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ぽかぽか春庭「小泉八雲展」

2020-12-20 00:00:01 | エッセイ、コラム

 小泉八雲展ポスター&図録表紙

20201220
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記行楽東京(2)小泉八雲展

 楽しかった出雲市松江市旅行。出雲大社も松江城も十分に参観できたのですが、いくつか心残りもありました。松江市の小泉八雲旧居を訪れたのに小泉八雲記念館には時間が足りなくて見学をあきらめてしまったのです。

 松江市のホテルで夕食時間を予約していました。予約におくれたからと言って、夕食を出してくれない、ということもなかったと思うのですが、90分単位で鉄板焼き晩御飯の時間が決められていたので、あせってホテルに戻ったのです。鉄板焼きはおいしかったけれど、八雲についてちゃんと知りたかったという思いが娘に残りました。

 八雲は、松江市の家に1年ほど暮らしただけです。しかし最初の日本での住まいとなった松江市や出雲の神話をたいへん気に入り、日本名を「八雲たつ」という出雲ゆかりの言葉からとったくらいです。八雲は、松江市の借家を大いに気に入り、庭や部屋のたたずまいを随筆に書き残しています。

 反対に次に移り住んだ熊本は「熊本の町は、近代化が進んでいるので好きになれない」と言い、その次の神戸市では、外人が多い街で八雲は、他の外人たちと折り合って暮らしていくことには不向きだったこともあり、東京に移転しました。東京大学の英語教師という職を得た小泉一家は、新宿の中に住みかを見つけました。夏には沼津の漁師の家に一家で保養に出かけるという毎年の習慣もでき、東京での暮らしは落ち着いたものとなりました。

 新宿には八雲ゆかりの場所がいろいろあるところから、今年、新宿歴史博物館は「小泉八雲展」を開催しました。

 娘は小学生のとき、八雲のお話のうち、読んだのかテレビで見たのか「耳なし芳一」が怖くて怖くてトラウマになり、それ以来怖いお話は苦手になって、いい年になってもホラー系映画はいっさいだめ。私も子供のころ『怪談』を読んだきりで、大人になってからは『日本の面影』を読んだだけ。あまり八雲について詳しいわけじゃありませんでした。

 ぐるっとパスの入場券の中に新宿歴史博物館もあったので、「ちょうどいい、八雲について知るいい機会だ」ということになりました。四谷から歩いて新宿歴博へ。

 八雲展ポスターにある本展のタイトル「流浪するゴースト」のゴーストは、八雲にとって、目に見えない霊的な存在をさしているのだろうと思います。八雲は子供のころから、目に見えない存在を「心に感じる」ことの多い人でした。ハイスクール時代の事故で左目を失明してからより一層、見えない左目で見る(心に感じる)存在を大事にしたのだろうと思います。

 娘が心から震え上がった「耳なし芳一の話」。
 八雲は確かに平家の亡霊たちの姿を感じ取る感受性を持っていたのだ、だから子供心に恐ろしくてトラウマになるくらいの真に迫った描写ができたのではないかと思います。
 日本語の読み書きはあまり上手にならず、妻のセツとはカタカナによる「ヘルンさんことば」で手紙をやりとりしました。ヘルンさんことばとは、八雲と妻との間だけで通じ合える、一種の方言です。ヘルンさん言葉のカタカナ手紙も展示されていました。八雲が亡くなったあと、セツは八雲の遺品や遺作、出版した作品の原稿などを管理し後世に残していく努力を惜しみませんでした。子供を裕福に育てていけるだけの資産と印税などの収入がセツに残されていたとはいえ、彼女の努力があってこそ、八雲文学が今日まで私たちに多くのものを与えてくれるのだと思います。
 八雲展で新しく知ったことがたくさんありましたが、小泉セツについてもいろいろ知ることができたことも収穫でした。

 八雲は外国人としては小柄な人で、展示されていたスーツやコートも小さめでした。八雲にとって、日本が居心地よかった理由のひとつは、自分より大きい男性が少なかったこともあったかもしれない、と感じました。
 小泉八雲の等身大イラストといっしょに写真をとりました。


 背景の地図には、八雲がラフカディオ・ハーンとしてギリシャ、アイルランド、イングランド、アメリカなどを流浪したその足跡が刻まれていました。
 少年時代に失明した左目。八雲が見えない左目に生涯コンプレックスを感じていたことは、右目を見せる横顔の写真以外、肖像として使わせなかったことからもわかります。わずかに画家となった長男が描いたスケッチや沼津で写した家族写真などに正面の姿が残されているのみ。

 ただ、この劣等感の元となった見えない左目こそが、彼が日本の魂の本質を見抜く目となったのではないかと感じさせられた展示「Wandring Ghost」でした。彼自身が流浪するゴーストであったのであり、彼が見つめたGhostとは、日本の各地に残っていた霊や座敷童や妖怪、アニミズムなどの基層を仏教伝来以後も保ち続けた日本文化の中の存在だったと思うのです。今はほとんどが失われてしまったこれらのGhost、たぶん現代のわれわれは、Ghostとともにあった大事なものを失い、失ってしまったことすら気づかないで、せっせと金儲けに励み、「感染防止も大事だが、経済も大事」とさけんでいるのではないでしょうか。

 八雲は、自分を放浪者として流浪の生涯に追い立てる心のありようをGhostと呼んだ、と展示の中に書かれていました。八雲自身が一カ所にとどまっていることのない放浪の魂を持っていた人だったのです。
 54歳という短い生涯でしたが、40歳以後日本に定着したのは、セツの愛もあったでしょうし、日本の風土が八雲に合っていたゆえでしょう。

 今まで知らなかったこと。ラフカディオというアイルランド人には珍しいファーストネーム。母の故郷ギリシャのレフカダ島で生まれたゆえ、レフカダに由来するラフカディオであったこと。正式なファーストネーム、キリスト教聖人の名であるパトリックを捨ててラフカディオを名乗ったこと。母は、父の故郷アイルランド・ダブリンでの暮らしに耐えられず、心を病み、ギリシャにひとり戻り若くしてなくなったこと。父方の資産家大叔母サラ・ブレナンに引き取られて跡取りとして育てられたが、大伯母の破産により学業半ばでアメリカに渡ったこと。

 日本に来る前のことはアメリカで新聞記者をして文筆で身を立てられるようになったことのほかは、ほとんど知らなかったので、八雲の前半生を今回詳しく知ることができました

<つづく>
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