが、好きな本など読む時間がとれないほど、日々ただただ忙しい勤務の3年間でした。
父は私に「無難な人生」を望んで、私はそれに応えようと思いながら応えられず、平穏無事な人生からは外れてしまいました。単身ケニアに行ったことや、ナイロビで出会った元地方新聞の記者、その後はずっと収入が不安定な男との結婚、父には不安なことばかりだったでしょうが、天国の母ならわかってくれると信じて、私は突っ走ってきました。
母が私に望んだことは、私が生き生きと人生に立ち向かい、自分自身を貫いていくことだったと思います。
墓参りのあと、妹一家と温泉に行きました。市内には伊香保温泉石段の湯、赤城温泉天地の湯、白井温泉こもちの湯など、各地区ごとに日帰り温泉があります。今回は吾妻川のほとりにある「小野上温泉さちの湯」に入りました。
妹、姪、姪の次男(1歳半)と露天風呂につかりました。男湯には妹の亭主、姪の亭主、姪の長男が入っています。
故郷はまだ春浅い。白梅紅梅は行き帰りの車の中からきれいに咲いているのが見えましたが、2月28日帰京する電車に乗る頃にはみぞれがふりました。待合室で耳にする故郷なまりのおしゃべりはあたたかかったですが、電車を待つホームは吹きさらし。風邪は東京に戻ってから発症しました。
<つづく>
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2011年03月29日
ぽかぽか春庭「母への誓い」
2011/03/29
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年3月>必ず春は来る(3)母への誓い
母の命日。2月27日。お墓にお花やお線香を供え、妹の孫ふたりが小さな手を合わせて、ママに言われた通りに「なむ~」と言っています。上は5歳。下は1歳半。上の子は仮面ライダーカブトの大ファンで下の子はアンパンマンに夢中。
妹は、孫息子ふたりにメロメロで、下の子が人見知り最盛期でママにしか抱かれたがらないのをやきもきしています。「バアバに抱っこしよう」と誘っても「カーチャン」と言われて振られてしまい、「もう!」と、怒っています。
私の母は55歳で、孫をひとりも見ることなく死んでしまいました。死の間際にも、結婚して1年ほどの姉に「赤ちゃんは?」と、尋ねていたそうです。「あのとき、嘘でもいいから赤ちゃんができたよって言っておけばよかった」と、姉は悔やんでいました。
こうして墓前にひ孫が手を合わせているのですから、きっと千の風に吹かれながらも喜んでいることでしょう。私の両親にとって、孫は6人、ひ孫も6人になっています。
母は農家の出身だったので、町場の会社員と結婚したことを周囲からうらやましがられていたのですが、母自身は本当は看護師さんになりたかったようです。母が結婚前、行儀作法などを仕込んで貰うため「行儀見習い」(という名目の女中奉公)に行ったという話を伯母から聞いたことがありました。奉公先の医院からは、何をするにも覚えの早い母を見込んで「看護婦」の勉強をさせたいと申し入れがあったそうです。しかし、母の父親は「女は嫁に行け」という方針。親にさからえず、見合い結婚しました。
母は、「自分の腕を頼りに一人で生きていく自立した女性」にあこがれながら、「子を持って母として生きる人生」以外に、選択肢がなかった。自分ではかなえられなかった「自立した人生」を娘達には望んでいたのです。「手に職をつけよ」というのが、母の願いでした。父は「女性は結婚して子育てをするのが最も幸福な人生」と思っていたので、女性が仕事を持つことに積極的ではありませんでした。父と同居した末の妹は、出産を期に会社を退職し、以来NPOなどの仕事をするほかは専業主婦&パート主婦でした。父にとっては末娘が安定した結婚生活を過ごしたことで安心できたことでしょう。
姉は母より若い54歳で亡くなりました。孫4人を得て、孫達の生い立ちに心残りもあったでしょうが、「私は十分に自分の人生を生ききった。自分の生きてきた道に何一つ悔いはない。満足している」と言って死にました。2度結婚して2度離婚し、2人の娘と2度目の相手の連れ子の世話もし、美容院を経営してお客さんに慕われていました。きっちり自立して生き、4人の孫をかわいがっていました。
姉は高校卒業後、専門学校に進学して美容師となり、管理美容師の資格もとりました。2度離婚したので、父が願うような「穏やかな女の幸せ」とは違ったかも知れませんが、手に職をつけたおかげで「イヤだと思ったら我慢せずにさっさと離婚を決意できた」と言っていました。姉は姉で、54年という短いものではあったけれど、自分の人生を精一杯生き、全うしたのです。
最後の日を迎えたとき、私も姉のように、自分の人生に誇りと満足を持って死にたいと願っています。
世間様からは「今時、ハカセ号がなんぼのもんじゃい」と思われるのはわかっているけれど、私は何のためでもなく、ただ、母に会えたとき胸を張って、「自分は自分に与えられた時間を生ききった」と言うために頑張ったのです。博士号に何の実利がなくとも、私自身が「母の前で恥ずかしくない自分でいたい。精一杯自分の時間を自分のために使った」と言うために、この3年間、博士論文と格闘したのです。
博士号をとったからといって大学非常勤講師の時給が上がるわけでもなく、イマドキ博士号を持っていても何の役にもたたないのは承知で、2008年4月から3年間大学院博士後期課程で研究を続けました。
