旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

はわい温泉・羽衣と足湯

2016-07-26 14:19:45 | 温泉、旅館、ホテル
2016年7月24日、はわい温泉の羽衣に宿泊しました。
泉質は、塩化物泉 弱アルカリ性塩化物泉です。地域では唯一の自家源泉掛け流しとのことです。内湯と露天風呂があります。24時までと早朝5時から9時で、翌日は男湯と女湯が入れ替えします。到着後と夕食後、早朝と3回、温泉を楽しみました。岩風呂の露天風呂から東郷池を望めます。
プラン名は、【50歳から★じゃらん限定】お料理&お部屋グレードアッププランで、ゆで蟹半身が付きます\(^o^)/♪♪【湖畔側】眺望客室10畳(バス・ウオシュレット付き) 10,800円/人です。
鳥取県東伯郡湯梨浜町はわい温泉21-1
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外観



フロント

客室







おもてなし

窓からの景色







遠方、茶色の屋根のものが中国庭園の燕趙園で、左手は日帰り入浴施設の龍鳳閣です。

廊下

ロビー

売店

庭園













夕食です。会場での食事です。
鳥取地鳥の鍋物



刺身盛り合わせ

カニ

豆腐

サラダ

茶そば

天ぷら

茶碗蒸し

鯛釜飯

味噌汁

デザート

朝食です。ふぐの一夜干し、温泉卵、しじみ汁などです。

道路はヤシの木でハワイの雰囲気を出しています。



足湯は、はわい温泉街に4つあります。開湯は10時から21時です。泉温50度~56度です。
恵比寿の湯



寿老人の湯





弁財天の湯





福禄寿の湯



はわい温泉の由来書

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津和野、弥栄神社・太鼓谷稲成神社

2016-07-16 18:52:18 | 島根
2016年7月11日、津和野観光で弥栄神社と太鼓谷稲成神社をお参りしました。
鳥居





弥栄神社
「この神社に伝わる古典芸能神事で、鷺舞が行われ、国の重要無形民俗文化財に指定されています。」



鳥居



拝殿



本殿



大きな欅(津和野町指定天然記念物)







総霊社



由緒書



太鼓谷稲成神社
「日本五大稲荷の一つです。日本で唯一「稲成」と表記され、願望成就の願いが込められています。参道に連なる朱の鳥居が壮麗です。」
1400本あるとのことです。
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階段を登ります。





続きます。







まだ続きます。

ここから拝殿まで5分です。













まだまだ続きます。











やっと着きました。



























駐車場に戻ります。



歩いて暑いので津和野産ゆずソフトクリームを食べました。





あひるさんも休憩です。

高岡兄弟生誕地



お疲れ様でした。これで7月9日から岩国、柳井の町並み、山口市内、萩、津和野観光を終え、神戸に帰ります。
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津和野、本町通り・殿町・津和野カトリック教会・津和野町役場・藩校養老館

2016-07-16 18:46:08 | 島根
2016年7月11日、山口観光の後、津和野に寄りました。永明寺、乙女峠マリア聖堂とお参りした後、津和野の本通りを散策しました。

案内図



魚町通り

















本町通り、古くからの店が多い、立ち寄りながら歩きます。









華泉酒造場店舗兼主屋(登録有形文化財)

このあたりから登録有形文化財の建物が並びます。













































津和野カトリック教会(登録有形文化財)
「ゴシック様式によって建てられた畳敷きの教会で、鮮やかなステンドグラスが印象的です。」



大岡家老門

津和野町役場津和野庁舎(登録有形文化財)











藩校養老館(島根県指定史跡)
「森鴎外や西周など、数多くの優れた人材を輩出した藩校。藩校の一部は現在民俗資料館として使用されています。」









説明書



多胡家老門(島根県指定文化財)





ここから太鼓谷稲成神社にお参りします。
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津和野、永明寺・乙女峠マリア聖堂・光明寺

