旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

大山祇神社、今治市

2019-12-26 23:08:23 | 愛媛
2019年12月25日、愛媛観光の帰路にお参りしました。
説明書より「大山祇(おおやまづみ)神社は、瀬戸内海のなかでも特に景勝の地である芸予海峡の中央に位置して、大小の島々に囲まれた国立公園大三島に、日本最古の原始林社叢の楠群に覆われた境内に鎮座している。御祭神は大山積大神一座で天照大神の兄神に当らせられる。天孫瓊々杵尊御降臨の際、大積大神、またの名吾田国主事勝国長狭命(大山積神の擬神体)は女木花開耶姫尊を瓊々杵尊の后妃とし、国に奉られたわが国建国の大神であらせられるが、同時に和多志大神と称せられ地神・海神兼備の霊神であるので日本民族の総氏神として古来日本総鎮守と御社号を申し上げた。大三島に御鎮座されたのは、神武天皇御東征のみぎり、祭神の子孫小千命が先駆者として伊予二名島(四国)に渡り瀬戸内海の治安を司どっていたとき芸予海峡の要衝である御島(大三島)に鎮祭したことに始まる。本社は社号を日本総鎮守・三島大明神・大三島宮と称せられ歴代朝廷の尊崇、国民一般の崇敬篤く奈良時代までに全国津々浦々に御分社が奉斎せられた。御分社は、全国に1万余社祀られている。延喜式には名神大社に列し、伊予国一の宮に定められ、官制に拠り国幣大社に列せられた四国唯一の大社である。」
愛媛県今治市大三島町宮浦3327
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道の駅「御島」に自動車を止めてお参りです。







鳥居

狛犬



斎田
「大山祇神社伝統の神事、御田植祭(旧暦5月5日)と抜穂祭(旧暦9月9日)は、この神田に於て行われます。」

参道

説明書

総門・翼舎







御桟敷殿

狛犬



参道

神馬舎

馬神社

斎館

雨乞の楠(天然記念物)
『日本最古の楠(樹齢3000年)で後冷泉天皇の御代(900年前)伊予国守藤原範国は能因法師を使者として祈雨の為参拝させた。その時「天の苗代水にせきくだせ 天降ります神ならば神」と詠じ幣帛に書付け祈請したところ伊予国中に三日三夜雨が降ったと伝えられている。』

社務所

十七神社(愛媛県重要文化財)
「長棟造にて平安様式が残されており、当大山祇神社はいよ国一の宮でありますので、ここに国中の神々を祀った建物です。特に内陣には木彫の御神体が安置されております。」



手水舎

乎知命(おちのみこと)御手植の楠
「御島(大三島)に祖神大山積大神を祭った乎知命の御手植楠(樹齢2600年)と伝えられ古来御神木として崇められている。」



葛城神社・祓殿神社・伊予国総社





伊藤博文公祈念楠樹

狛犬



随神



拝殿(重要文化財)
「江戸前期(1615-1660)建立、桁行七間、梁間四間、一重、切妻造、檜皮葺。」



本殿



廻廊







神輿庫

末社





下津社





上津社

姫子邑神社

河野通有兜掛の楠



宝篋印塔(重要文化財)
「鎌倉後期(1275-1332)築造、時宗の開祖一遍上人は河野通広の子として松山宝厳寺で生まれ、三島水軍河野通信の孫に当り、一遍上人絵伝に知られる通り大三島宮の参拝の折奉納したのです。」
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今治城

2019-12-26 21:22:07 | 愛媛
2019年12月25日、愛媛観光の1泊2日で帰路に立ち寄りました。
今治上沿革「藤堂高虎公は1600年(慶長5)関ケ原の合戦に東軍徳川家康方の先鋒として戦功をたて伊予半国20万3千石を与えられた当時諸大名中随一の築城の権威であった高虎公は内海において海陸の要衝である今治を城地と定め渡邊勘兵衛を築城奉行に木山六之丞を普請方として1602年(慶長7)より1604年にかけて城壁高さ六間乃至八間を築き、本丸には五層の天守閣、その他には櫓城門等20数棟を配し、三重の城濠をめぐらして、これに海水を導入して、当時としては他に類例のないいー大平城を構築した。また公は家康に信任され1608年、伊勢の津に国替え増封されたが、天守閣は公が家康から丹波亀山の築城を命じられた時、献じて亀山城に移築した。その後、今治城は義子高吉が二万石で維持し、更に1635年(寛永12)に伊勢長島より久松定房が入城し、後三万五千石で世々十代を経て明治維新となった。現在の天守閣は1980年(昭和55)10月10日、今治市制60周年記念として再建され、往時の偉容を再現するに至った。」
愛媛県今治市通町3丁目1−3
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鉄御門





































