旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

四天王寺

2016-09-21 19:02:30 | 大阪
2016年9月20日、四天王寺にお参りしました。台風16号が近畿に接近するとのことで雨が結構降ってきました。カメラのレンズを拭きながらの撮影でした。
大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
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『「日本書紀」によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。「和宗」の総本山として独立している。その伽藍配置は、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、日本では最も古い建築様式の一つです。』
境内図

南大門

中門(仁王門)
『飛鳥時代創建当初の様式を再現し昭和38年10月15日落慶した。文化9年(1812)再建の中門は昭和9年9月21日の室戸台風の為、倒壊、その後15年に五間三戸入母屋本瓦銅葺の重層の門が再建されるも、昭和20年3月14日戦災のため焼失、8回目の中門である。元来、中門は中心伽藍の南端に位置し、脇の間に伽藍の守護神である金剛力士(仁王像)を祀っていることから俗に仁王門と呼ばれ、ここが中心伽藍の正面である。向かって赤色の像は「阿像」那羅延金剛力士、左の青色の像は「吽像」蜜迹金剛力士と呼ばれる。この仁王像の重さは約1トン、身長は5.3メートル、顔の長さは70センチメートル、足の親指の幅だけでも13センチメートルの巨大な仏像で、我が国に現存する仁王像の中でも最大級である。昭和38年2月大仏師松久朋林・宗林の両大仏師が手がけ、同年12月に県献納された。』 









回廊





五重塔





金堂

西重門

阿弥陀堂

紙衣堂



清浄水井戸屋形





西大門(通称極楽門)

転法輪

見真堂

義経よろい掛けの松

北鐘堂

太鼓楼

六時礼讃堂(重要文化財)
「德川家康によって元和9年(1623)に造営されたもので、江戸初期寺院建築として重要なものである。桁行七間、梁間五間、一重、入母屋造、本瓦葺。」





石舞台(重要文化財)

御供所

楽舎

回廊

亀井不動尊



番匠堂

太子殿猫の門





蟇股に猫の彫刻、なんとなく笑っているようで愛らしい。



東重門

普賢菩薩

聖霊院・太子殿





太子殿と太子奥殿

















太子井戸屋形

南鐘堂

唐門









長持形石棺蓋(古墳時代)

石鳥居(鎌倉時代)

四天王寺の石槽(大阪府指定有形文化財)

本坊唐門







伊勢神宮遥拝石





東大門





本坊西通用門(重要文化財)
「江戸前期の元和9(1623)建立の四脚門、切妻造、本瓦葺。」

英霊堂

大黒堂





元三大師堂(重要文化財)
「江戸前期の元和9(1623)建立、桁行三間、梁間三間、一重、寄棟造、本瓦葺。」













地蔵堂



雨がかなり降ってきました。合羽に傘ですが、靴びしょ濡れ。お疲れ様でした。
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王寺駅の旧黒田藩蔵屋敷長屋門、統国寺、堀越神社

2016-09-21 19:02:09 | 大阪
2016年9月20日、大阪地方裁判所で年金減額取り消し訴訟の第1回口頭弁論があり、その傍聴に出かけました。この裁判は年金をマクロ経済スライドということで将来にわたって約3割の給付削減をする前段の措置として行われた減額です。裁判の開廷の時刻まで時間がありましたので、JR環状線で天王寺駅で降りて周辺を散策しました。台風16号の近畿接近で風雨が強くなっています。
旧黒田藩蔵屋敷長屋門
場所は大阪市立美術館の南側にあります。
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「現在中之島三井ビルの場所がおおむね福岡黒田藩の蔵屋敷で、これはその長屋門である。数少ない蔵屋敷遺構の一つで昭和8年三井ビル建設に際し、大阪市に寄贈された。」





