2008/03/30
ぽかぽか春庭・東京徘徊俳諧日記>肥後の匠(1)鍔師・林又七
建物の設計士の名が後世に残るのに比べて、職人たち左官や大工の名が建築に残されることは、ほとんどありません。
6世紀から続く世界最古の会社組織である宮大工・金剛組でも、統領の名は伝わるでしょうが、その他の職人の名は、私たちは知らないほうが多い。
江戸時代の職人の中で、私でも名前を知っているのは、日光の三猿像を彫刻したという言い伝えのある「左甚五郎」くらいのものですが、この人も伝説上の人なのか、実在の職人なのか、定かではありません。
現代の工芸作家、一家を成し人間国宝・無形文化財ともなれば名が残されます。あるいは「日展入選」などと箔がつけば、作品の値段が跳ね上がり、もはや職人ではなく、美術工芸家先生となる。
しかし、無名のままもくもくと仕事を続ける職人も多い。
たとえ作者名が残されていなくても、職人たちが一心に技を磨いて仕上げた作品に出会ったときは、心ふるえます。作者がだれとか、勲章があるとか、そんなことは作品を見るときには、何の関係もない。ただ、そこにある作品と自分の心が向かい合う瞬間があるばかり。
私は、今は日本語教師であるけれど、かって国語科教師であったから、教科書に採択された『肥後の石工』を読んできた。
肥後熊本に今も残る石造りの通水橋「通潤橋」そのほかの石橋を作り上げた石工たち。
創始者藤原林七、その孫橋本勘五郎(丈八)、林七の直弟子岩永三五郎。
名が残る人もいれば、黙々と石を刻み積み上げた無名の石工たちもいた。
肥後の匠たち。石工だけではない。鍔師、林又七。
無名ではないけれど、私は今まで知らなかった。
肥後熊本藩お抱えの鍔師(つばし=刀の鍔をこしらえる金工職人)林又七(1613-1699)
多くのすぐれた鍔や象嵌鉄砲の作品を残しました。
私が感銘を受けたのは、文京区にある永青文庫所蔵の重要文化財「破扇桜象嵌鍔(はせんさくらぞうがんつば」と「九曜紋象嵌鉄砲(くようもんぞうがんてっぽう)」のふたつ。
職人の見事な技。
戦国が終わり、江戸時代になると、武器は戦う道具としてより「民を守る者の精神」を象徴する「神器」のような扱いになってきました。鉄砲も例外ではありません。
各地の大名たちは、鉄砲を美しく仕立てて飾りました。
肥後熊本藩の鉄砲。
刀の鍔に象嵌をほどこす鍔職人だった林又七は、鉄砲にもさまざまな意匠の象嵌をほどこし、武器を美しい芸術品に変えました。
「九曜紋象嵌鉄砲」は、長い砲身に九曜紋が象嵌されています。
九曜紋は、「細川九曜」といわれるデザインで、大きな黒丸を8つの小さな黒丸が取り囲んでいます。それが砲身にいくつも並んでいます。
美しいです。
本日の徘徊俳諧
鉄砲の象嵌の美や受難節
<つづく>
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2008年03月31日
ぽかぽか春庭「破扇象嵌の鍔」
2008/03/31
ぽかぽか春庭・東京徘徊俳諧日記>肥後の匠(2)破扇象嵌の鍔
刀の鍔。
国立東京博物館などで、鍔の象嵌も多く目にしてきて、さまざまなアイディアの図案に目をみはってきました。武器である刀の鍔に、思い思いのデザインを施して腰に差して歩いた江戸の武士。
刀を武器として振り回すことが必要なくなった世の中にあって、刀は鍔や鞘に美しい細工をほどこし、「武士(もののふ)の魂」の象徴として、腰にあったのでした。
今回、林又七の鍔の意匠に強くひきつけられました。
重要文化財「破扇桜文象嵌鍔」、永青文庫所蔵。
五弁の桜が裏表に一つずつ。破れた扇子がふたつずつ。
扇子は、日本の発明品として、中国へまた遠く欧州へも伝えられました。
折り畳み式でないうちわのような扇は中国やヨーロッパにありましたが、折り畳み式を発明したのは日本だということは、あまり世界に知られていません。
室町期には、日本の重要な輸出品でもありました。
扇子をモチーフにした意匠デザイン、さまざまにあります。
「扇面散らし」は、着物や屏風のデザインの定番になっていますし、日本画にもよく描かれます。
しかし、「破れた扇」がこれほど美しくデザインされているのを見たのははじめてでした。
「破れている」のです。ぼろぼろの扇子です。
「滅びの美」は、芸術のモチーフのひとつです。歴史や時の流れに身をひたす、古来からの美の感受性です。
欧州にも、ギリシャやローマの廃墟遺跡を尊ぶ気風がありました。漢詩にも廃墟となった町や楼閣を読んだ詩があります。
