旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

西宮市の今津砲台跡・今津灯台・六角堂

2024-10-06 10:56:23 | 尼崎・西宮・芦屋
2024年10月5非、西宮の酒蔵巡りに合わせて行きました。
今津砲台跡
阪神今津駅から南に約1.8kmの位置にあります。
 砲台は武庫郡今津村の海岸(現・西宮市今津真砂町)に建てられていました。記念碑の案内板には高さ10-12m、直径十数mの石造(花崗岩)で、2層目に空けられた砲眼より大砲で四方を狙うことが可能であったと記されています。
 幕末の頃、国防に不安を感じていた江戸幕府では勝海舟の建議を取り入れ、1863(文久3)年、大坂湾の海防のために和田岬砲台、舞子砲台、西宮砲台などと共に砲台の建設が開始されました。
 基礎工事(地杭打ち)では砂地へ1,157本もの松杭が打ち込まれました。建設に必要な御影石(花崗岩)は主に、備中小田郡の島々(現・岡山県笠岡市)より切り出し、海路にて運搬されました。熟練工を多く招集し突貫工事で建設が進められ、1866(慶応2)年に竣工しました。1868(明治元)年、陸軍省の所有となった今津砲台は、他の砲台と共に売却が宣告されたものの一旦は中止となる。だが1910(明治43)年に海軍省より民間へと払い下げられ、19151(大正4)年に解体、砲台の石材の一部を利用して「今津海岸砲台記念石」と刻まれた記念碑が作られ、福應神社へ奉納されました。その後1995(平成7)年の阪神・淡路大震災による同社の被災・復興を経て、記念碑はかつての砲台が建設された地域へ移設されています。

説明書

福応神社御旅所と石碑





大関今津灯台(西宮市指定文化財)
今津灯台(いまづとうだい)は、兵庫県西宮市に所在する民営(酒造会社の大関株式会社が運営)の灯台で、正式名称は大関酒造今津灯台です。現役の航路標識として使われている灯台としては日本最古のものです。現存する灯台は1858年(安政5年)に再建されたもので、高さ6m余り(基礎を含むと約6.7m)の木造袴腰付灯籠形・銅板葺屋根で、竜山石の基壇上に建てられています。
 灯火部分には格子が組まれているが、これは当初点灯に油皿を使用し、風雨を防ぐために油障子が貼られていた名残です。台石に刻まれた「象頭山常夜燈」の文字は、海上交通の守り神・金刀比羅宮に奉納された灯明台を意味しています。地元の人々からは「灯篭」愛称で親しまれてきました。







今津六角堂
西宮市立今津小学校内にあります。
1882(明治15)年に地元の方々の寄付で今津小学校の校舎として建築されました。洋式の小学校建築としては長野県松本市の開智学校についで古いといわれている明治時代の貴重な建物です。兵庫県からは「景観形成重要建造物」に、市からは「都市景観形成建築物」にそれぞれ指定され、県内においても重要な建築物として認められました。
兵庫県西宮市今津二葉町4-10
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西宮酒蔵巡り

2024-10-05 16:30:48 | 尼崎・西宮・芦屋
2024年10月5日、ぶらり酒蔵巡りをしました。阪神西宮駅から酒蔵をめぐり、今津駅に行きました。
 酒造りで有名な灘五郷、その中の西宮郷・今津郷はともに江戸時代より発展してきた酒蔵の街です。2020年、これら日本酒に関するストーリーなどが日本遺産に認定されました。江戸時代、伊丹・西宮・灘の酒造家たちは、優れた技術、良質な米と水、酒輸送専用の樽廻船によって「下り酒」と称賛された上質の酒を江戸へ届け、清酒のスタンダードを築きました。
 酒造家たちの技術革新への情熱は、伝統ある酒蔵としての矜持と進取の気風を生み、「阪神間」の文化を育みました。六甲山の風土と人に恵まれた地では、水を守り米を育てる人々、祭りに集う人々、酒の香漂う酒造地帯を訪れ、蔵開きを楽しむ人々が共にあり、400年の伝統と革新の清酒が造られています。
 この地域でつくられる清酒は、1936(昭和11)年に兵庫県で開発され、酒米の王様として知られる「山田錦」と、江戸時代に酒造適正が確認されて以来地域で守られてきた、西宮でしか汲むことができない「宮水」という優れた材料を使用しています。さらに六甲山から吹き降ろす冷たくて乾燥した北風「六甲颪」が生み出す酒造りに適した気候と、日本の清酒造りの基礎をつくった「丹波杜氏」たちの技術によって生み出されています。江戸時代の多い年には100万樽もの清酒が、西宮・大坂の港から樽廻船で江戸へ運ばれ、「下り酒」と呼ばれて人気を博しました。
阪神西宮駅の「おでかけ案内所」に立ち寄り、地図をもらいました。