2016-07-16 18:37:32 | 島根
2016年7月11日、山口観光の後、津和野に寄りました。鷲原八幡宮、森鴎外旧宅、西周旧居の後に、自動車を移動し永明寺の駐車場に着きました。ここを起点に津和野の町並みを散策します。
永明寺(ようめいじ)(津和野町指定文化財)
「曹洞宗で、山号は覚皇山です。応永27年(1420)に津和野城主吉見頼弘によって創建され、開山は開祖道元禅師の法孫月因和尚です。江戸時代には曹洞宗の寺院として栄え、石見国一円の禅寺を統括し末寺70余を擁し、又禅道場としても有名で雲水200人を超え、寺領として虹ケ谷村に100石を領していた。吉見、坂崎、亀井氏といった歴代の津和野城主代々の菩提寺です。寺は度々火難にあったが、現在のものは享保14年(1729)に建てられたもので、仮普請のままながら畳数400枚を数える一大古刹です。大きな山門は元殿町にあった町門を移したものです。庭は幽邃そのもので殿様御なりの間から観ると一入情趣があります。寺全体が町の文化財指定です。」
拝観料は300円です。
島根県津和野町後田ロ107
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境内図



参道

山門

「覚皇山」の額
「明の帰化僧心越禅師(水戸光圀の師)の揮毫です。」

境内

説明書

弁天堂

中門

経蔵

鐘楼



本堂

魚鼓











































大島松渓絵

























森鴎外の墓



次は乙女峠マリア聖堂に行きます。
津和野駅です。







清水です。





ひんやりとした小川です。









キリシタン殉教乙女峠
「慶応元年(1865)長崎浦上の4千人以上の隠れキリシタンから少数の者が、当時フランス寺として呼ばれて今の浦上天主堂に入り「サンタマリアの御像はどこ。ここに居ります私たちは、皆、あなた様と同じ心でございます。」との有名な言葉によってキリシタン発見は、はっきり認められ、キリスト教の歴史の中に入りました。徳川250年間以上のきびしい迫害にも彼らの先祖たちがキリスト教を守りつづけたことを、全世界は感嘆して受け止めたのです。しかしキリシタンの喜びもつかの間で「浦上四番崩れ」といわれる弾圧が始まり、およそ3400人が見知らぬ土地に流罪の刑を受けました。鹿児島、萩、名古屋等の22カ所が選ばれ、その中に津和野も加えられました。浦上の信徒の指導者が津和野藩に預けられたのは、この地が神道研究で隆盛を当主亀井茲監が神道による教道教化に相当の自信を抱いていたからでした。藩出身の国学者である福羽美静の指導で津和野藩はキリシタンの信徒を改心させる務めを負いましたが、キリシタンの信仰は厚くたやすく改心させることは出来ませんでした。そこで彼等は最初とっていた方針を途中で変更し、拷問を加えて棄教させる方法をとりはじめました。キリシタンたちは、着の身着のまま、雪深い津和野に送られ、獄舎で冬を越すことは相当の拷問でした。日増しに加わる減食の責苦、乙女峠の一隅にある池の氷を砕いて裸にして投げ込み、息絶えだえの者を引き上げて、今度は火あぶりにして責めました。キリシタンの中心人物だった守山甚三郎はこの拷問が一番苦しかったと覚え書の中に書いています。また見せしめのために、裸のまま雪の中の三尺牢という小さな檻に押し込めるという拷問も行われました。守山甚三郎ともう一人の記録をよく残した高木仙右衛門は、生き残って長崎に帰り天寿を全うしました。5年間の拷問、責苦や殉教のありさまの月日を、毎日あてがわれた塵紙に忠実に詳しく書きました。二人の記録が最も大切な書として今日まで保存されています。明治25年(1892)ビリヨン神父は、乙女峠の隣の谷、蕪坂に葬られた殉教者たちの遺骨を一つの墓に集めました。また昭和23年(1948)、ネーベル神父(岡崎神父)は、乙女峠に記念聖堂を建て、そのまわりの殉教地が祈りにふさわしい場所となるよう心をこめ、力をつくしました。」












































悲しい歴史を見ました。神を信じませんが、信仰の自由、心は暴力では抑え込むことはできません。このブログを書く前日にはフランスでテロが発生したとのことです。本来、どの宗教の教えも不殺生なのに、異教徒を許さない、存在を否定するのはあまりにも悲しいですね。
光明寺
乙女峠に行く角地に建っています。
沿革について
「旧三本松城主吉見正頼公室少将大宮姫は信盛寺をこの地に建立す。後亀井政矩公因州より移封せられ藩祖茲矩公の岳父山中幸盛公の菩提の為鹿野城下に建立せる幸盛寺を此の城下に建て祖父の志を継ぐ。 後又故ありて寛永12年(1635)信盛寺と合併す。 承応2年(1653)亀井氏3代茲政公母君の菩提の為に光明寺を撫坂口に建立する。慶応2年(1866)に信盛寺に合併して光明寺と称しここに法燈を継続する。」
山門