しかし、日本の扇子が輸出された中国や欧州に、「破れた扇子」をモチーフにした芸術品が生み出されることがあったでしょうか。
壊れたもの、破れたものに「美」を見いだすこころ、、、、
「平家」にしても、「太平記」にしても、「盛者必衰のことわり」「諸行無常」の仏教観が色濃く反映し、滅びていく者たちを哀惜する感性が、美となって表れています。
でも、これほど直裁に「破れた扇子」が見事な精神的な奥行きを持って現前したのを、私は見たことがなかった。
観念ではなく、実際に目に見える意匠として、「破れること滅びること」が目の前にあり、言葉にならない美を描いている。ただ、美しい。
又七の仕事を見て、職人の技と誇りを、また、まざまざと目に残すことができました。
永青文庫に所蔵されている8点の国宝のうち、今回見ることができたのは、「細川ミラー」と通称されている「国宝・金銀錯狩猟文鏡」。
中国戦国時代に作られた非常に美しい文様の鏡。河南省洛陽市郊外、金村古墳群出土。
この鏡の文様をそっくり復元した高野松山の狩猟文鏡箱が、また見事な作でした。
本日の徘徊俳諧
鍔にある桜に破扇の諸行無常
次回より、永青文庫、旧細川侯爵邸、和敬塾の徘徊記。
趣味のひとつ「東京に残る近代建築」の散歩記録です。
<おわり>
2008/04/01
ぽかぽか春庭・東京徘徊俳諧日記>殿様の博物館(1)和敬塾本館と村上春樹の蛍
春の春庭俳諧徘徊。
今回、はじめての旧細川侯爵邸めぐりをしました。
肥後の殿様細川護煕が首相になったりして、熊本について見聞きする内容はふえてきましたが、これまで永青文庫や和敬塾を訪れたことはなかった。
巡ったところは3カ所。
1)和敬塾本館(旧細川侯爵邸) 2)永青文庫(旧細川邸事務所) 3)新江戸川橋公園(旧細川邸庭園)
「旧細川侯爵邸」は「和敬塾本館」として保存されています。
台東区の旧岩崎邸、目黒区の旧前田邸、北区の旧古河邸などには何度も足を運んで内部の見学もできたが、細川邸はこれまで見たことがなかった。
旧細川侯爵邸は、1936年に細川家第16代当主・細川護立(ほそかわ・もりたつ 1883-1970)によって建てられた洋館です。
今回は外観だけの見学。
内部は、年に10回ほど一般公開されています。夏休みの公開時に申し込みをして、またこようと思います。
http://maskweb.jp/b_wakei_1_1.html
和敬塾は、地方から東京の大学に進学してくる男子学生のための寮です。書類審査面接審査によって学生を厳選し、「良家子弟」を入寮させることで有名。
かっては「知る人ぞ知る」存在の寮でした。
30余年前、私自身が学生のとき、学校の近くにあるにもかかわらず、まったくその存在を知らなかった、庶民には無縁の寮でした。
村上春樹が「ノルエーの森」のなかにこの寮を描写したことで、「ノルエーの森にでてくる学生寮のモデル」として知る人も増えてきました。
私もたぶん、「ノルエーの森で主人公が歩く土地を追跡散歩しよう」というような「東京散歩本」の中で知ったのだと思います。
村上春樹は、早大進学後から秋まで入寮していましたが、塾の雰囲気に合わずに退寮。
春樹は、「芦屋のエエシのボン」だから、入寮できましたが、私が息子のために申し込みをしたとしても、入れてもらえない。「しかるべき家庭」じゃないから。
敷地内には「関係者以外立ち入り禁止」と書いてあったが、勝手に庭を歩きました。
細川邸下屋敷時代からの大木がうっそうと茂っている庭。
春休みでも、何人かの学生は残っています。
その学生たち、「こんにちは」と、挨拶してくれる。
なんと礼儀正しい気持ちのよい青年たちであることよ。私は「敷地内勝手に乱入の不審者」であるのに。
さすが、「全国から地方有力者の息子を集める」と言われる和敬塾、エエシの坊ちゃんは、我等シモジモとはしつけが違いマッセ、と、感心しましたが、「塾内で出会うときは、誰に対しても必ずこんにちはと言う」のが、寮のルールでした。
これを守らない新入生などは、先輩からこんこんと「塾生精神」をたたき込まれるらしい。
塾生たち、あるグループはデジタルビデオで撮影をしている。自主制作映画グループでしょうか。
あるグループは、寄り集まって談笑している。春風のここちよい日だまり。
「この寮に、うちとこの息子は入れてもらえない」というひがみ半分で塾内を歩いていましたが、気持ちのよい挨拶をうけて、みみっちいヒガミもおさまってきました。
若々しいつぼみたちよ、存分に花開くがよい。
桜さくのも、もうすぐという3月16日の徘徊でした。
本日の徘徊俳諧
和敬塾の青年の声風光る
<つづく>