西宮のマンホール

阪神西宮駅の南西徒歩10分650m、阪神高速3号線の少し南にある北山酒造へ、土曜日のためお休みでした。
北山酒造
「兵庫県小野市粟生町にて代々『ローズ味醂』と名付けた味醂を約200年に渡り、醸造販売していましたが、1919(大正8)年に、二代目北山丈蔵が清酒醸造に転業し『島美人』と名付け、主として東播・北播地域及び兵庫県の神戸市・姫路市にも販路を拡大していきました。1949(昭和24)年に、三代目北山丈蔵の相続と同時に株式会社に変更し営業を営んでいましたが、年々の増産により既存の工場が狭くなったこと、また設備が老朽化してきたことから、1962(昭和37)年に、兵庫県西宮市宮前町へ本社並びに酒造工場を移転しました。」
西宮市宮前町8-3
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少し南東に進みます。
松竹梅酒造
清酒「灘一」の販売をしています。
HPより「戦前の松竹梅酒造は故井上信次郎氏によって大正初期に設立され、扱う清酒はまぼろしの銘酒とも言われていました。昭和初期には醸造石数は9,000石にも達し、質、量ともに屈指の酒造会社でした。しかし第二次大戦の戦火拡大によって企業整理が進み、さらに軍需工場となり清酒の醸造は中止に至りました。
戦後、創業者である野田博は松竹梅酒造の復活に寝食を忘れ情熱を傾けた結果、昭和25年新たに松竹梅酒造を設立、ここに『灘一』の蔵元としての松竹梅酒造株式会社が再発足しました。」
兵庫県西宮市浜町13-10
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東に徒歩2分
白鷹



白鹿・辰馬本家酒造株式会社

白鹿酒造館
酒造館と記念館の拝観共通券は500円です。
1869(明治2)年建築の辰馬本家酒造旧本蔵を利用した酒造館では、灘の伝統的な日本酒造りの工程を見れます。酒造りの映像・酒造りの唄の試聴、酒造道具に触れるヒーナーもあります。展示している酒造用具一式および酒造用桶・樽づくり道具一式は、兵庫県および西宮指定の有形民俗文化財に指定されています。

































































































阪神淡路大震災で被災した道具など





白鹿記念館
日本酒と桜に関する資料、そしてさまざまな美術工芸品を展示
記念館には企画展示室、酒資料室、笹部さくら資料室の3つの展示室があります。酒資料室は、日本酒に関する史料や美術品、酒器などを展示しています。企画展示室は、酒造家・辰馬家が収集した美術工芸品や節句の人形をはじめ、西宮神社で有名な福神「えべっさん」や郷土資料を集めた「堀内ゑびすコレクション」など、季節に合わせた展覧会を開催しています。笹部さくら資料室は、生涯を日本古来の山桜・里桜の保護・育成に捧げた笹部新太郎氏が収集した、咲く瀬にまつわる美術工芸品や研究資料からなる「笹部コレクション」を展示しています。
館内は撮影禁止です。





白鹿クラシックス
白鹿のレストランと売店です。
酒や食品のほか、オリジナルスイーツ、酒器、お土産など。



案内図

宮水井







東に進みます。







日本盛酒造通り煉瓦館
蔵元でしか味わえないしぼりたての生原酒をサーバーから量り売りをしています。原酒の試飲や限定酒、酒器なども販売しています。





國産酒造
創業は文久元年(1861年)で、約140年ほどの歴史があります。戦前は覺心平十郎商店として、現在の所在地を中心に、10蔵で最高約1万石(1800kl)の清酒醸造高を記録していましたが、第2次大戦でその殆んどを焼失し、戦後昭和23年に組織を改め國産酒造株式会社を設立。戦災を免れた唯一の蔵「大新蔵」で清酒を生産していました。この「大新蔵」は、築後100年以上を経た、木造の大蔵で、阪神淡路大震災にも、倒壊を免れた強運の酒蔵でした。 昔は問屋の手印で出荷していた関係から色々な銘柄がありました。中でも主として使っていた「國産」印は、戦後社名となり大吟醸造酒「國産一」として受け継がれています。一方「灘自慢」は、昭和35年に新しく発売され、文学通り主産地灘五郷において、自慢できる酒として名付けられました。 つねに厳選された酒米を高精白に磨き上げ、天与の名水「宮水」で仕込み精魂を込めた技法によって、豊かな味わい深い「秋栄えの酒」に仕上げられています。
1995年の阪神淡路大震災で被災し醸造を断念、現在は大関(兵庫県西宮市)に醸造を委託しています。