説明書

本堂



鐘楼



吉見正頼公夫人の墓



安野光雅美術館

本町通りにいきます。
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津和野、鷲原八幡宮・森鴎外旧宅・西周旧居

2016-07-16 18:31:48 | 島根
2016年7月11日、9日の岩国、柳井の町並み、山口市内、湯田温泉宿泊、10日は萩を1日観光し、萩温泉宿泊、萩から約1時間走り、神戸に帰る途中に津和野に寄りました。
津和野は江戸時代、津和野藩の城下町として栄えた町で、山陰の小京都と言われています。
自動車を道の駅 津和野温泉なごみの里に止めて、まず1つ目の散策です。





案内図

津和野川に架かる大陰橋を渡ります。

津和野川



光園寺
鷲原八幡宮の参道の入り口にあります。曹洞宗の寺院です。



燈籠

流鏑馬の馬場の説明書
『この馬場は鎌倉時代の原形を留めている重要な文化財で島根県指定史跡になっています。吉見正頼が永禄11年(1568)に鶴岡八幡宮の馬場を模して造ったものと伝えられ、嘉永2年(1849)に大改修が行われていますが、地形の制約も受けて横馬場となっています。流鏑馬は、明治以降途絶えていましたが昭和51年4月からは、小笠原宗家30世清信氏の指導のもと再開され、現在は小笠原宗家31世清忠氏以下同門諸氏の指導のもと今日に至っています。この神事は天下泰平、五穀豊穣を祈願するもので、全長270mの馬場を、鎌倉時代の狩装束を身につけ、疾走する馬上から、射手が「一の的」「ニの的」「三の的」を次々に仕留めていきます。この神事(津和野町指定無形民俗文化財)は毎年4月第二日曜日に開催します。』





鷲原八幡宮
主祭神は、誉田別命(第15代応神天皇)、息長足姫命(神功皇后)、玉依姫命(神武天皇の御母)、菅原道真公、吉見頼行公(初代津和野藩主)などです。
「このお宮の起源は天暦年中(947~)に山根六左衛門が宇佐八幡宮を勧請した時に始まるといわれています。弘安5年(1282)、吉見頼行公が今の津和野町木部木曽野に仮の居を定め鶴岡八幡宮を勧請しました。社殿が吉見氏により木曽野からこの地に移され改築されたのは三本松城が完成した嘉慶元年(1387)三代吉見頼直公の時代でした。爾来三本松城の守護神として吉見、坂崎、亀井の歴代城主の崇敬厚く、亀井氏の時代には藩中の三大社と称稱される神社の中の最高位に置かれ他のニ社は祇園社(今の弥栄神社)と武霊社(今の津和野神社)であります。」
島根県津和野町鷲原イ632-2
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鳥居





由緒書

手水舎

楼門(重要文化財)
「一間一戸の四脚門で、屋根入母屋造茅葺、正面に片流れの向拝(檜皮葺)を付ける。楼門の両脇には同じ梁間で桁行2間、切妻造の翼廊(屋根杮葺)を延ばす。」



狛犬
「社前の石彫唐獅子は藩の彫刻家大島松渓の名作です。」



拝殿(重要文化財)
「正徳元年(1711年)の建立で、入母屋造、鉄板葺き、桁行(間口)3間、梁間(奥行)2間。内部は畳敷きで、柱間装置は格子戸および格子窓とする。南正面に潔斎橋、東側面に神饌所が付属する。」



本殿(重要文化財)
「石垣を築いて一段高くなった敷地に建ち、拝殿との間には石階がある。三間社流造、杮葺きで、正面に向唐破風造の向拝を設け、外周に覆屋(おおいや)を構える。」