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2008年04月02日
ぽかぽか春庭「永青文庫」
2008/04/02
ぽかぽか春庭・東京徘徊俳諧日記>殿様の博物館(2)永青文庫
「永青文庫」は、細川護立の収集したコレクションをはじめ、細川家700年の歴史的な資料宝物を展示しています。
東京に住むこと合計四半世紀になるのに、はじめて観覧しました。
細川家は、初代の細川藤孝(幽斎)2代忠興(三斎)3代忠利(母はガラシャ)と、武将でありながら文人としても才能を発揮した家。
明治以降も「美術の殿様」と呼ばれた細川護立侯爵はじめ、熊本県知事から首相になった細川護煕まで、芸術肌の人を輩出しています。細川護煕は、護立の孫。現在は陶芸家として一家をなすようになっています。
細川護立(1883-1979)は、肥後の殿様16代目。
学習院時代の同級生であった武者小路実篤、志賀直哉らと親しく、パトロンとして、多くの芸術家・学者を援助しました。
護立は、細川家代々の財物が四散しないよう、財団法人を設立して、歴史資料、美術品を「永青文庫」として保存することにしました。
彼の言ったという有名な冗談があります。
護立「細川家にはもっとよい宝物がたくさんあったのに、この前の戦争で大半焼けてしまって、惜しいことをした」
記者「え?太平洋戦争の空襲ですか」
護立の返事「先祖が京都に屋敷を構えていた頃のことですから、この前の戦争と言ったら、応仁の乱ですよ」
これ以来、京都にふるくから住んでいる家は、皆これにならって言う。「いやぁ、うちとこには、ご先祖のええもんぎょうさんあったのに、この前の戦争で焼けてしまいまして。ええ、応仁の乱で」
永青文庫は、1973年から博物館として一般に公開されています。
今回私が見たのは、「鴎外・漱石と肥後熊本の先哲たち」という展示。
森鴎外(1862~1922)は、熊本藩の殉死事件に取材した「阿部一族」を執筆しました。
事件の概要を報じた熊本藩の古記録が展示されていました。
鴎外自身の筆は、オペラ「オルフェウス」の訳稿が展示されていました。ついに上演されることはなかったグルック作曲のオペラの鴎外訳本、興味深かった。
横書きに丁寧に筆記されたドイツ語の脇に、朱筆で縦書きに和訳が書き込まれています。
現代なら、横書き欧文に並べて日本語も横書きするところですが、鴎外の美意識では、日本語を横書きにすることをよしとしなかったのかもしれません。
詩人木下木太郎が書いたこのオペラについての解説と、細川護立の「この稿を買い求めたいきさつ」解説文がついていました。
本日の徘徊俳諧
ユリディスのあと追うオルフェの夢春暁
<つづく>
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2008年04月03日
ぽかぽか春庭「漱石の『野分』自筆原稿」
2008/04/03
ぽかぽか春庭・東京徘徊俳諧日記>殿様の博物館(3)漱石の「野分」自筆原稿
「鴎外・漱石と肥後熊本の先哲たち」展示のなか、漱石の原稿は「野分」の手書き草稿完全版。
高浜虚子の解説文によると、「漱石先生の原稿は、校了すると廃棄していた。何故この草稿だけ残されていたのかわからない」と述べています。
どうりで、「漱石展」などに出かけても、手書き草稿展示が少ないと思っていました。手紙類は、書き損じはがき反古のたぐいまで収集されているのに。
手紙はもらった相手が大切に保存したから残されたけれど、小説原稿は虚子がせっせと廃棄していた、、、、
漱石の方針で、そう指示されていたのか「自筆原稿廃棄処分」とは、虚子ももったいないことをしたもんだ。
高浜虚子が原稿の最初に「夏目嗽石」と著者名を書き込んでいる。現行の「漱石」ではなく、口偏をつけた「嗽」の字になっています。
漱石もずいぶんと異体字や当て字を用いる人だったが、弟子も師匠の名前の文字を「どっちでも同じ」と、書き込んだらしい。
こんなことも、印刷本ではわからない、自筆原稿だからこその、貴重な手書き文字です。
明治のジャーナリスト、朝日新聞記者池辺三山(1864-1912)の般若心経写経も展示されていました。池辺は、漱石を朝日に入社させ、新聞小説を書かせた人でもある。
池辺三山以上に有名な明治のジャーナリスト徳富蘇峰(1863-1957)が、細川護立あてに書いた手紙の要旨は、以下のような内容。
「侯爵閣下が自著をお求めだというので、名誉に思ってお送りしたところ、執事がきちんと本の代金をおくってきた。お金を受け取るつもりで送ったのではないのに、恐縮している。いただいたお金は、人の役にたつ資料を買うのに用立てる」