女の細腕で稼ぎ、娘と息子を育てたこと、博士号を得たこと。私は自分に与えられた時間を真摯に生きてきました。週5日月曜日から金曜日まで働き、土日は洗濯や茶碗洗いと翌週の仕事の準備。金曜日夜にはジャズダンスの練習。毎日ブログを更新。
部屋の掃除は思いっきり手抜きだし、人とのつきあいも省略していて、十分でない部分も多々あることは承知ですが、母は「よく頑張りました」と言ってくれるのではないかと思っています。
「お母さんの分まで長生きして、もっともっとがんばるからね」と、母に誓いました。
<つづく>
春庭にお祝いのメッセージを寄せていただき、ありがとうございます。大学院修了生主宰の祝賀会が中止になったのですが、ウェブ友の皆様に祝っていただき、「ウェブ依存症(by むすめの春庭評)」の私になによりのこととうれしく思っております。
09:16 コメント(4) ページのトップへ
2011年03月30日
ぽかぽか春庭「息子の卒業式」
2011/03/30
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年3月>必ず春は来る(4)息子の卒業式(再掲載)
3月の卒業式。関東東北地方の多くの大学で中止になりました。卒業生にとっては旅立ちの春に晴れ晴れと式に参加できなかったことは残念でしょうが、その気持ちは4月から社会に貢献することで生かしていってほしいと思います。
3月15日、息子の大学卒業式も、予断を許さない原発への不安と計画輪番制停電の実施の影響で卒業式は中止。「卒業証書配布」だけが実施されました。
私は息子の入学式のときには行けなかったので、「あんたが来るなって言っても、卒業式には行くからね」と、息子には言っていたので、卒業式中止はなんとも残念でした。
息子は文学部総代に選ばれたと連絡があり、代表として卒業証書を受け取ることになっていたのです。また、4年間のトータル成績優秀者として表彰され、記念品を授与されることになっていました。
14日になって、「卒業式は中止になるけれど、会議室での博士号授与式のあと、卒業生総代には卒業証書授与があるので、出席してください」という連絡を受けました。せっかくの博士号授与式なのに、地震後の交通状況で新博士にも欠席者が何人もいました。
息子は文学部総代として名を呼ばれ、学長から証書を渡されました。
4年前、2007年4月は私は中国に赴任中で、入学式には行けませんでした。息子が入学したのかどうかもわかりませんでした。
センター試験を受けるときの息子が出した条件は「センター試験の成績のみで合否判断する大学の、史学を学べるところに願書を出す」「もし、合格通知が来ても、入学するかどうかの判断は本人に任せる。母は絶対に、あの大学がいいとか、ここへ入れとか言わないこと。どこにも入学しないという決断をしても文句いわないこと」という条項でした。
高校1年2学期から学校には行かず、翌年夏に文科省の高校卒業資格認定試験に合格すると退学届けを出しました。昼夜逆転生活でゲーム三昧の引きこもり生活を2年半続けての大学入試でしたから、とにかく試験を受ける気になっただけでもよしとして、「入学したくなかったら入学しなくてもよいから」ということで、ようようセンター試験を受けました。
学校授業をきちんと受けたのは中学2年までで、英語では点数はとれるはずもなく、引きこもり中、戦国シュミレーションゲームのために読んだ歴史書の読解力だけが頼り。国語と日本史の成績だけでの勝負でした。
合格通知を都内の2校から受け取り、どちらに入るのかもわからないまま、私は中国へ単身赴任で出国してしまいました。果たして入学する気が起きるのかどうか、心配もつのりましたが、息子が自分で判断でき、よかったと思います。半年の中国赴任を終えて帰宅すると、息子は大学生になっていました。
家から自転車で15分のところにある大学なので、息子は風邪をひいたときと、大学がはしかの流行で封鎖になったとき以外はほぼ無欠席で、精勤賞もの。大学に精勤賞はなかったけれど、成績優秀者として表彰されました。
2月半ばごろ。息子が「母は、今何か買いたい物があるかい」と聞いてきました。「誕生日のお祝いとか母の日のプレゼントは、いっしょに旅行に行くこととか、いっしょに食事にでかけるのがいいって母はいうけれど、今回のはそういうのはダメなんだ。時計とか万年筆とか、物として買えるものじゃないとダメだから、何がほしいか考えといて。予算はきっちり3万円」と、言うのです。
でも、私は服もバッグも興味がない。何も考えないでいたら、「もう、プレゼントの締め切り日だから、なんでもいいから欲しい物言って。そうじゃないともらえなくなる」と、締め切りが迫ってようやく、どうして予算3万円なのか話してくれました。成績優秀者として表彰されるにつき、副賞として3万円相当の記念品が贈られる。その品は万年筆とか時計などの「記念品っぽい」ものがよいと言うのです。その記念品は母へのプレゼントにするから、母の好きな物を言わなくちゃだめなんだ、という説明でした。
そういうことならと、ネットであれこれ検索し、一番「記念品っぽい」ものとして時計を選びました。自分が稼いだ成績で、自分が貰うはずの記念品なのに、それを「母にあげる」という。「はじめての親孝行」?