公園の中を東に進み、公園に沿って北に進むと統国寺があります。
統国寺
大阪市天王寺区茶臼山町1-31
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「山号を和気山といい、釈迦三尊を本尊とします。聖徳太子の創建、大坂夏の陣で真田幸村軍によって全山消滅し、後に黄檗宗の僧によって再興。昭和44年に在日本朝鮮仏教徒協会の傘下に入り現在にいたる。」





大雄殿(大阪市指定有形文化財)









庫裏









ベルリンの壁



堀越神社
大阪市天王寺区茶臼山町1-8
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『時の摂政、聖徳太子が太子の叔父君の崇峻天皇を偲んで風光明媚な茶臼山の地に、四天王寺の建造と同時に当社を建立創建されました。明治の中期まで境内の南沿いに美しい堀があり、この堀を越えた参詣したので、堀越と名づけられました。また、古くから「一生に一度の願いを聞いてくださる」と、尊崇を集めている。』











白龍社

太上神仙鎮宅霊符尊神



拝殿

茶臼山稲荷神社



熊野第一王子之宮



黒龍社



ザクロ

かえる石

お疲れ様でした。この後、四天王寺にお参りします。
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豊中・原田神社

2016-09-17 21:56:51 | 大阪
2016年9月13日、お参りしました。阪急岡町駅のすぐ東横です。
大阪府豊中市中桜塚1丁目2-18
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「原田神社の創建は、社伝によると奈良時代以前、天武天皇の時代にさかのぼるといわれています。室町時代には将軍足利家より社領として西牧六車庄の寄進をうけ、東は豊嶋郡榎坂村(現吹田市江坂)から、西は川辺郡富松村(現尼崎市富松)にわたる72か村の氏神として栄ました。その後天正6年(1578)には、荒木村重の兵火によって社殿や宝物類を焼失、慶安5年(1652)に再興されました。もとは祇園社とも牛頭天王社とも呼ばれていましたが、貞享5年(1688)に原田大明神の神号を得て現在の社名となりました。この本殿は棟札により慶安5年(1652)の建立が明らかで、五間流造の形式をもち、正面に千鳥破風および軒唐破風がみられ、屋根は檜皮葺であります。材料工法ともに上質の江戸時代前期の建築で、全国的にも類例の少ない五間流造の形式をもち、虹梁の配置や身舎とのつなぎ方、妻飾などに配した邪鬼など細部の形式意匠にも特色があり貴重な文化財であります。」



石鳥居(豊中市指定有形文化財)



手水舎

末社













御神庫



拝殿









本殿(重要文化財)



獅子神事(無形民俗文化財)の説明書



十ニ神社(豊中市指定有形文化財)





稲荷神社







神明社



お疲れ様でした。
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長岡天満宮

2016-09-17 20:28:00 | 京都
2016年9月13日、お参りしました。阪急長岡天神駅で下車、南側に線路沿いに歩き、右に曲がって信号まで進みます。駅から約500mのところです。
京都府長岡京市天神2-15-13
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大鳥居







水上橋



菅原道真(845年~903年)と長岡天満宮の由緒
『長岡天満宮周辺は、もともと菅原道真の所領でした。道真は当時、在原業平(平安時代前期六歌仙の一人)らと共に、この地でしばしば詩歌管弦を楽しんだと伝えられています。道真は、幼くして学問に優れ、その聡明さと政治的手腕から宇多天皇の信任を受けます。以降も政府の要職を歴任し、宇多天皇が法皇となったのち醍醐天皇のときに右大臣まで昇りつめました。しかし、時の権力者・藤原氏は、道真の出世を快く思っていませんでした。昌泰4年(901)、左大臣の藤原時平は、醍醐天皇に「道真が娘を斉世親王(宇多法皇の息子・醍醐天皇の弟)に嫁がせ、醍醐天皇を失脚させようとしている」と虚偽の報告をします。宇多法皇の政治的影響力を疎ましく感じていた醍醐天皇は、この讒言を聞き入れ、道真に九州・太宰府に左遷を命じます。無罪の罪により平安京を追われることとなった道真。道中、この地を訪れ、「我が魂長くこの地にとどまるべし」と都を想ったそうです。(このことから長岡天満宮は「見返り天神」とも呼ばれています)。その後、道真は九州に向いますが、その時にお供したのが乙訓郡開田村(このあたりの旧地名)の中小路宗則らでした。道真は宗則らと別れる際、自身の姿を模した6センチ余りの木像を贈り、名残を惜しみます。左遷から2年後の延喜3年(903)、道真は配流先の大宰府で亡くなります。これを聞いた宗則らは、道真から贈られた木像を御神体として祀りました。これが長岡天満宮の始まりです。』