という礼状でした。
一冊の本にもきちんと代金を支払う護立の「コレクション方針」がわかるエピソードです。
徳富蘇峰は、代表的な「肥後もっこす(頑固一徹、無骨、反骨)」といわれますが、殿様護立も、そうとう頑固におのれの「美学」を守って生きたのだろうと思います。
永青文庫の建物は、旧細川侯爵邸の家政所(事務所)であったところ。
2階の応接室のソファは往時のままの雰囲気で、雑誌「和楽」に、細川護煕(現在の永青文庫理事長)がこの部屋でくつろぐ写真などが掲載されていました。
2008年4月に、熊本県立博物館に細川コレクション永青文庫展示室がにオープンします。熊本城内の一角にある展示室で、永青文庫の所蔵品が、展示替えをしつつ見ることができるようになりました。
熊本のみなさん、ぜひ足をお運びください。お宅の宝物は、応仁の乱だか西南の役だかのとき焼けてしまったことでしょうが、永青文庫には、まだまだオタカラが残っています。
本日の徘徊俳諧
春の城 肥後もっこすの筆の反古
<つづく>
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2008年04月04日
ぽかぽか春庭「新江戸川公園」
2008/04/04
ぽかぽか春庭・東京徘徊俳諧日記>殿様の博物館(4)新江戸川公園
3月16日日曜日は、4月中旬の陽気というポカポカの日でした。
神田川沿いの江戸川公園のなか、川沿いに植えられている桜は、もう花芽がはち切れそうにふくらんでいました。
地下鉄江戸川橋駅から江戸川公園を抜け、椿山荘冠木門を通りすぎ、新江戸川公園まで歩きました。
文京区が管理し整備している新江戸川公園は、肥後熊本藩の下屋敷だったところ。
7000坪の下屋敷が、現在は公園、永青文庫、和敬塾の3カ所に分かれています。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~tokyo-sanpo/36.htm
公園内は、大名庭園の雰囲気をよく残す回遊式庭園で、神田川に面する低地から、旧細川邸のある高台まで、上下差を利用した回遊式になっています。
東京は台地と低地が入り組んだ地形であり、高低の地形を上下する階段や坂道が都市景観の特徴にもなっています。
http://www.city.bunkyo.lg.jp/sosiki_busyo_kouen_annai_kuritukouen_kouen_shinedogawa.html
園内は、梅や白木蓮・紫木蓮が満開でした。
ぽかぽか陽気のすっきり青い空には、白い半月がみえます。
川沿い低地から台地へ昇る斜面に、夏蜜柑の木が実をたわわにつけていました。
高く放りあげられた鞠が、いくつもいくつも木にひっかかって、木の中でまりつき遊びをして跳ねているようにきらきらとざわめきながら、黄金色に輝いています。
夏みかんというから、夏の季語かと思っていたのに、白い「夏みかんの花」は夏の季語ですが、実は秋に熟し、冬から春まで実は樹上に残され、市場にでるのは春から初夏。
私が持っている歳時記には「春」の部に「夏みかん」が登載されています。小春日和が晩秋から初冬の季語であるのと並び、「入試用引っかけ問題、季語」になりそうです。
本日の徘徊俳諧①
春の昼 黄金(きん)の実樹上に 白き月
♪あんたがたどこさ、ヒゴさ、肥後どこさ、熊本さ~
という手まり歌、「さ」のところで、まりを高く放りなげて受け止めたり、まりの前でくるりと回ったり、足の下にまりを通したり、いろいろなワザを見せるのが「まりつき」の楽しさでした。
まりつきをして遊んだ子供のころには「ヒゴ」「熊本」がどこにあるのかも知りませんでした。
これまでに、一度だけ肥後熊本に行ったことがあります。
「劇団野ばら」の役者として、北九州一円の小学校体育館を回って「児童のためのミュージカル」を演じてすごしたとき。
福岡佐賀が中心の公演でしたが、熊本での公演が一回だけありました。
公演地の学校乗り入れ、舞台設営、公演、舞台バラシ、次の公演地へ。というスケジュールでしたから、たった一日の熊本公演も、バスのなかから熊本城を見ただけでした。
熊本の街の印象もほとんど残っていないのだけれど、もう一度ゆっくり滞在してみたい町のひとつ。
いつか熊本を再訪できる日を楽しみに。
肥後の石工たちが築いた橋も、かってバスの中から見ただけの熊本城もゆっくり見て歩きたいです。
本日の徘徊俳諧②
老母(はは)の鞠 はずみて花芽のふくらみぬ
