旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

大山祇神社、今治市

2019-12-26 23:08:23 | 愛媛
2019年12月25日、愛媛観光の帰路にお参りしました。
説明書より「大山祇(おおやまづみ)神社は、瀬戸内海のなかでも特に景勝の地である芸予海峡の中央に位置して、大小の島々に囲まれた国立公園大三島に、日本最古の原始林社叢の楠群に覆われた境内に鎮座している。御祭神は大山積大神一座で天照大神の兄神に当らせられる。天孫瓊々杵尊御降臨の際、大積大神、またの名吾田国主事勝国長狭命(大山積神の擬神体)は女木花開耶姫尊を瓊々杵尊の后妃とし、国に奉られたわが国建国の大神であらせられるが、同時に和多志大神と称せられ地神・海神兼備の霊神であるので日本民族の総氏神として古来日本総鎮守と御社号を申し上げた。大三島に御鎮座されたのは、神武天皇御東征のみぎり、祭神の子孫小千命が先駆者として伊予二名島(四国)に渡り瀬戸内海の治安を司どっていたとき芸予海峡の要衝である御島(大三島)に鎮祭したことに始まる。本社は社号を日本総鎮守・三島大明神・大三島宮と称せられ歴代朝廷の尊崇、国民一般の崇敬篤く奈良時代までに全国津々浦々に御分社が奉斎せられた。御分社は、全国に1万余社祀られている。延喜式には名神大社に列し、伊予国一の宮に定められ、官制に拠り国幣大社に列せられた四国唯一の大社である。」
愛媛県今治市大三島町宮浦3327
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道の駅「御島」に自動車を止めてお参りです。







鳥居

狛犬



斎田
「大山祇神社伝統の神事、御田植祭(旧暦5月5日)と抜穂祭(旧暦9月9日)は、この神田に於て行われます。」

参道

説明書

総門・翼舎







御桟敷殿

狛犬



参道

神馬舎

馬神社

斎館

雨乞の楠(天然記念物)
『日本最古の楠(樹齢3000年)で後冷泉天皇の御代(900年前)伊予国守藤原範国は能因法師を使者として祈雨の為参拝させた。その時「天の苗代水にせきくだせ 天降ります神ならば神」と詠じ幣帛に書付け祈請したところ伊予国中に三日三夜雨が降ったと伝えられている。』

社務所

十七神社(愛媛県重要文化財)
「長棟造にて平安様式が残されており、当大山祇神社はいよ国一の宮でありますので、ここに国中の神々を祀った建物です。特に内陣には木彫の御神体が安置されております。」



手水舎

乎知命(おちのみこと)御手植の楠
「御島(大三島)に祖神大山積大神を祭った乎知命の御手植楠(樹齢2600年)と伝えられ古来御神木として崇められている。」



葛城神社・祓殿神社・伊予国総社





伊藤博文公祈念楠樹

狛犬



随神



拝殿(重要文化財)
「江戸前期(1615-1660)建立、桁行七間、梁間四間、一重、切妻造、檜皮葺。」



本殿



廻廊







神輿庫

末社





下津社





上津社

姫子邑神社

河野通有兜掛の楠



宝篋印塔(重要文化財)
「鎌倉後期(1275-1332)築造、時宗の開祖一遍上人は河野通広の子として松山宝厳寺で生まれ、三島水軍河野通信の孫に当り、一遍上人絵伝に知られる通り大三島宮の参拝の折奉納したのです。」
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今治城

2019-12-26 21:22:07 | 愛媛
2019年12月25日、愛媛観光の1泊2日で帰路に立ち寄りました。
今治上沿革「藤堂高虎公は1600年(慶長5)関ケ原の合戦に東軍徳川家康方の先鋒として戦功をたて伊予半国20万3千石を与えられた当時諸大名中随一の築城の権威であった高虎公は内海において海陸の要衝である今治を城地と定め渡邊勘兵衛を築城奉行に木山六之丞を普請方として1602年(慶長7)より1604年にかけて城壁高さ六間乃至八間を築き、本丸には五層の天守閣、その他には櫓城門等20数棟を配し、三重の城濠をめぐらして、これに海水を導入して、当時としては他に類例のないいー大平城を構築した。また公は家康に信任され1608年、伊勢の津に国替え増封されたが、天守閣は公が家康から丹波亀山の築城を命じられた時、献じて亀山城に移築した。その後、今治城は義子高吉が二万石で維持し、更に1635年(寛永12)に伊勢長島より久松定房が入城し、後三万五千石で世々十代を経て明治維新となった。現在の天守閣は1980年(昭和55)10月10日、今治市制60周年記念として再建され、往時の偉容を再現するに至った。」
愛媛県今治市通町3丁目1−3
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鉄御門





