稲生社

淡嶋神社









自動車を移動し、森鴎外記念館に行きます。
月曜日のため、休館です。

紙漉き場

森鴎外旧宅(国指定史跡)
「幼少期を津和野で過ごした明治の文豪・森鴎外の家です。」
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説明書

案内図

常盤橋を渡って、左に進みます。



西周(にしあまね)旧居(国指定史跡)
『「哲学」「感覚」などの言葉を生みだした明治の啓蒙思想家・西周の旧居です。』



説明書













戻ります。

山の頂上が津和野城跡です。

望遠で

自動車を移動し、永明寺の駐車場に行きます。


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萩温泉・萩本陣

2016-07-15 19:52:53 | 温泉、旅館、ホテル
2016年7月10日、萩本陣に泊まりました。9日は岩国、柳井の町並み、山口市内、10日は朝から1日萩市内観光でした。萩本陣はJR東萩駅の東500m程の松陰神社の少し北側の小高い丘に位置しています。宿泊プランは、【一押し!SP】◆館内利用券1000円分付◆新緑の息吹とともに旅ごころも芽吹いてきた方へ♪本丸和室です。部屋条件:本丸 和室10帖◆ 10.00畳+踏込み。9980円/人です。
5本の源泉を有しており、内湯、露天風呂、サウナ風呂、寝風呂、立風呂、壺風呂、薬草湯など7つの湯船を楽しめます。アルカリ性低張性高温泉です。
山口県萩市椿東385-8
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外観

フロント

ロビー



売店



廊下



お風呂の休憩室





エレベーターホール

室内

10畳と縁

おもてなし、萩利休・おいでませ・ちびきゅう

窓からの景色、萩の町です。



夕食です。ダイニング会場です。





おしながき

前菜、旬の味覚盛り

ひじき麺

むつみ豚陶板焼き

造り

長州鶏ハリハリ鍋

蓋物、帆立茶巾包み、お椀も素敵です。

揚物、ふぐ唐揚げ

茶碗蒸し

もずく赤出汁

なめらかプリン

バラも御馳走です。

部屋からの夜景

朝食はバイキング形式です。パン食中心にしました。和食の品物も結構あります。

リーズナブルな料金で、お風呂を楽しめて、景色も良くて、料理もおいしく頂きました。部屋もよくて、スタッフの応対もいいです。又、泊まりたいホテルです。
11日、津和野によって神戸に帰ります。
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萩、常念寺・野山獄跡と岩倉獄跡・笠山展望台・風穴

2016-07-15 19:10:17 | 山口
2016年7月10日、萩観光に行きました。16時前になりましたので、ホテル到着の時間調整を含め、常念寺と笠山展望台に行きました。
まずは常念寺です。
途中に野山獄跡がありました。
野山獄跡と岩倉獄跡
「正保2年(1645)9月17日、酒に酔った大組藩士・岩倉孫兵衛が、道ひとつ隔てた西隣りの同じく大組藩士・野山六右衛門の屋敷に斬り込み、家族を殺傷するという事件が起こった。藩は野山宅に岩倉を幽閉し、後に斬首の刑に処したが、喧嘩両成敗ということで両家は取り潰し、屋敷は没収された。後に藩は両家跡を牢獄とし、切り込んだ岩倉に非があるので、士分の者を収容する上牢を野山獄、庶民を収容する下牢を岩倉獄とした。」



見取り図





常念寺
「天文元年(1532)、開山酉阿、安部家貞(吉見家の家臣)を開基として建立され、安部氏の法名常念をとって寺号としました。」
山口県萩市下五間町17
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表門(重要文化財)
「桃山時代(1573-1614)建立、四脚門、切妻造、両袖潜戸付、本瓦葺です。」





本堂









笠山































風穴、笠山の麓の明神池のところにあります。
「外気温が28度くらいですが、岩穴から出てくる風は15度ということで、その附近はひんやりとしており、近づけは穴から冷気が出ています。天然のクーラーです。」



説明書

隙間から冷気です。



厳島神社







明神池は海と繋がっているので、海の魚が泳いでいます。













ここからも冷気が出ています。

ここで萩観光の1日を終え、ホテル萩本陣に向かいます。
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萩の城下町、旧久保田家住宅・菊屋家住宅・木戸孝充旧宅・青木周弼旧宅             