いいえ、親孝行は、生まれてきてくれたことです。予定日の40日前の早産で、帝王切開で生まれたときは仮死状態。生後3日間は生死さえわかりませんでした。また、乳児検診では仮死状態で脳内に酸素が行かなかったことの影響がどれほど出てくるかわからないので、成長過程でどんな身体的知能的な障害がでるかわからないと言われました。その子が、こうして生きていてくれるのですから、それだけで大きな親孝行です。
息子、3月中、初めて「お他所」でのアルバイトをしました。これまでは夫の自営する事務所での校正の手伝いなどでしたから、アルバイトといっても「人様の釜の飯を食う」修行にはなっていませんでした。今回も在籍している大学での「学生スタッフ」というアルバイトですから完全には「人様の釜の飯」ではありませんけれど、人間関係が苦手な息子なので、他所で勤まるのかと案じていました。
仕事は「一日中パソコン使う仕事」だったそうで、息子は「人には疲れるけれどパソコンには別段疲れない」と言うのです。家にいたって、一日中パソコンゲームしている息子ですから、そうか、こういう仕事があるなら、なんとか生きて行けそうだという見通しもついて、ほっとしました。
しかし、この身の丈にあったアルバイトも計画停電の影響で短縮され、あまり稼げない見通し。余震に驚いておきた23日も。体調も万全ではないので、「風邪が治りきっていないのだから、電話して仕事を休んでもいいんじゃないの?」と言ってみたのですが、息子は「行くと約束したから行く」と、いつもの自転車で出かけていきました。
4月からは大学院生。史学研究の道に進みます。どういう未来が待っているのかわからないけれど、とにかく、生きているだけで親孝行!です。
我が子が生きていてくれることの幸運を思えば、家族を失った人々の悲しみがよりいっそう身に染みます。
ただ祈り続けています。
<おわり>
mackychanさん、conparu さん、コメントをありがとうございました。「息子の卒業式」は3/30に再掲載しました。
08:52 コメント(2) ページのトップへ
2011年03月31日
ぽかぽか春庭「アトムさん無事」
2011/03/31
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年3月>必ず春は来る(5)アトムさん無事!
3月11日以後、ずっと心配を続けていた三陸の漁師アトムさん。
避難者名簿にもお名前がなく、お知り合いの方からの安否情報を求める文がヤフー質問箱その他に載せられているのに、まったく情報が入らないので、案じていました。
今夜、アトムさんご本人からメールが届きました。外洋の遠洋漁業に携わっていたのだそうで、ご家族も無事との連絡をいただき、ほんとうに嬉しく、震災以後、被災者のことや原発のことなどでずっと心が晴れ晴れしない気持ちになっていたのが、春の日差しがさすような温かい気持ちになりました。
わが家の片付けは遅々として進みませんが、それでも今日は浴槽に投げ入れてあった本の片付けをして、3週間ぶりにお湯につかりました。
もっと早く片付けをすれば早くにお風呂にも入れた環境です。私の区はガスも電気も滞りなくインフラの不自由はない地区なので。でも、避難所にいる方々は、お風呂に入るのも不自由をなさっているという記事を見て、わが家は3週間いっさいの暖房を使わず、お風呂もシャワーを5分ほど浴びるだけで済ませてきました。
我慢大会のようなことをしていて何か被災者の役に立つのかと言われれば、わが家が家の中でダウンコートを着込んで過ごすことに意味がないのかもしれませんが、これは一種の祈りのような気持ちです。私だけがぬくぬくと豊かさを満喫するような生活はしない、避難所の人々とまったく同じにはできないけれど、少しでも不自由さを共有することで共感の気持ちを表したかった。水のペットボトルもトイレットペーパーも買わなかった。トイレットペーパーは生協の買い置き品があったから不自由はありませんでしたが、牛乳が買えないのは困りました。わが家の息子、マサイ族の人々のように主な栄養源は牛乳という偏食家なので。
そんなこんなの不自由はありましたが、それくらいのことは何のその。アトムさんからの「無事」メールで、4月のさくらを心待ちにする気分が出てきました。
避難所のみなさん、花咲く日を待ちましょう。
<おわり>