吹揚神社
「往古より今治市内に鎮座していた神明宮、蔵敷八幡宮、厳島神社、夷宮の四社を廃藩の際旧社地の故を以て城内に合祀社殿を造営し、1872年(明治5)11月19日遷座旧城名をとり吹揚神社と称す。」





神門

狛犬



手水舎



拝殿







本殿



吹揚稲荷神社















住吉神社・猿田彦神社











麁香神社



土居神社








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大宝寺、松山市

2019-12-26 18:46:51 | 愛媛
2019年12月25日、道後温泉のホテル・ルナパークに宿泊し、お参りしました。
説明書より『古照山薬王院、本尊は薬師如来である。寺伝によると、701年(大宝元)に小千(越智)伊予守玉輿が創建したと伝えられている。この寺の開創説話に、「角木長者」がある。この地の豪族角木長者は、この寺の薬師如来に祈り、子宝を得た。その娘を露と名付け、お袖という乳母をやとって大事に育てたが、お袖の乳が出なくなり、再び願をかけ、乳が出るようになった。お礼に、長者が本堂を建立した。また、露が15歳のとき病に臥し、お袖が、自分の命と引き換えに姫の延命を薬師如来に祈ると、露は全快、お袖は急病で世を去った。お袖の遺言によって植えられたのが境内にある「うば桜」である。江戸時代に松山藩主の祈願所となり、1685年(貞享2)には松平四代藩主定直の時代に本堂の修理を行っている。「大宝寺本堂」は、愛媛県内最古の建造物で、国宝である。』
愛媛県松山市南江戸五丁目10-1
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寺標





夢殿

長命坂





手水舎

鐘楼堂



うば桜(エドヒガン)



大師堂

乳母桜像

古照山由緒書

本堂(国宝)
「本堂は、垂木間隔が柱間ごとに違っていることから平安時代末期の阿弥陀堂形式を用いた鎌倉時代前期の建立であろうといわれる。県下で最も古い和様の建造物である。桁行三間、梁間四間の寄棟造、二軒、本瓦葺である。柱はすべて円柱で四隅の柱の上にだけ舟肘木を用いている。正面両南端及び背面中央に板扉を持ち、内部は板張りで、南側一間の床を二寸ほど下げて外陣とし、その奥は内陣となる。堂内に安置された厨子は、正面三間、軒唐破風付、こけら葺、和洋に禅宗様の手法を加味した優れた作品である。」


















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ホテル ルナパーク・道後温泉

2019-12-26 18:02:57 | 温泉、旅館、ホテル
2019年12月24日、道後温泉の温泉本館のすぐ北側に位置しますので、利用しました。
プラン名は、「あわび踊り焼き付鯛会席」でした。温泉は内風呂と露天風呂があります。単純温泉(pH9.2,配湯)で奥道後から引いていると記載がありました。
愛媛県松山市道後鷺谷町5-19
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外観



玄関

ロビー















売店



室内

踏み込みに机





おもてなし

夕食は個室の会場食でした。
生ビールと地ビール「道後」で乾杯

前菜

刺身盛り合わせ

鯛の荒炊き

煮物

あわび踊り焼き

天ぷら盛り合わせ

茶碗蒸し

鯛めし

吸い物

デザート

朝食は、バイキング形式でした。
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松山城

2019-12-26 17:39:10 | 愛媛
2014年3月20日
標高132mの勝山山頂に立つ松山城(史跡)は、大天守に複数の小天守が連結する連立式天守をもつ平山城[ひらやまじろ]です。寛永4年(1627)に完成したとされています。乾櫓[いぬいやぐら]、野原櫓、隠門[かくれもん]など築城当時から残るものはすべて重要文化財に指定されています。安政元年(1854)に再建された天守(重要文化財)からは、石鎚山から伊予灘までが一望できます。小雨のため今ひとつでした。
2019年12月24日、再訪問。
松山市丸之内
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黒門口