2016-07-15 19:06:37 | 山口
2016年7月10日、萩観光です。堀内地区から外堀を通り、東側の城下町に進みます。
旧久保田家住宅(萩市指定有形文化財)
『旧久保田家は、旧御成道(参勤交代の際、大名行列が往来したメインストリート)沿いに位置し、幕末から明治時代前期にかけて建築された町家です。久保田家は、初代庄七が江戸時代後期に近江から萩に移って呉服商を開き、2代目の庄次郎から酒造業に転じたと伝えられています。以来明治30年代まで造り酒屋「あらたま酒店」を営業していました。明治時代には、来萩した名士の宿所としてもしばしば利用されています。』
萩市呉服町1丁目31-5
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菊屋家住宅(重要文化財)
「江戸中期の601-1700頃建築、萩藩御用の豪商の家。主屋はかなり改造されているが、全国でも最古に属する大型の町家としてきわめて貴重である。主屋は、桁行13.0m、梁間14.9m、切妻造、北面庇、東面庇及び突出部、南面庇附属、南面突出部 桁行6.7m、梁間7.1m、切妻造、桟瓦葺である。」





































城下町説明書

木戸孝充旧宅(国指定史跡)
「この旧宅は、木戸孝充(桂小五郎)の実父、和田昌景の家です。木戸孝充は天保4年(1833)この家に生まれ、8歳の時に近畿の桂家に養子にいって桂小五郎と名乗りましたが、生まれてから嘉永5年(1852)に江戸に出るまでの約20年間をこの家で過ごしています。その後、大正15年(1926)に子孫の木戸幸一氏より当時の萩町に寄贈されたもので、旧宅は桟瓦葺ニ階建です。木戸孝充が誕生した部屋や庭園など、当時の姿をよく残していたため、昭和7年(1932)に国の史跡として指定されました。」



















































青木周弼旧宅(国指定史跡)
「青木周弼は幕末当時、日本屈指の蘭学者でした。彼のもとには全国から学生が多く集まるようになったため家敷地を安政6年(1859)頃、現在の場所に移転しました。以前住んでいた背中合わせの土地には弟の研蔵が住み、学生たちが寄宿していました。この建物は、江戸屋横町に面した表門・仲間部屋、主屋と土蔵からなります。主屋は来客用の部分と内向き(日常生活の場)とに分かれています。玄関からまっすぐ繋がる南向きの8畳の座敷は来客用です。座敷の北側に6畳の間は、家の主人の内向きの座敷です。さらに北側には台所もあります。また、西側には便所がありますが元々は別棟だったと考えられています。仲間部屋は青木家の家来が住んでいたと考えられます。3畳と4畳半の2室があり、これに勝手が付いています。土蔵の床下からは約1200枚の1分銀が発見されました。」



























再び通りに





晋作広場

晋作像





田中義一誕生地の石碑



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萩の堀内地区、旧周布家長屋門・旧繁沢家長屋門・北の総門

2016-07-15 19:04:21 | 山口
2016年7月10日、萩の外廻りを観光しいよいよ萩城下町周辺です。まずは菊ケ浜海水浴場の無料駐車場に自動車を止めます。日曜日ということで、地元の家族連れが止めていますので満車状態です。
案内図

萩市堀内地区の重要伝統的建造物群保存地区の看板

「堀内地区は慶長13年に毛利輝元が指月山に築城した萩城三の丸にあたるほぼ全域で、藩の諸役所と毛利一門をはじめとする大身の侍屋敷が建ち並んでいます。近世城下町の侍屋敷としての地割をよく残し、土塀越しにみえる夏蜜柑とともに歴史的風致を形成しています。」
旧周布家長屋門(萩市指定有形文化財)
「周布家は、萩藩永代家老益田家の庶流で、石見国周布郷の地頭職として周布村に住し、周布を氏としたことから始まる。藩政時代は大組士の筆頭として1,530石余の知行地を長門市渋木に領していた。この長屋門は同家萩屋敷の表門で、平屋建本瓦葺き、東西の桁行24.91m、東端から北に折れ曲がった部分の桁行11.2m、梁間3.96mの道路に沿った長い建物である。中央から東寄りの所に、2.46m幅の門を構えて開き扉を設けている。建物の外観は腰部を下見板張りとし、基礎に見事な切石積があり、上部は白漆喰大壁造である。江戸中期の代表的な武家屋敷長屋の様式を残している。」



