吹揚神社
「往古より今治市内に鎮座していた神明宮、蔵敷八幡宮、厳島神社、夷宮の四社を廃藩の際旧社地の故を以て城内に合祀社殿を造営し、1872年(明治5)11月19日遷座旧城名をとり吹揚神社と称す。」





神門

狛犬



手水舎



拝殿







本殿



吹揚稲荷神社















住吉神社・猿田彦神社











麁香神社



土居神社








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大宝寺、松山市

2019-12-26 18:46:51 | 愛媛
2019年12月25日、道後温泉のホテル・ルナパークに宿泊し、お参りしました。
説明書より『古照山薬王院、本尊は薬師如来である。寺伝によると、701年(大宝元)に小千(越智)伊予守玉輿が創建したと伝えられている。この寺の開創説話に、「角木長者」がある。この地の豪族角木長者は、この寺の薬師如来に祈り、子宝を得た。その娘を露と名付け、お袖という乳母をやとって大事に育てたが、お袖の乳が出なくなり、再び願をかけ、乳が出るようになった。お礼に、長者が本堂を建立した。また、露が15歳のとき病に臥し、お袖が、自分の命と引き換えに姫の延命を薬師如来に祈ると、露は全快、お袖は急病で世を去った。お袖の遺言によって植えられたのが境内にある「うば桜」である。江戸時代に松山藩主の祈願所となり、1685年(貞享2)には松平四代藩主定直の時代に本堂の修理を行っている。「大宝寺本堂」は、愛媛県内最古の建造物で、国宝である。』
愛媛県松山市南江戸五丁目10-1
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寺標





夢殿

長命坂





手水舎

鐘楼堂



うば桜(エドヒガン)



大師堂

乳母桜像

古照山由緒書

本堂(国宝)
「本堂は、垂木間隔が柱間ごとに違っていることから平安時代末期の阿弥陀堂形式を用いた鎌倉時代前期の建立であろうといわれる。県下で最も古い和様の建造物である。桁行三間、梁間四間の寄棟造、二軒、本瓦葺である。柱はすべて円柱で四隅の柱の上にだけ舟肘木を用いている。正面両南端及び背面中央に板扉を持ち、内部は板張りで、南側一間の床を二寸ほど下げて外陣とし、その奥は内陣となる。堂内に安置された厨子は、正面三間、軒唐破風付、こけら葺、和洋に禅宗様の手法を加味した優れた作品である。」


















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松山城

2019-12-26 17:39:10 | 愛媛
2014年3月20日
標高132mの勝山山頂に立つ松山城(史跡)は、大天守に複数の小天守が連結する連立式天守をもつ平山城[ひらやまじろ]です。寛永4年(1627)に完成したとされています。乾櫓[いぬいやぐら]、野原櫓、隠門[かくれもん]など築城当時から残るものはすべて重要文化財に指定されています。安政元年(1854)に再建された天守(重要文化財)からは、石鎚山から伊予灘までが一望できます。小雨のため今ひとつでした。
2019年12月24日、再訪問。
松山市丸之内
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黒門口





槻門跡(けやきもんあと)

松山城二之丸史跡庭園









松山城山樹叢



本丸案内図2019.12.24補正







戸無門、改修中です。
「本丸の大手登城道に設けられた高麗門です。門は、両脇の寄掛柱を石垣にもたせ、脇戸はありません。江戸時代から戸無門の名で呼ばれており、鏡柱に扉を吊る肘壺の痕跡もないので、創建当初から扉を持たなかったものと考えられています。建築年代は明らかではありませんが、寛永から正保年間(1624~1648)の建立になるものと推定されています。また、1800年(寛政12)に建替えられたことを示す棟札が残されています。」

2019.12.24補正



太鼓櫓



2019.12.24補正



巽櫓

松山城築城の説明





太鼓門

2019.12.24補正





井戸、築城時に谷だった場所を埋め立てるのにあわせて、泉を掘り下げ、石を積み上げて造られたと伝えられています。深さは44.2m、水深9mあり、戦前まで釣瓶が備えられ、冷水を飲むことが許されていました。

玉薬土蔵跡

松山城説明板



天守と小天守
「天守は三重三階地下一階の層塔型天守で、黒船来航の翌年落城した江戸時代最後の完全な城郭建築。また、現存12天守の中で、唯一、築城主として瓦には「葵の御紋」が付されている。小天守は、二重櫓、小天守東櫓とも呼ばれ、大手(正面)の二之丸・三之丸方面を監視防衛する重要な位置にある。天守、小天守、隅櫓を渡櫓で互いに結び、武備に徹したこの天守建造物群は、わが国の代表的な連立式天守を備えた城郭と言われている。」