槻門跡(けやきもんあと)

松山城二之丸史跡庭園









松山城山樹叢



本丸案内図2019.12.24補正







戸無門、改修中です。
「本丸の大手登城道に設けられた高麗門です。門は、両脇の寄掛柱を石垣にもたせ、脇戸はありません。江戸時代から戸無門の名で呼ばれており、鏡柱に扉を吊る肘壺の痕跡もないので、創建当初から扉を持たなかったものと考えられています。建築年代は明らかではありませんが、寛永から正保年間(1624~1648)の建立になるものと推定されています。また、1800年(寛政12)に建替えられたことを示す棟札が残されています。」

2019.12.24補正



太鼓櫓



2019.12.24補正



巽櫓

松山城築城の説明





太鼓門

2019.12.24補正





井戸、築城時に谷だった場所を埋め立てるのにあわせて、泉を掘り下げ、石を積み上げて造られたと伝えられています。深さは44.2m、水深9mあり、戦前まで釣瓶が備えられ、冷水を飲むことが許されていました。

玉薬土蔵跡

松山城説明板



天守と小天守
「天守は三重三階地下一階の層塔型天守で、黒船来航の翌年落城した江戸時代最後の完全な城郭建築。また、現存12天守の中で、唯一、築城主として瓦には「葵の御紋」が付されている。小天守は、二重櫓、小天守東櫓とも呼ばれ、大手(正面)の二之丸・三之丸方面を監視防衛する重要な位置にある。天守、小天守、隅櫓を渡櫓で互いに結び、武備に徹したこの天守建造物群は、わが国の代表的な連立式天守を備えた城郭と言われている。」

2019.12.24補正











































紫竹門2019.12.24補正
「紫竹門は、本丸の大手と搦手を仕切る脇戸付高麗門で、本壇北側にあった中仕切門とあわせ、搦手を固める重要な門です。門の両側には、それぞれ紫竹門東塀と同西塀が接続し、搦手に備えるため北を正面としています。門の前面、小天守下に紫竹が植えられていたことからこの名が付けられ、また扉の上下は堅格子となっており、そこから外を覗き見る工夫がなされています。創建時期はわかりませんが、紫竹門東塀並びに同西塀とともに、1784年(天明4)の落雷で天守とともに焼失し、嘉永年間(1848~1854)に再建されたと考えられています。」















乾門東続櫓2019.12.24補正
「乾門東続櫓は、乾門の東側に設けられた平櫓で、乾門とあわせて、搦手の防備を担っています。乾門とともに、慶長年間(1596~1615)の築城時に、正木城(伊予郡松前町)から移築されたと伝えられています。焼失前には、1768年(明和5)と墨書された棟札、1784年(天明4)頃に修理したと考えられる墨書された棰端の漆喰下地板が見つかっていたことから、幕末までに何回かの修理が行われていたことが分かっていた。」



野原櫓2019.12.24補正
「野原櫓は、本丸の北に配置された二重櫓で、小筒櫓とともに城の北側に対して防衛を担う櫓です。太鼓壁や天井板が張られないことなど簡素で機能的な武装建築の手法が見られます。入母屋造の屋根の上に、物見を載せた望楼型二重櫓で、全国で唯一の現存事例です。望楼型の櫓が発展とて天守が生まれたとする天守望楼起源説を裏付ける資料として注目されています。この櫓は騎馬櫓とも呼ばれ、慶長年間(1596~1615)の築城時に建てられたと伝えられており、城内最古の建造物の一つと考えられています。幕末までに何回かの修理が行われ、その年代を示す資料として墨書された棟札があります。」

艮門東続櫓(うしとらもんひがしつづきやぐら)
「艮門と同東続櫓は、本丸の北東(艮方向)に配置された脇戸付の櫓門と二重櫓で、城の東側の防衛を担っています。また、ここから出撃し、大手や搦手に迫った寄手の背後を急襲するという役割も担っていたと考えられます。創建時期は判りませんが、明治時代に取り壊されたようで、194年(昭和59)3月に復元されました。」