長岡京市の名所・観光史跡ご紹介

長岡京市案内マップ



八条ケ池の説明書
「寛永15年(1638)に当時の領主・八条宮が造るように命じた、灌漑用の溜め池です。」











鳥居



































手水舎



社務所

拝殿



御牛様



狛犬

















長岡稲荷社





山神社

本殿(京都府指定有形文化財)



白梅殿



和泉御社





笠松地蔵



















お疲れ様でした。
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向日市、南真経寺と向日神社

2016-09-17 18:09:51 | 京都
2016年9月13日、お参りしました。午後から大阪大学会館でニュースキャスターの岸井成格さんの講演がありましたので、それまでの時間を観光にと阪急電車1DAYパスで廻りました。
まずは、阪急西向日駅で下車し、向日神社に行きます。

向日市観光史跡案内図

途中に南真経寺がありましたので、お参りしました。
南真経寺
向日市鶏冠井町大極殿
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説明書
『鶏冠山(かいでざん)南真経寺(みなみしんきょうじ)、本尊は十界曼荼羅です。当寺の創建は、寺伝では鎌倉時代末の徳治2年(1307)とされています。御開山日像上人は、宗祖日蓮聖人の帝都に日蓮宗布教せよとの遺命を受け鎌倉時代末期に上洛されたが、他宗派の迫害をうけて、しばしば京都から追放され、これを三黜三赦(三度追放されその度に赦される)といい、徳治2年(1307)頃、乙訓郡山崎付近にとどまって布教活動を行っていました。当時、鶏冠井には真言寺という真言宗の寺院がありましたが、住僧実賢は日像上人の教化によって日蓮宗に改宗し、寺名も真経寺と改めました。(真言寺の真と、日像上人の幼名経一丸の経をとられた)真経寺は、関西における日蓮宗の最初の寺院となり、以降日像上人の布教活動の拠点となりました。現在向日神社参道前の左に日像上人が石の上に座して説法された説教石が祭られています。真経寺は、はじめは、一寺でありましたが、江戸時代の承応3年(1654)に、南北のニつに分かれ北真経寺は壇林(仏教の学問所)、南真経寺は鶏冠井村人の信仰の場となりました。法華経の信仰を現した当時の鶏冠井題目踊は京都府無形文化財として踊り継がれています。明治時代の初めころに整備された台帳には、山門正面にある開山堂が寛永11年(1634)に、本堂が正徳4年(1714)、鐘楼は元禄12年(1699)の建立と記されています。また「真経寺」の額は本阿弥光悦により書かれたものです。』



山門



開山堂(京都府指定文化財)









本堂(京都府指定文化財)



鐘楼



向日神社に進みます。





鳥居

歴史街道と向日市の説明書

向日神社説明
「奈良時代の養老2年(718)の創建と伝えられています。本殿は、応永29年(1422)に上棟された室町時代の代表的な三間社流造として同神社所有の紙本墨書11本日本書記神代紀下巻と共に、国の重要文化財に指定されています。」