旧繁沢家長屋門(伝統的建造物)
「繁沢家は阿川毛利家(7,391石余)の分家で萩藩寄組(1,094石余)に属し、給領地を大津郡三隅村(現在の長門市)と阿武郡小川村(現在の萩市)などに持っていた。建物は桟瓦葺切妻造、桁行35.5m、梁間4.9m、中央から左寄りに門を開けている。同家藩政初期の当主繁沢就充は藩要職として活躍していた。」







旧益田家物見矢倉(伝統的建造物)
「益田家は、阿武郡須佐(現在の萩市須佐)に領地を持っていた萩藩の永代家老である。幕末の当主親施は、13代藩主毛利敬親を助け藩政改革を行ったが、元治元年(1864)、禁門の変の責任者として切腹させられた。高い石積の上につくられた矢倉(武器などをいれた倉)は長さ11m、奥行約5mの平屋建てで、この矢倉の前面に広がっていた馬場の見張りに使われていたと言われている。」









北の総門(複元)
『北の総門は、三の丸(堀内)の入口である総門の一つです。総門は北、中、平安古の3か所があり、あわせて「大手三つの門」と呼ばれていました。昼間は門番が常駐して出入りする者を監視し、夜は門を閉じて鑑札を持った者しか通れませんでした。元文年間(1739-40)の絵図によると、北・中の総門の前に、新たに枡形と南北の船着場が描かれています。枡形と土橋には土塀が巡り、船着場に続く箇所は食い違いになっています。この時期に北・中の総門周辺が再整備されたことがうかがえます。』



















外堀から城下町に進みます。
田中義一銅像





通りです。













駐車場にもどります。
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萩、鍵曲・旧田中別邸

2016-07-15 19:00:28 | 山口
2016年7月10日、萩観光です。萩駅舎、大照院をお参りした後に来ました。
重要伝統的建造物群保存地区の平安古地区にある旧田中別邸に向かいます。
「平安古地区は、橋本川に沿った東西約150m、南北300mの範囲約4.0haで、藩政期の地割をよく残しています。藩政時代、武士のうち重臣の多くは三の丸である堀内に住んでいましたが、平安古、江向、土原への開墾が進むに並行して数多くの武士が屋敷地を構えていきました。平安古には毛利一門の下屋敷をはじめ大身武士、中級武士の屋敷が建ち並んでいました。この地区も明治時代以降主屋が取り壊され、土塀のみが藩政期の姿を残すところが多い中、旧田中別邸の北隣に位置する坪井九右衛門旧宅は主屋のほか長屋門、土塀などを残しており当時の屋敷構えをうかがうことができます。」
鍵曲(かいまがり)
「道を鍵の手に曲げた城下町特有の街路です。」
自動車で通りましたが、非常に狭く、対向車が来ればバックして譲らないと通れません。
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旧田中別邸(伝統的建造物)
「敷地は藩政時代の毛利筑前下屋敷(石高約16,000石)に当たります。明治以降は萩に夏みかんの栽培を広めた小幡高政により、現在の主要建物の骨格が完成されたと考えられています。その後大正後半からは総理大臣を務めた田中義一の所有となり主屋の増改築が行われ、文部大臣などを歴任した田中龍夫の没後、遺族により平成10年5月23日付けで萩市が土地と建物の寄贈を受けました。構造は主屋は南側より平屋部、茶室部、五松閣と繋がる。平屋部は桁行8.0m、梁間9.9m、入母屋造、西面に座敷部突出、桁行3.0m、梁間4.9m、桟瓦葺、東面に便所棟附属。茶室部は、桁行8.0m、梁間4.9m、切妻造、桟瓦葺。五松閣は、桁行13.1m、梁間7.1m、一部ニ階建て、入母屋造、桟瓦葺、東西に浴室・便所附属。土蔵は、桁行5.8m、梁間3.9m、二階建、切妻造、西面庇付、桟瓦葺。」
萩市平安古164
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炊き場の天井

























橋本川より船が入れるようになっています。







五松閣



































自動車で移動し、萩城下町周辺に向かいます。菊ケ浜海水浴場駐車場に止めます。
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