伯爵久松定謨頌徳碑

馬具櫓



松山城からの景色、小雨で残念。








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浄土寺、愛媛県松山市

2019-12-26 13:41:08 | 愛媛
2019年12月24日、愛媛観光に行きました。浄土寺にお参りです。
説明書より『真言宗豊山派の寺院で、四国88か所の49番札所である。西林山三蔵院と号し、本尊は釈迦如来である。寺伝によると、天平年間(729~749)、僧慧明が創建し、孝謙天皇の勅願所となったという。960年(天徳4)、僧空也が諸国遍歴の途中、3年ほど滞在し、自刻の木像を遺したと伝えられる。1192年(建久3)には、源頼朝が、伊予の豪族河野通信ともども家門の繁栄を祈り、堂塔の修理に力を与えている。境内に66坊の末寺を有する巨刹だったが、1416年(応永23)、兵火で堂宇をことごとく焼失し、1484年(文明16)に河野通宣が再建して寺の景観は旧に復した。その後、室町時代末期の兵火、更にまた、1600年(慶長5)には河野氏の残党が毛利軍とともに久米で戦った「久米の役」によって衰弊したが、その後、法印宥雄がこの寺の再興に尽くしたという。』
愛媛県松山市鷹子町1198
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仁王門

















弁財天

手水舎

鐘楼堂

本堂(重要文化財)
「室町後期1484年(文明16)建立、桁行五間、梁間五間、一重、寄棟造、本瓦葺。」







庫裏





大師堂













阿弥陀堂





愛染堂







仏足石
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三島神社・医王寺、愛媛県東温市

2019-12-26 13:39:48 | 愛媛
2019年12月24日、愛媛観光でお参りしました。神戸を出発して明石海峡大橋を渡り、淡路、徳島自動車道、松山自動車道と走り、石鎚山SAで昼食です。
えひめ鯛のみかん卵ユッケ丼セット

川内ICで降りて、最初の目的地の三島神社です。
三島神社
「南北朝時代の建立とされ、三間社流造としては県下最古のもので、本社である大山祇神社の本殿とよく似ていて、原型をなすものだといわれています。また、神社の随身門には、同時代の作といわれる矢大神、左大神二体の随身立像があります。」
愛媛県東温市則之内
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社標と鳥居



狛犬



随神門



手水鉢

拝殿



























本殿(重要文化財)
「室町前期の14世紀中期(1301-1400)建立、三間社流造、銅板葺。」





末社

















医王寺
説明書より「702年、行基菩薩により開基、自ら薬師如来を刻み安置する。726年、聖武天皇の勅をうけ官寺と言われる。当時62坊を司る大寺であった。807年、弘法大師留錫、のち真言宗の寺となる。1071年、源頼義により堂宇再建される。その後、豪族河野氏や松山城主加藤嘉明、松平(久松)家代々の庇護のもとに隆盛した。1534年作の厨子は室町時代の秀作とされ、国指定の重要文化財となっている。」
愛媛県東温市北方1551
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仁王門

仁王像



鐘楼堂



本堂











厨子説明書(拝観は要予約)


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湊山公園~米子城跡~寺町散策

2019-12-05 16:25:46 | 鳥取
2019年12月4日、皆生温泉のグランドホテル天水に宿泊し、米子市内を散策しました。湊山公園を基点に米子城跡、笑い通り、寺町と反時計回りに散策しました。
湊山公園
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日本庭園









昆虫モニュメント



近辺地図

皇太子御手植松



米伝説









遊具広場





猿が島

















桜の園





米子城跡(国指定史跡)
『近世城郭としての米子城は、戦国時代末期の1591年(天正19)頃、吉川広家が湊山を中心に築城したのが始まりといわれています。1600年(慶長5)の関ケ原の戦いの後、広家は岩国に転封となり、代わりに駿河から入った伯耆18万石の領主中村一忠によって1602年(慶長7)頃完成しました。
 中海に張り出した標高約90mの湊山頂上の天守を中心とする本丸に、北の内膳丸、東の飯山を出丸として配して、湊山ふもとの二の丸には領主の館を、その下には三の丸には作業場、米蔵、馬小屋などを建て、これらを中海から水を引き込んだ二重の堀で囲みました。さらに中海側の深浦には水軍用の御船手郭を築き、内堀と外堀の間には侍屋敷が並びました。当時の米子城は、五重の天守閣と四重の副天守閣(四重櫓)を持ち、「山陰随一の名城」とも称される壮麗な城であったと言われています。
 中村氏の後、加藤貞泰、池田由之と城主がかわり、1632年(寛永9)からは、鳥取藩主席家老の荒尾成利が米子城預かりとなり、以降十一代にわたって荒尾氏が管理しました。
 明治維新の後に城は払い下げられ、建物は取り壊されましたが、石垣などは現在も往時の姿をよくとどめており、天守跡から秀峰大山、日本海、市街地、中海などが一望できます。この湊山の大半は、市内の素封家坂口平兵衛意誠氏から寄贈を受けたものです。』
 

