20241207
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩木枯らし吹いても(1)巨匠が撮った高峰秀子展 in 写真美術館
高峰秀子(1924-2011)は、昭和を代表する女優であり、多数のエッセイ著作を残した文筆家として、戦前戦後の昭和社会を生き抜きました。
2024年、生誕百年となるさまざまな記念行事の中、写真美術館で「巨匠が撮った高峰秀子展」が開催されました。
写真美術館の口上
操上和美をはじめ、写真界に大きな足跡を残した木村伊兵衛、土門 拳、早田雄二、林 忠彦、秋山庄太郎、大竹省二、操上和美、立木義浩。名だたる写真界の巨匠が、高峰秀子という一人の女優をいかにとらえたか―。
それぞれに才能きらめく写真家たちの独自の眼差しで見つめた高峰秀子は、同じ被写体でありながら、明らかに違う佇まいと表情を見せています。
そして、レンズを覗いている写真家一人一人が持つ力、言ってみれば、撮る側と撮られる側の覚悟、レンズを通した人間対人間の闘いとも言える熱い瞬間を私たちに伝えてくれます。
それぞれに才能きらめく写真家たちの独自の眼差しで見つめた高峰秀子は、同じ被写体でありながら、明らかに違う佇まいと表情を見せています。
そして、レンズを覗いている写真家一人一人が持つ力、言ってみれば、撮る側と撮られる側の覚悟、レンズを通した人間対人間の闘いとも言える熱い瞬間を私たちに伝えてくれます。
不世出の大女優といっても、1979年には女優業を引退し、文筆を中心にした活動でしたから、私はリアルタイムで高峰秀子出演作を見ていません。70年代に私が見ていた映画はほとんど洋画でしたから。高峰秀子出演作もテレビ放映の「なつかしの名画」として見てきただけ。だからリアルタイムで映画館で高峰秀子を見たセンパイ諸氏には当時の熱狂などをお聞きしたいところですが、その先輩もすでにほとんどは鬼籍入りとあって、テレビ放映視聴組も少しは高峰秀子のすごさを語っておいても罰はあたらない。
地下1階の「巨匠が撮った高峰秀子展」は、写真史にきらめく巨匠たちがそれぞれの視点で撮影した秀子像が作家ごとに並んでいます。
巨匠の展示の前に、高峰秀子の出演作が時代順に並んでいました。出演映画の思い出、とくに共演者について一言感想がかいてありました。ほとんどの共演者については「上手かった」と書いているなか『無法松の一生』で共演した三船敏郎について「あまりうまくなかった」と書いていたのが笑えました。
4歳で実母を失い、叔母(父の妹)の養女として東京に伴われる。5歳から天才子役として映画に出演し、以来、養父母のほか函館から東京に出てきた祖父の一家7人、合計9人の生活費いっさいを秀子が幼い身で背負う日々となりました。小学校には6年間で数日しか通えなかったというほど多忙をきわめる生活は、現代なら児童福祉法違反でしょうが、戦前のこと。大衆演劇の巡業に付き従っていた役者の子供なども、なかなか学校へは通えなかったというのが、昭和まで続いていたって、役者の談話が残されていますから、映画界の人たちも児童福祉違反などとは思っていなかったろう。そのかわり、皆がけなげな少女を大事にする。映画監督も小説家も画家も。小学校なんぞにいかずとも、谷崎潤一郎や梅原龍三郎などそうそうたる人々がいわば「家庭教師」のように世話をしたという。映画の台本からも撮影所の人々からも出会うものすべてを吸収し、成長しました。
子役として人気を博した子ほど、少女期を乗り越えて女優として大成することは少ないと言われる中、秀子はずば抜けた聡明さを持ち、よい映画監督とのめぐりあわせもあって、演技派女優として成長し、松竹専属としての月給で家族を養いました。家族を養う重圧から逃れることができたのは、松山善三との結婚で実家をはなれたあと。莫大な出演料を稼いできたのに、すべてを養母に浪費されていて貯金もなく、結婚式もごく地味なものでしたが、結婚は実家からの解放でした。1955年の結婚を機に女優を引退するつもりでしたが、助監督だった夫が監督に昇格し作品を撮る助けにと仕事をつづけました。完全に引退宣言をしたのは1979年、55歳のとき。