春愁や指細き子の手まり唄
<おわり>
ぽかぽか春庭・東京徘徊俳諧日記>肥後の匠(1)鍔師・林又七
建物の設計士の名が後世に残るのに比べて、職人たち左官や大工の名が建築に残されることは、ほとんどありません。
6世紀から続く世界最古の会社組織である宮大工・金剛組でも、統領の名は伝わるでしょうが、その他の職人の名は、私たちは知らないほうが多い。
江戸時代の職人の中で、私でも名前を知っているのは、日光の三猿像を彫刻したという言い伝えのある「左甚五郎」くらいのものですが、この人も伝説上の人なのか、実在の職人なのか、定かではありません。
現代の工芸作家、一家を成し人間国宝・無形文化財ともなれば名が残されます。あるいは「日展入選」などと箔がつけば、作品の値段が跳ね上がり、もはや職人ではなく、美術工芸家先生となる。
しかし、無名のままもくもくと仕事を続ける職人も多い。
たとえ作者名が残されていなくても、職人たちが一心に技を磨いて仕上げた作品に出会ったときは、心ふるえます。作者がだれとか、勲章があるとか、そんなことは作品を見るときには、何の関係もない。ただ、そこにある作品と自分の心が向かい合う瞬間があるばかり。
私は、今は日本語教師であるけれど、かって国語科教師であったから、教科書に採択された『肥後の石工』を読んできた。
肥後熊本に今も残る石造りの通水橋「通潤橋」そのほかの石橋を作り上げた石工たち。
創始者藤原林七、その孫橋本勘五郎(丈八)、林七の直弟子岩永三五郎。
名が残る人もいれば、黙々と石を刻み積み上げた無名の石工たちもいた。
肥後の匠たち。石工だけではない。鍔師、林又七。
無名ではないけれど、私は今まで知らなかった。
肥後熊本藩お抱えの鍔師(つばし=刀の鍔をこしらえる金工職人)林又七(1613-1699)
多くのすぐれた鍔や象嵌鉄砲の作品を残しました。
私が感銘を受けたのは、文京区にある永青文庫所蔵の重要文化財「破扇桜象嵌鍔(はせんさくらぞうがんつば」と「九曜紋象嵌鉄砲(くようもんぞうがんてっぽう)」のふたつ。
職人の見事な技。
戦国が終わり、江戸時代になると、武器は戦う道具としてより「民を守る者の精神」を象徴する「神器」のような扱いになってきました。鉄砲も例外ではありません。
各地の大名たちは、鉄砲を美しく仕立てて飾りました。
肥後熊本藩の鉄砲。
刀の鍔に象嵌をほどこす鍔職人だった林又七は、鉄砲にもさまざまな意匠の象嵌をほどこし、武器を美しい芸術品に変えました。
「九曜紋象嵌鉄砲」は、長い砲身に九曜紋が象嵌されています。
九曜紋は、「細川九曜」といわれるデザインで、大きな黒丸を8つの小さな黒丸が取り囲んでいます。それが砲身にいくつも並んでいます。
美しいです。
本日の徘徊俳諧
鉄砲の象嵌の美や受難節
<つづく>
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2008年03月31日
ぽかぽか春庭「破扇象嵌の鍔」
2008/03/31
ぽかぽか春庭・東京徘徊俳諧日記>肥後の匠(2)破扇象嵌の鍔
刀の鍔。
国立東京博物館などで、鍔の象嵌も多く目にしてきて、さまざまなアイディアの図案に目をみはってきました。武器である刀の鍔に、思い思いのデザインを施して腰に差して歩いた江戸の武士。
刀を武器として振り回すことが必要なくなった世の中にあって、刀は鍔や鞘に美しい細工をほどこし、「武士(もののふ)の魂」の象徴として、腰にあったのでした。
今回、林又七の鍔の意匠に強くひきつけられました。
重要文化財「破扇桜文象嵌鍔」、永青文庫所蔵。
五弁の桜が裏表に一つずつ。破れた扇子がふたつずつ。
扇子は、日本の発明品として、中国へまた遠く欧州へも伝えられました。
折り畳み式でないうちわのような扇は中国やヨーロッパにありましたが、折り畳み式を発明したのは日本だということは、あまり世界に知られていません。
室町期には、日本の重要な輸出品でもありました。
扇子をモチーフにした意匠デザイン、さまざまにあります。
「扇面散らし」は、着物や屏風のデザインの定番になっていますし、日本画にもよく描かれます。
しかし、「破れた扇」がこれほど美しくデザインされているのを見たのははじめてでした。
「破れている」のです。ぼろぼろの扇子です。
「滅びの美」は、芸術のモチーフのひとつです。歴史や時の流れに身をひたす、古来からの美の感受性です。
欧州にも、ギリシャやローマの廃墟遺跡を尊ぶ気風がありました。漢詩にも廃墟となった町や楼閣を読んだ詩があります。