参道

説明書
「向日丘陵南端部、乙訓地域を一望できる最良の地に鎮座する当社は、『延喜式』神明帳に記載された式内社で向神社と称されていました。『向日神社略記』によれば、後に乙訓坐火雷神社を併祭して現在に至っています。後世、向神社を上ノ社と呼び五穀豊穣の神、火雷神社を下ノ社と呼び祈雨・鎮火の神として朝廷の崇敬の特に篤い神社であったことは古書に数多く見られます。神社の創建は養老2年(718)に六人部が当地を賜ったことに始まるといわれています。棟札によれば、本殿は、応永25年(1418)より4年の歳月をかけて建造されたもので、造営は、向日市域内外の7ケ村の共同事業として行ったことを記しています。本殿の建物は、三間社流造で、創建年代のわかる室町時代の代表的な神社建築として重要文化財に指定されています。現社殿は、透塀を囲んで本殿覆屋があり、弊殿・拝殿と連結して権現造のような一連の建物を呈しています。明治神宮本殿は、当本殿をモデルとして建立したとも伝えられています。現本殿は、東面して建っていますが、江戸時代の『山州名跡志』等には、南面した姿が描かれています。本殿背後には、京都府下最古の前方後方墳・元稲荷古墳が所在しており、当神社の地が古くから乙訓地域を治める人々の聖域であったことが伺われます。当社の神官六人部氏は、平安時代以来の由緒を伝える家系で、特に幕末にでた六人部是香は有名です。是香は、平田篤胤に師事し、多数の書を著した国学者で、倒幕運動の一翼を担っていました。京の情勢を窺うに便利な地にあった六人部家には、坂本竜馬や中岡慎太郎も立ち寄ったといわれています。」

京都府向日市向日町北山63番地
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さざれ石



参道





勝山稲荷神社の鳥居





向日神社末社勝山稲荷神社拝殿(登録有形文化財)
「間口三間の入母屋造に向拝一間を付ける。」









手水舎(登録有形文化財)
「江戸後期建立、木造、瓦葺、面積4.0㎡、手水鉢・井戸付」



向日神社末社天満宮社本殿(登録有形文化財)
「天保4年(1833)建立、切妻造の本体前面に切妻造妻入の向拝を併設する独特の構えとなる。」

舞楽殿



拝殿(登録有形文化財)
「江戸時代の天保13年(1842)建立、桁行五間の拝殿は柱間が広く大規模で、正面に千鳥破風と向唐破風造の向拝を付す。」



狛犬



「拝殿向拝廻りの雲龍等の彫刻は特に濃密で目を引く。」













本殿(重要文化財)
「三間社流造の本殿を納める覆屋は方五間で、流造のような形態。」

瑞垣(登録有形文化財)
「瑞垣は瓦葺で腰下を竪板張、上部を菱格子とし、内側に石製の添柱を付す。」

南門(登録有形文化財)



御霊神社



向日神社末社御霊神社本殿(登録有形文化財)
「江戸中期建立、明治10年移築。木造平屋建、こけら葺、建築面積2.3㎡、覆屋付。一間社流見世棚造で、見世棚左右に板壁を張る。」







勝山身代不動尊







客殿(登録有形文化財)
「境内の南寄りに東面して建つ。T字形平面で屋根を入母屋造とする主体部の東正面に切妻の車寄を付ける。」





五社神社(登録有形文化財)
「江戸末期建立、桁行三間梁間一間、切妻造で、正面中央間のみ広めて虹梁を架ける。正面は腰下を板壁、内法を菱格子、上部土壁とする。」

渡廊と祖霊社(登録有形文化財)
「江戸末期の建立、本社拝殿と祖霊社本殿を南北に繋ぐ、長さ約10メートルの渡廊。向日神社末社祖霊社本殿は、江戸時代の元禄元年(1688)建立、もとは祈祷所として建立されたもので、桁行二間半梁間二間、入母屋造妻入である。天保期の境内整備以前に遡る遺構として貴重。」