以後エッセイストやテレビインタビュー番組の司会などとしての活動し、亡くなったのは2010年。享年86歳。出演作600本。エッセイ20冊。夫と共作の旅エッセイ4冊。
洋画日本画の巨匠が描いた肖像画は。梅原龍三郎の描いた「カニの秀子像」は近代美術館へ。その他は世田谷美術館に寄贈されました。
著作など
松山善三秀子夫妻の養女となった斎藤明美が長年秀子のそばで見てきた被写体としての秀子像について述べています。カメラを向けられた瞬間、被写体として一瞬のゆるみもなかったと。その場の光や雰囲気、写真家の意図を即座に計算し、まつ毛の一本に至るまで完璧な自己像を作り上げた、、、、。
巨匠たちの撮影、それぞれに見事でした。木村伊兵衛、土門 拳、早田雄二、林 忠彦、秋山庄太郎、大竹省二、操上和美、立木義浩
1階ホールでは高峰秀子代表作が上映されていましたが、一本1200円の入場料を見て「うちに帰って録画してある高峰映画見よっ」とやめました。
戦前の作品は見たことがありません。昔テレビ放映で見た映画、録画されていたけれど、なかなか見る時間がとれなかった映画もある中、1200円払わないで家で見直したのは、「浮雲」。森雅之が私好みのイケメンではない。ろくでもない男が好きになってしまえば、私も屋久島だろうと南大東島だろうとついていったかも。いや、やっぱ金のない男についていきたくはない。と、言いつつ金のない男とケニアで出会って45年。
「銀座カンカン娘(1949)」「カルメン故郷に帰る(1951)」「煙突の見える場所(1953)」「浮雲(1955)」「張込み(1958)」「無法松の一生(1958)」「スリランカの愛と別れ(1976)」などなど、高峰秀子出演の映画、けっこう見てきたなと思います。
美女ポスターのわきに立つのはひんしゅくものですが、日付確認用にも必要なので。
<つづく>
目黒区美術館は、展示替えがあるごとに訪れる「行きつけ美術館」ですし、建物も居心地のよい好きな建築です。
しかし、たった30年40年で地下には水漏れするし、耐震も不安だしというような建物を区が建ててしまったことが残念至極でした。同じ美術館でも松涛美術館 白井晟一設計、江戸東京博物館菊竹清訓というような著名建築家の設計ですと文化的価値から存続が可能なのかもしれませんが、村野藤吾というビッグネームの設計であっても、我が学び舎の早稲田大学外山キャンパスも31号館を残すのみで、他は解体され、高層ビルになりました。
目黒区役所の村野藤吾は残していくと思います。
というような著名建築家の作品なら区側も考慮したのでしょうが、目黒区美術館は、著名建築家作品ではなく、老朽化したのちのメンテナンス費用がかさむことと、再開発して高層化した場合の区の施設拡大を考えると、区側も解体立て直しを選択したのでしょうね。区民が反対署名をあつめたくらいじゃくつがえりません。5月9日、区議会に提出した。署名者数は陳情書は1754人。少なすぎます。やるなら、前回の区長選挙のとき、解体反対の区長候補をたてて、当選させてしまうくらいの区民活動が必要でした。解体を是とする区長を選んだ時点で、勝負はついた。おそらく解体派施策は進んでいくでしょう。資本主義の世の中ですから、金の出どころを変えるのはむずかしい。神宮外苑再開発も、木を切り倒して進んでしまうのでしょう。三井不動産、東京都にもがっつり食い込んでいますからね。残念な世の中ですが、あきらめたら試合終了です。
練馬区立美術館もすでに解体方向で進んでいます。練馬区民の反対運動も実らなかった。
目黒区美術館を残したい人々、今後も結集して反対運動を続けてください。