大関
大関は今から約300年以上前、江戸時代中期の正徳元年(1711年)に、初代 大坂屋長兵衛が今津の地で清酒醸造を開始したのが始まりです。江戸時代は銘酒「万両」として樽廻船で江戸に運ばれ「灘の下り酒」として親しまれましたが、更なる飛躍を目指し明治17年(1884年)、当時大変人気のあった大相撲に因み、その最高位で覇者を表し、その韻が豊穣を意味する「大出来」に通じる「清酒大関」に改め現在に至っています。登録銘柄は、超特撰大吟醸長寿です。
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久々知須佐男神社

2023-04-24 21:04:48 | 尼崎・西宮・芦屋
2023年4月21日、お参りしました。
「当社は、妙見、牛頭天王ほかを主神とする神仏習合の社でした。明治初年の神仏分離政策により、妙見祠のみ転出し、須佐男神社と改称しました。同社は平安時代の957(天徳元)年、摂津一体に勢力をもっていた源氏の棟領、多田満仲の勧請により建立されたと伝えられています。妙見とは、北斗妙見菩薩を指し、北辰星(北極星)を中心に北斗七星を神格として祭ったものです。これは大阪府下の能勢妙見宮を川西に本拠する多田満仲がとくに崇敬したため、その配下の武将も同じ妙見信仰を持つようになったと考えられています。当社の境内にある満仲ゆかりの『矢文石』も、強肩の人物であった満仲の鏑矢伝説に結びついたものです。江戸時代に刊行された『摂津名所絵図』にも描かれている風景は現在も地元の人びとによって大切に保たれているところです。」
兵庫県尼崎市久々知1丁目3-28
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社標

鳥居

狛犬



手水舎





狛犬





拝殿

本殿

矢文石

愛宕社・八幡社






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広済寺

2023-04-24 20:37:57 | 尼崎・西宮・芦屋
2023年4月21日、お参りしました。
「広済寺は妙見宮をまつるお寺である。『摂津名所図絵』によると957(天徳元)年多田満仲が、矢文を放つと、矢文石に当たり妙見宮をこの地にまつったとされる。広済寺のある久々知は、姓氏録にある猪名の裔、久々智氏が本拠地とした地であるとされる。平安中期に能勢頼国(多田満仲の孫)の創立と伝える妙見宮である。その妙見宮を慶長年間(1596~1615)に日蓮宗の僧侶である日乾上人が開祖となり再興している。広済寺はもともと禅宗寺院である。1333(元弘三)年の閏二月から三月にかけて摂津で行われた赤松円心軍と六波羅軍の合戦の際に、戦禍に遭い荒れ寺になった。1714(正徳4)年2月25日、如意珠院日昌上人が荒廃した禅宗の広済寺を日蓮宗寺院として開山した。」
兵庫県尼崎市久々知1丁目3-27
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山門







近松門左衛門墓所碑

手水舎

本堂

妙見堂(開山堂)

境内

庫裏

妙見宮額

妙福稲荷





近松門左衛門墓(国の史跡)

水子地蔵





横門前に建つ石碑


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近松公園

2023-04-24 20:28:05 | 尼崎・西宮・芦屋
JR塚口駅の南東の位置にあります。約2ヘクタールの敷地をもつ回遊式日本庭園風の公園で、公園内には、近松門左衛門のブロンズ像があり、数多くの名作を残した近松門左衛門をしのぶことができます。
兵庫県尼崎市久々知1丁目4
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公園南東の壁沿いに、宿場町であった神崎を説明する「有馬道」と題する石碑がある。

近松門左衛門墓所の石碑





近松門左衛門のブロンズ像



近松記念館
「東洋のシェイクスピア」と称された近松門左衛門の記念館。近松が執筆に使用したと伝わる文机など、近松やかりの品約100点の展示など、出生から菩提寺である廣済寺、尼崎とのかかわりがわかる。」