隣接している桜の園





勝山公園



元稲荷古墳の説明書







日像上人が石の上に座して説法された説教石



五辻の常夜灯





お疲れ様でした。
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小倉城

2016-09-16 15:03:51 | 福岡
2016年9月8日、九州旅行3泊4日の最終日です。阪九フェリーの乗船の時間調整もあり、寄りました。今回の旅行は新門司に5日下船のときは、台風12号が北九州を通過し、7日は台風13号が九州の南側を通過という天候を気にしながらの旅行でした。12号のために福岡市には行かずに大分の日田市を観光して西側に走り、佐賀、雲仙へと迂回しての観光に急遽変更しました。九州の北部の観光は次の機会にと思います。
福岡県北九州市小倉北区城内2-1
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小倉城の説明書
「細川忠興は、慶長5年(1600)関ヶ原合戦の功により、豊前国全域と豊後国ニ郡を領する30万石の大名として入国、中津城に在城した。居城を小倉に移すため慶長7年これまでの小倉の城を廃して新しく築城をはじめ、その年の11月に小倉城へ移った。城の中心は、天守閣のある本丸と松ノ丸、北ノ丸で、これを囲むようにニノ丸、三ノ丸を配した。天守閣の外観は五重、内部は六層(現天守閣は四重五層)である。これは、五重目の内部が上下二段に分かれているためで、五重目の下段までは、白壁が塗り込まれ、上段は黒塗りで張り出しになっている。また天守閣の屋根には、破風がなく、当時この天守閣は唐造りと称されていた。城のすぐ東を流れる紫川を天然の濠とし、この川をはさんで東西に曲輪を設け、城下町をつくった。城郭の総構えは、約8キロメートルにもおよび、これを濠で囲み、街道に通じる八か所に門を設けた。寛永9年(1632)細川氏は、肥後国に移り、替わって、播磨国明石城主であった譜代大名の小笠原忠真が小倉城に入り、15万石を領した。第二次長州征伐戦の慶応2年(1866)8月1日、小倉藩は、田川郡に撤退する際、小倉城に火を放ち、城内の建物はことごとく灰じんに帰した。天守閣は天保8年(1837)の火災で焼失、以降再建されなかった。現在の天守閣は、昭和34年鉄筋コンクリートで、再建されたものである。」









案内図











大手門跡



槻門跡





















































お疲れ様でした。
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中津城

2016-09-16 14:01:41 | 大分
2016年9月8日、行きました。九州3泊4日の最終日、富貴寺、宇佐神宮の後に寄りました。別府の鉄輪温泉に宿泊し、新門司港をめざし、北向きに観光しながら走りました。
「黒田孝高が築城し、細川忠興が完成させた。江戸時代の大半は、奥平氏が居城としていた。」
大分県中津市二ノ丁本丸
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黒田本丸の石垣と細川時代の石垣
『右側の石垣は、「折あらば天下人に」という野望を秘めた黒田孝高(如水)時代の本丸跡の石垣である。左側の石垣は、細川忠興(三斎)時代のもので、忠興自慢の石垣である。両時代の石垣とも花崗岩が多く使われている。中津城が歴史に登場するのは、天正15年(1587)孝高が豊臣秀吉に豊前の六郡を与えられ、山国川の河口デルタである中津の地を選び翌年築城を始めたことによる。軍事的にも西に山国川、南と東に大家川(のちに忠興の築いた金谷堤によってふさがれた)、北に周防灘を控えた要塞の地であった。同時に畿内への重要な港でもあった。」







黒田官兵衛(如水)と正室光姫
「戦国時代の名軍師と謳われた初代中津城主黒田官兵衛(如水)は織田信長に認められ、豊臣秀吉に頼ににされ、徳川家康におそれられた戦国武将でした。秀吉の九州征伐の武功で豊前国6郡12万3千石の大名となり、中津城を築城。秀吉野天下統一に貢献。文禄・慶長の役では黒田24騎と呼ばれた勇猛果敢な家臣団が大暴れし、天下分け目の関ヶ原の合戦では天下をも窺おうとしたと伝えられています。生涯57戦無敗、家臣を愛しみ育てた希代の武将でした。戦に明け暮れたその波乱の生涯には、いつもそばに正室「光姫」が寄り添っていました。戦国時代には世継ぎが求められ、家を守るため側室を置くのが慣わしでしたが、官兵衛は側室を置かず、才徳兼備と家臣たちに慕われた正室「光姫」ただ一人を生涯愛し続けたのです。晩年には和歌や茶道を嗜み、穏やかな日々を過ごした官兵衛と光姫は夫婦和合の麗しき姿として後の世までも伝えられています。』



























