しかし、日本の扇子が輸出された中国や欧州に、「破れた扇子」をモチーフにした芸術品が生み出されることがあったでしょうか。
壊れたもの、破れたものに「美」を見いだすこころ、、、、
「平家」にしても、「太平記」にしても、「盛者必衰のことわり」「諸行無常」の仏教観が色濃く反映し、滅びていく者たちを哀惜する感性が、美となって表れています。
でも、これほど直裁に「破れた扇子」が見事な精神的な奥行きを持って現前したのを、私は見たことがなかった。
観念ではなく、実際に目に見える意匠として、「破れること滅びること」が目の前にあり、言葉にならない美を描いている。ただ、美しい。
又七の仕事を見て、職人の技と誇りを、また、まざまざと目に残すことができました。
永青文庫に所蔵されている8点の国宝のうち、今回見ることができたのは、「細川ミラー」と通称されている「国宝・金銀錯狩猟文鏡」。
中国戦国時代に作られた非常に美しい文様の鏡。河南省洛陽市郊外、金村古墳群出土。
この鏡の文様をそっくり復元した高野松山の狩猟文鏡箱が、また見事な作でした。
本日の徘徊俳諧
鍔にある桜に破扇の諸行無常
次回より、永青文庫、旧細川侯爵邸、和敬塾の徘徊記。
趣味のひとつ「東京に残る近代建築」の散歩記録です。
<おわり>
2008/04/01
ぽかぽか春庭・東京徘徊俳諧日記>殿様の博物館(1)和敬塾本館と村上春樹の蛍
春の春庭俳諧徘徊。
今回、はじめての旧細川侯爵邸めぐりをしました。
肥後の殿様細川護煕が首相になったりして、熊本について見聞きする内容はふえてきましたが、これまで永青文庫や和敬塾を訪れたことはなかった。
巡ったところは3カ所。
1)和敬塾本館(旧細川侯爵邸) 2)永青文庫(旧細川邸事務所) 3)新江戸川橋公園(旧細川邸庭園)
「旧細川侯爵邸」は「和敬塾本館」として保存されています。
台東区の旧岩崎邸、目黒区の旧前田邸、北区の旧古河邸などには何度も足を運んで内部の見学もできたが、細川邸はこれまで見たことがなかった。
旧細川侯爵邸は、1936年に細川家第16代当主・細川護立(ほそかわ・もりたつ 1883-1970)によって建てられた洋館です。
今回は外観だけの見学。
内部は、年に10回ほど一般公開されています。夏休みの公開時に申し込みをして、またこようと思います。
http://maskweb.jp/b_wakei_1_1.html
和敬塾は、地方から東京の大学に進学してくる男子学生のための寮です。書類審査面接審査によって学生を厳選し、「良家子弟」を入寮させることで有名。
かっては「知る人ぞ知る」存在の寮でした。
30余年前、私自身が学生のとき、学校の近くにあるにもかかわらず、まったくその存在を知らなかった、庶民には無縁の寮でした。
村上春樹が「ノルエーの森」のなかにこの寮を描写したことで、「ノルエーの森にでてくる学生寮のモデル」として知る人も増えてきました。
私もたぶん、「ノルエーの森で主人公が歩く土地を追跡散歩しよう」というような「東京散歩本」の中で知ったのだと思います。
村上春樹は、早大進学後から秋まで入寮していましたが、塾の雰囲気に合わずに退寮。
春樹は、「芦屋のエエシのボン」だから、入寮できましたが、私が息子のために申し込みをしたとしても、入れてもらえない。「しかるべき家庭」じゃないから。
敷地内には「関係者以外立ち入り禁止」と書いてあったが、勝手に庭を歩きました。
細川邸下屋敷時代からの大木がうっそうと茂っている庭。
春休みでも、何人かの学生は残っています。
その学生たち、「こんにちは」と、挨拶してくれる。
なんと礼儀正しい気持ちのよい青年たちであることよ。私は「敷地内勝手に乱入の不審者」であるのに。
さすが、「全国から地方有力者の息子を集める」と言われる和敬塾、エエシの坊ちゃんは、我等シモジモとはしつけが違いマッセ、と、感心しましたが、「塾内で出会うときは、誰に対しても必ずこんにちはと言う」のが、寮のルールでした。
これを守らない新入生などは、先輩からこんこんと「塾生精神」をたたき込まれるらしい。
塾生たち、あるグループはデジタルビデオで撮影をしている。自主制作映画グループでしょうか。
あるグループは、寄り集まって談笑している。春風のここちよい日だまり。
「この寮に、うちとこの息子は入れてもらえない」というひがみ半分で塾内を歩いていましたが、気持ちのよい挨拶をうけて、みみっちいヒガミもおさまってきました。
若々しいつぼみたちよ、存分に花開くがよい。
桜さくのも、もうすぐという3月16日の徘徊でした。
本日の徘徊俳諧
和敬塾の青年の声風光る
<つづく>