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伊居太神社

2023-04-23 08:38:51 | 尼崎・西宮・芦屋
2023年4月21日、お参りしました。
由緒書より
「当神社は、前方後円墳の後円部のほぼ中央に鎮座する弥生時代以来の集落の存在する地です。新撰姓氏摂津神別に『坂部大彦命之のち也允恭天皇御世造立國境之標因賜姓坂部合部連』と記載されている坂合部氏族の居住地で、その子孫坂合郡朝臣として朝廷に奉仕し、この地を開拓して土地の名を坂合部と称し、何時の日か下坂部と称するに至る。
 尼崎市内に残存する古墳中最大のこの古墳こそ、氏族祖神の墳墓の地である。その後墳上に人事やを建立し、祖神を崇敬したものと思料せられるも創祀年歴等は不祥である。
 当初は、全景の如く氏族の首長大彦命及びその後儿を祀る神社であったが、藤原氏の全盛期当地方を支配した際その祖神たる春日大社を勧請奉祀したものと信じられる。
 天皇第六十代醍醐天皇制定された延喜式神名帳に、摂津川辺郡に伊居太神社ありとあるのは、正に当神社のことである。古老の伝うる処によれば、昔大和の春日大社より神の使者として神鹿が当神社に到来したと云う。
 後世江戸時代に至り青山氏がこの地を支配する。青山氏亦藤原氏の後儿にして春日社はその祖神である。」

兵庫県尼崎市下坂部4丁目13-26
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社標

鳥居

手水舎



狛犬



社務所

拝殿

本殿

伊居太稲荷社



境内
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伊佐具神社

2023-04-22 19:06:49 | 尼崎・西宮・芦屋
2023年4月21日、お参りしました。
「『延喜式』(10世紀初めに編纂された法令集)のなかの神名帳にしるされた摂津国河辺郡七座の第一の神社です。当社は市内で唯一の式内社の格式をもち、祭神は、伊狭城入彦皇子といわれています。上坂部・下坂部は大彦命の子孫である坂合部連が住んでいた土地ともいわれ、久々知の地名も命の子孫久々智氏から名付けられたようです。当社は朝廷より神酒を賜わる例になっていたといわれ、また神酒を上坂部で醸造したため、酒部といったともいわれています。さらに一説では、神崎の地名が当神社の前という意味の神前から起こったと伝えられています。またこの地域一帯は、元弘の変(1333年)の時、後醍醐天皇のため奮戦した赤松円心ゆかりのところで、境内には円心の墓と伝えられてきた五輪塔も残されています。」
兵庫県尼崎市上坂部3丁目25-18
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社標

鳥居



手水舎

拝殿













五輪塔
「この五輪塔水輪部と石造物は赤松円心とその他ゆかりの人々の墓とされている。元弘年間(1333)、赤松円心は久々知酒部(坂部)で激戦、その時、当神社で必勝祈願のため甲冑大刀等を献上したと伝承されている。赤松一族衰退記参照」

白龍稲荷神社




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観音堂(上坂部)

2023-04-22 16:19:22 | 尼崎・西宮・芦屋
2023年4月21日、お参りしました。
「このお社の御本尊はもと伊佐具神社境内の稲荷社に奉祀されていましたが、明治の神仏分離令によりこの地(伊佐具神社の西隣)に移転されました。神况寺に属す真言宗福円山浄徳寺と称し霊験あらたかな観音様で信仰心の篤い人達により維持されています。証として1699(元禄12)年正月吉日刻印の鰐口を伊佐具神社に保存しています。」
兵庫県尼崎市上坂部3丁目25-21
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西正寺

2023-04-22 08:05:27 | 尼崎・西宮・芦屋
2023年4月21日、お参りしました。
「浄土真宗本願寺派の寺院、山号は清光山と号す。建立の詳細は不祥、再興願書の古文書に『1633(寛永10)年4月15日に西本願寺良如上人より木像と寺号御免の印判を戴いた』と記録があります」
兵庫県尼崎市上坂部3丁目36-8
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山門

勝如上人御巡教記念碑



本堂




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茶屋ノ町地蔵堂

2023-04-22 07:45:08 | 尼崎・西宮・芦屋
2023年4月21日、お参りしました。
「この地蔵堂は明治24年頃に高江から移転したと伝えられています。地蔵盆には夜店が出て賑わっていたようです。地蔵さんは出産や子どもの病気回復を祈り、今でも多くの人達がお参りしています。」
兵庫県尼崎市上坂部2丁目4
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JR塚口駅、南東300m徒歩4分に位置します。







<合掌>
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