奥平家の説明書
『奥平家が歴史の表舞台に登場したのは、奥平家初代貞能と貞昌(後の信昌)父子の頃からで、天正3年5月(1575)の史上名高い「長篠の戦」において貞能・貞昌父子が活躍しました。武田勝頼軍1万5千人によって長篠城が包囲され、長篠城主貞昌は僅か500人で籠城、激しい攻撃に耐え続けました。落城寸前に織田信長・徳川家康連合の援軍が到着、長篠城の西方約3キロの設楽原で、織田・徳川連合と武田軍が激突、武田軍は織田・徳川連合が築いた馬防柵や大量の鉄砲の前に大敗北しました。この長篠城籠城の功で、貞昌には新たな領地が与えられたほか、信長からは信の一字が偏諱され名を信昌と改め、家康の長女亀姫を正室として迎えました。享保2年(1717)奥平家七代昌成が中津10万石の領主として中津城に入りました。第15代昌遭までの155年にわたり中津を治め、明治維新・廃藩置県を迎えました。』

奥平神社

由来書
「ご神体は、奥平家中興の祖奥平貞能・信昌・家昌公三柱の御祭神をお祀りしています。」







蘭学と中津



中津大神宮









由緒書
「明治14年9月伊勢の神宮御分霊を奉迎鎮祭し、神宮豊前教会として鎮座」







お疲れ様でした。最後に北九州市の小倉城に行きます。
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宇佐神宮

2016-09-15 23:26:19 | 大分
2016年9月8日お参りしました。九州旅行3泊4日の最後の日です。別府の鉄輪温泉宿泊し、富貴寺にお参りした後に寄りました。
大きな神社です。境内がこんなに大きいとは思いませんでした。
大分県宇佐市大字南宇佐2859
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「宇佐神宮は全国に4万社あまりある八幡様の総本宮です。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた方です。神亀2年(725)、現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。これが宇佐神宮の創建です。」
宇佐市観光案内マップ

境内マップ

参道の土産物店









狛犬



でかい





由緒書

参道

宇佐参宮線26号蒸気機関車(大分県指定有形文化財)















神橋

大鳥居と参道

寄藻川





亀の立ち泳ぎ



狛犬



大鳥居

黒男神社
「大鳥居の外に鎮座されて大神をお護りされています。」

参道です。大きいですね。

宝物館

マップ





初沢池





斎館













絵馬殿











神宮庁

境内図

能楽殿

手水舎





日本一の水盤

参道

春宮神社





宇佐神宮社叢



若宮神社(重要文化財)

宇佐鳥居(大分県指定重要文化財)と西大門(大分県指定重要文化財)

















上宮









神井



説明書



八子神社

瓢箪

南中楼門(大分県指定重要文化財)







祈祷殿

百段

下宮への階段

下宮





























菱形池





能楽殿













歩き疲れ、暑いのでアイスクリームを食べました。





お疲れ様でした。次は中津城へ行きます。
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豊後高田市の富貴寺