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2008年04月02日
ぽかぽか春庭「永青文庫」
2008/04/02
ぽかぽか春庭・東京徘徊俳諧日記>殿様の博物館(2)永青文庫
「永青文庫」は、細川護立の収集したコレクションをはじめ、細川家700年の歴史的な資料宝物を展示しています。
東京に住むこと合計四半世紀になるのに、はじめて観覧しました。
細川家は、初代の細川藤孝(幽斎)2代忠興(三斎)3代忠利(母はガラシャ)と、武将でありながら文人としても才能を発揮した家。
明治以降も「美術の殿様」と呼ばれた細川護立侯爵はじめ、熊本県知事から首相になった細川護煕まで、芸術肌の人を輩出しています。細川護煕は、護立の孫。現在は陶芸家として一家をなすようになっています。
細川護立(1883-1979)は、肥後の殿様16代目。
学習院時代の同級生であった武者小路実篤、志賀直哉らと親しく、パトロンとして、多くの芸術家・学者を援助しました。
護立は、細川家代々の財物が四散しないよう、財団法人を設立して、歴史資料、美術品を「永青文庫」として保存することにしました。
彼の言ったという有名な冗談があります。
護立「細川家にはもっとよい宝物がたくさんあったのに、この前の戦争で大半焼けてしまって、惜しいことをした」
記者「え?太平洋戦争の空襲ですか」
護立の返事「先祖が京都に屋敷を構えていた頃のことですから、この前の戦争と言ったら、応仁の乱ですよ」
これ以来、京都にふるくから住んでいる家は、皆これにならって言う。「いやぁ、うちとこには、ご先祖のええもんぎょうさんあったのに、この前の戦争で焼けてしまいまして。ええ、応仁の乱で」
永青文庫は、1973年から博物館として一般に公開されています。
今回私が見たのは、「鴎外・漱石と肥後熊本の先哲たち」という展示。
森鴎外(1862~1922)は、熊本藩の殉死事件に取材した「阿部一族」を執筆しました。
事件の概要を報じた熊本藩の古記録が展示されていました。
鴎外自身の筆は、オペラ「オルフェウス」の訳稿が展示されていました。ついに上演されることはなかったグルック作曲のオペラの鴎外訳本、興味深かった。
横書きに丁寧に筆記されたドイツ語の脇に、朱筆で縦書きに和訳が書き込まれています。
現代なら、横書き欧文に並べて日本語も横書きするところですが、鴎外の美意識では、日本語を横書きにすることをよしとしなかったのかもしれません。
詩人木下木太郎が書いたこのオペラについての解説と、細川護立の「この稿を買い求めたいきさつ」解説文がついていました。
本日の徘徊俳諧
ユリディスのあと追うオルフェの夢春暁
<つづく>
05:30 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2008年04月03日
ぽかぽか春庭「漱石の『野分』自筆原稿」
2008/04/03
ぽかぽか春庭・東京徘徊俳諧日記>殿様の博物館(3)漱石の「野分」自筆原稿
「鴎外・漱石と肥後熊本の先哲たち」展示のなか、漱石の原稿は「野分」の手書き草稿完全版。
高浜虚子の解説文によると、「漱石先生の原稿は、校了すると廃棄していた。何故この草稿だけ残されていたのかわからない」と述べています。
どうりで、「漱石展」などに出かけても、手書き草稿展示が少ないと思っていました。手紙類は、書き損じはがき反古のたぐいまで収集されているのに。
手紙はもらった相手が大切に保存したから残されたけれど、小説原稿は虚子がせっせと廃棄していた、、、、
漱石の方針で、そう指示されていたのか「自筆原稿廃棄処分」とは、虚子ももったいないことをしたもんだ。
高浜虚子が原稿の最初に「夏目嗽石」と著者名を書き込んでいる。現行の「漱石」ではなく、口偏をつけた「嗽」の字になっています。
漱石もずいぶんと異体字や当て字を用いる人だったが、弟子も師匠の名前の文字を「どっちでも同じ」と、書き込んだらしい。
こんなことも、印刷本ではわからない、自筆原稿だからこその、貴重な手書き文字です。
明治のジャーナリスト、朝日新聞記者池辺三山(1864-1912)の般若心経写経も展示されていました。池辺は、漱石を朝日に入社させ、新聞小説を書かせた人でもある。
池辺三山以上に有名な明治のジャーナリスト徳富蘇峰(1863-1957)が、細川護立あてに書いた手紙の要旨は、以下のような内容。
「侯爵閣下が自著をお求めだというので、名誉に思ってお送りしたところ、執事がきちんと本の代金をおくってきた。お金を受け取るつもりで送ったのではないのに、恐縮している。いただいたお金は、人の役にたつ資料を買うのに用立てる」