登り口

























内膳丸











本丸へ







二の丸跡





番所跡





遠見櫓跡







水手御門跡









鉄御門跡



下山します。
城山弘法大師
「この修行姿の弘法大師像を起点として、城山の中腹を一周するコースに、石仏200余体、「八十八ケ所の札所」がつくられている。ことの起こりは、灘町の住人が四国遍路により眼病が治ったということで、遍路を体験した数人の世話人とともに、開創したものである。」













米子市立山陰歴史館(米子市有形文化財)
「1930年(昭和5)に建築、鉄筋コンクリート3階建」

高島屋米子店

咲い地蔵(わらいじぞう)
「地域の人たちの幸福を願ってまつられています。」

加茂川に鴨

川守地蔵
「水害から町を守る地蔵様、江戸時代、この場所は深く渦を巻き、ここで泳いでいた子ども達がよく溺れて亡くなりました。その供養と子ども達の安全を願って、鹿島家が地蔵様を建立されました。また、同時に、ザクロの木が魔除けとして、安産と幼児を守る木として植えられました。」

凉善寺
「1600年(慶長5)に米子城初代城主中村伯耆守一忠の入国により、その妻の大賓院珠慶夫人が開基となり現在の岩倉町に1602年頃当寺を建立されました。」





本教寺
「日蓮宗の寺院で、1573年‐1592年頃(天正年間)頃米子城城主古曳吉種が母の追善供養のために米子城城内に建立した仏堂浄昌寺が起源と云う。米子城を築城した古曳長門守吉種の墓所がある。」









与太郎地蔵

福厳院、曹洞宗の寺院













瑞仙寺、曹洞宗の寺院













安国寺
「山号は万寿山、曹洞宗の寺院で、足利尊氏開基、1338~42年頃開創された。瑞翁玄鋭により1500年代末中興。伯耆安国寺は、現在の伯耆町大殿に白鳳時代に開創された大寺を安国寺とた。」









妙善寺、日蓮宗の寺院





妙興寺
「1546年(永禄7)開山の瑞応院日逞により普平山菩提樹院妙興寺が創建された。米子城執政家老横田内膳正村詮の墓所がある。」









実成寺、日蓮宗の寺院








法蔵寺、曹洞宗の寺院





心光寺
「寺伝によると、もと会見郡尾高村にあったものを中村一忠が米子城主の時に、その浄財をもって現在の位置に移ったと伝えられている。その後、江戸時代に入り火災のために焼失し、1751~1761年(宝暦年間)に再建されたといわれる。浄土宗の寺院」







萬福寺、真宗大谷派寺院





後藤家(重要文化財)
「1724年(正徳4)頃の建立とみられる。後藤家は、鳥取藩の海運の中心地米子で代々回船問屋を営んでいた。主屋は切妻造、本瓦及び桟瓦葺き、一部2階建て。北東の角地に建ち、主屋の東正面と北側面は直接道路に面している。」


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皆生グランドホテル天水

2019-12-05 08:42:44 | 温泉、旅館、ホテル
2019年12月3日、利用しました。
プラン名は"和食バイキングプラン[客室無料UP]"でした。部屋タイプは海側の部屋ということで、境港、弓ケ浜から美穂湾、美穂関を眺望できます。温泉はナトリウム・カルシウム-塩化物泉(ph7.2)泉温82.4度で、塩ぱいお湯です。
鳥取県米子市皆生温泉4-18-45
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外観



フロント

ロビー







廊下



売店

ラウンジ







ゲームセンター







庭園







プール

部屋



おもてなし



部屋からの眺望
砂浜の遠方が美穂関です。

食事会場への廊下









夕食
ゆでずわい蟹や実演ステーキ・天ぷら・握り寿司等の和食を中心とした約40種のバイキングでした。

朝食、バイキング
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