2016-09-15 20:36:35 | 大分
2016年9月8日、九州旅行3泊4日の最終日です。鉄輪温泉のおにやまホテルに宿泊し、新門司港18時40分発の阪九フェリーで帰神までの観光です。別府から北向きに走り豊後高田市の富貴寺をお参りしました。
大分県豊後高田市田染蕗
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「蓮華山富貴寺(蕗寺)は、六郷満山のなかで、満山を統括した西叡山高山寺の末寺の一つ。天台宗に属します。寺伝によると、養老2年(718)仁聞菩薩の開基といわれています。昔この地に、高さ970丈もある榧の大木がありました。その影は数里を越え、朝は河内の塔御堂、夕には田原の釜割まで届いたそうです。竹田番匠が、この榧の木の一本で大堂を造り、仏像を刻んだといいます。その余材で牛を刻み、それでもまだ余材があったので、刻んだ牛に乗せて熊野に運んだところ、途中で牛が動かなくなりました。その地に建てたお堂が真木の大堂であると言い伝えられています。国宝・大堂は西国唯一の阿弥陀堂であり、九州最古の和様建築物です。内陣中央には本尊阿弥陀如来像(重文)が安置され、堂内の壁画(重文)は平安三壁画の一つに数えられています。境内には国東塔、石殿、板碑、笠塔婆、仁王像、梵字石などが多数あります。」
国東半島観光ガイドマップ

富貴寺の説明書









山門













大堂(国宝)
「平安後期、浄土思想阿弥陀信仰全盛期の建立で、総素木(榧){かや}造りです。三間四間の建物で周囲に廻縁があります。大面取りの方柱に舟肘木をのせ、その上に単層宝形造りの屋根をのせ、行基瓦葺ニ重繁垂木になっています。簡素な形、優美な屋根の線、それらがどっしりとした安定感を与えています。内部は板敷で、四天柱で内陣が区切られ、阿弥陀如来坐像が安置されています。須彌壇の格狭間の線はふっくらと優しい形をしており、小組格天井は端正です。大堂はこれまでに四回の大修理が加えられました。文和2年(1353)の墨書のある棟木の一部が残存しています。」











笠塔婆(大分県指定有形文化財)





国東塔(豊後高田市指定有形文化財)



















大権現













笠塔婆

五輪塔群

本堂

















お疲れ様でした。
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別府鉄輪温泉おにやまホテル

2016-09-15 15:31:29 | 温泉、旅館、ホテル
2016年9月7日に泊まりました。2016年9月4日夜に阪九フェリーに乗船、5日朝新門司港を下船。5日は大分の日田市の豆田町並み散策、福岡のうきは市の吉井の町並み散策、佐賀県の肥前浜宿、祐徳稲荷神社、島原城、雲仙温泉の富貴屋に宿泊し、6日は長崎市内観光で稲佐山観光ホテル宿泊、7日に佐賀城と市内観光、太宰府天満宮、福岡の朝倉市秋月城跡、そして、別府八湯の一つの鉄輪(かんなわ)温泉に来ました。塩化物泉でホテルの裏の「鬼山地獄」から引いた湯のお風呂です。地下一階の露天風呂と屋上の展望露天風呂があります。もちろん3回入りました。
宿泊プランは、特別室(和室/夕:部屋食)、【元気だ九州!!】【部屋食】  関あじ姿造りと特選ふぐ刺し 超得々会席。19440円です。九州復興割を使わせていただきましたので、思い切って申し込みしました。特別室は6つあり、他の階の部屋の2つ分の広さでした。かなり豪華です。
別府市鉄輪335-1
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外観



部屋、13畳半と広縁、踏み込み、前室もあります。





















おもてなし

窓からの景色、あちらこちらで湯けむりです。

左手の下が白池地獄です。



廊下





ロビー



吹き抜け



売店









夕食です。生ビールを飲見ながら舌鼓でした。
前菜

関アジ姿造りと地魚四種盛り

ふぐ刺し

スモークサーモンのカルパッチョと彩り野菜

和牛ロース溶岩焼



うなぎ釜飯



茶碗蒸し

椎茸すり身揚げ

吸物

デザート

夜景のごちそう。

吹き抜けの面























朝の景色

白池地獄

朝食は海上でのバイキング形式です。今回は和食にしました。



スタッフはどの部門も非常に丁寧な応対です。素敵なホテルですね。
コメント
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