という礼状でした。
一冊の本にもきちんと代金を支払う護立の「コレクション方針」がわかるエピソードです。
徳富蘇峰は、代表的な「肥後もっこす(頑固一徹、無骨、反骨)」といわれますが、殿様護立も、そうとう頑固におのれの「美学」を守って生きたのだろうと思います。
永青文庫の建物は、旧細川侯爵邸の家政所(事務所)であったところ。
2階の応接室のソファは往時のままの雰囲気で、雑誌「和楽」に、細川護煕(現在の永青文庫理事長)がこの部屋でくつろぐ写真などが掲載されていました。
2008年4月に、熊本県立博物館に細川コレクション永青文庫展示室がにオープンします。熊本城内の一角にある展示室で、永青文庫の所蔵品が、展示替えをしつつ見ることができるようになりました。
熊本のみなさん、ぜひ足をお運びください。お宅の宝物は、応仁の乱だか西南の役だかのとき焼けてしまったことでしょうが、永青文庫には、まだまだオタカラが残っています。
本日の徘徊俳諧
春の城 肥後もっこすの筆の反古
<つづく>
08:06 コメント(7) 編集 ページのトップへ
2008年04月04日
ぽかぽか春庭「新江戸川公園」
2008/04/04
ぽかぽか春庭・東京徘徊俳諧日記>殿様の博物館(4)新江戸川公園
3月16日日曜日は、4月中旬の陽気というポカポカの日でした。
神田川沿いの江戸川公園のなか、川沿いに植えられている桜は、もう花芽がはち切れそうにふくらんでいました。
地下鉄江戸川橋駅から江戸川公園を抜け、椿山荘冠木門を通りすぎ、新江戸川公園まで歩きました。
文京区が管理し整備している新江戸川公園は、肥後熊本藩の下屋敷だったところ。
7000坪の下屋敷が、現在は公園、永青文庫、和敬塾の3カ所に分かれています。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~tokyo-sanpo/36.htm
公園内は、大名庭園の雰囲気をよく残す回遊式庭園で、神田川に面する低地から、旧細川邸のある高台まで、上下差を利用した回遊式になっています。
東京は台地と低地が入り組んだ地形であり、高低の地形を上下する階段や坂道が都市景観の特徴にもなっています。
http://www.city.bunkyo.lg.jp/sosiki_busyo_kouen_annai_kuritukouen_kouen_shinedogawa.html
園内は、梅や白木蓮・紫木蓮が満開でした。
ぽかぽか陽気のすっきり青い空には、白い半月がみえます。
川沿い低地から台地へ昇る斜面に、夏蜜柑の木が実をたわわにつけていました。
高く放りあげられた鞠が、いくつもいくつも木にひっかかって、木の中でまりつき遊びをして跳ねているようにきらきらとざわめきながら、黄金色に輝いています。
夏みかんというから、夏の季語かと思っていたのに、白い「夏みかんの花」は夏の季語ですが、実は秋に熟し、冬から春まで実は樹上に残され、市場にでるのは春から初夏。
私が持っている歳時記には「春」の部に「夏みかん」が登載されています。小春日和が晩秋から初冬の季語であるのと並び、「入試用引っかけ問題、季語」になりそうです。
本日の徘徊俳諧①
春の昼 黄金(きん)の実樹上に 白き月
♪あんたがたどこさ、ヒゴさ、肥後どこさ、熊本さ~
という手まり歌、「さ」のところで、まりを高く放りなげて受け止めたり、まりの前でくるりと回ったり、足の下にまりを通したり、いろいろなワザを見せるのが「まりつき」の楽しさでした。
まりつきをして遊んだ子供のころには「ヒゴ」「熊本」がどこにあるのかも知りませんでした。
これまでに、一度だけ肥後熊本に行ったことがあります。
「劇団野ばら」の役者として、北九州一円の小学校体育館を回って「児童のためのミュージカル」を演じてすごしたとき。
福岡佐賀が中心の公演でしたが、熊本での公演が一回だけありました。
公演地の学校乗り入れ、舞台設営、公演、舞台バラシ、次の公演地へ。というスケジュールでしたから、たった一日の熊本公演も、バスのなかから熊本城を見ただけでした。
熊本の街の印象もほとんど残っていないのだけれど、もう一度ゆっくり滞在してみたい町のひとつ。
いつか熊本を再訪できる日を楽しみに。
肥後の石工たちが築いた橋も、かってバスの中から見ただけの熊本城もゆっくり見て歩きたいです。
本日の徘徊俳諧②
老母(はは)の鞠 はずみて花芽のふくらみぬ
春愁や指細き子の手まり唄
<おわり>