2019.12.24補正











































紫竹門2019.12.24補正
「紫竹門は、本丸の大手と搦手を仕切る脇戸付高麗門で、本壇北側にあった中仕切門とあわせ、搦手を固める重要な門です。門の両側には、それぞれ紫竹門東塀と同西塀が接続し、搦手に備えるため北を正面としています。門の前面、小天守下に紫竹が植えられていたことからこの名が付けられ、また扉の上下は堅格子となっており、そこから外を覗き見る工夫がなされています。創建時期はわかりませんが、紫竹門東塀並びに同西塀とともに、1784年(天明4)の落雷で天守とともに焼失し、嘉永年間(1848~1854)に再建されたと考えられています。」















乾門東続櫓2019.12.24補正
「乾門東続櫓は、乾門の東側に設けられた平櫓で、乾門とあわせて、搦手の防備を担っています。乾門とともに、慶長年間(1596~1615)の築城時に、正木城(伊予郡松前町)から移築されたと伝えられています。焼失前には、1768年(明和5)と墨書された棟札、1784年(天明4)頃に修理したと考えられる墨書された棰端の漆喰下地板が見つかっていたことから、幕末までに何回かの修理が行われていたことが分かっていた。」



野原櫓2019.12.24補正
「野原櫓は、本丸の北に配置された二重櫓で、小筒櫓とともに城の北側に対して防衛を担う櫓です。太鼓壁や天井板が張られないことなど簡素で機能的な武装建築の手法が見られます。入母屋造の屋根の上に、物見を載せた望楼型二重櫓で、全国で唯一の現存事例です。望楼型の櫓が発展とて天守が生まれたとする天守望楼起源説を裏付ける資料として注目されています。この櫓は騎馬櫓とも呼ばれ、慶長年間(1596~1615)の築城時に建てられたと伝えられており、城内最古の建造物の一つと考えられています。幕末までに何回かの修理が行われ、その年代を示す資料として墨書された棟札があります。」

艮門東続櫓(うしとらもんひがしつづきやぐら)
「艮門と同東続櫓は、本丸の北東(艮方向)に配置された脇戸付の櫓門と二重櫓で、城の東側の防衛を担っています。また、ここから出撃し、大手や搦手に迫った寄手の背後を急襲するという役割も担っていたと考えられます。創建時期は判りませんが、明治時代に取り壊されたようで、194年(昭和59)3月に復元されました。」



伯爵久松定謨頌徳碑

馬具櫓



松山城からの景色、小雨で残念。








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浄土寺、愛媛県松山市

2019-12-26 13:41:08 | 愛媛
2019年12月24日、愛媛観光に行きました。浄土寺にお参りです。
説明書より『真言宗豊山派の寺院で、四国88か所の49番札所である。西林山三蔵院と号し、本尊は釈迦如来である。寺伝によると、天平年間(729~749)、僧慧明が創建し、孝謙天皇の勅願所となったという。960年(天徳4)、僧空也が諸国遍歴の途中、3年ほど滞在し、自刻の木像を遺したと伝えられる。1192年(建久3)には、源頼朝が、伊予の豪族河野通信ともども家門の繁栄を祈り、堂塔の修理に力を与えている。境内に66坊の末寺を有する巨刹だったが、1416年(応永23)、兵火で堂宇をことごとく焼失し、1484年(文明16)に河野通宣が再建して寺の景観は旧に復した。その後、室町時代末期の兵火、更にまた、1600年(慶長5)には河野氏の残党が毛利軍とともに久米で戦った「久米の役」によって衰弊したが、その後、法印宥雄がこの寺の再興に尽くしたという。』
愛媛県松山市鷹子町1198
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仁王門

















弁財天

手水舎

鐘楼堂

本堂(重要文化財)
「室町後期1484年(文明16)建立、桁行五間、梁間五間、一重、寄棟造、本瓦葺。」







庫裏





大師堂













阿弥陀堂





愛染堂







仏足石
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三島神社・医王寺、愛媛県東温市

2019-12-26 13:39:48 | 愛媛
2019年12月24日、愛媛観光でお参りしました。神戸を出発して明石海峡大橋を渡り、淡路、徳島自動車道、松山自動車道と走り、石鎚山SAで昼食です。
えひめ鯛のみかん卵ユッケ丼セット

川内ICで降りて、最初の目的地の三島神社です。
三島神社
「南北朝時代の建立とされ、三間社流造としては県下最古のもので、本社である大山祇神社の本殿とよく似ていて、原型をなすものだといわれています。また、神社の随身門には、同時代の作といわれる矢大神、左大神二体の随身立像があります。」
愛媛県東温市則之内
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社標と鳥居



狛犬



随神門



手水鉢

拝殿



























本殿(重要文化財)
「室町前期の14世紀中期(1301-1400)建立、三間社流造、銅板葺。」





末社

















医王寺
説明書より「702年、行基菩薩により開基、自ら薬師如来を刻み安置する。726年、聖武天皇の勅をうけ官寺と言われる。当時62坊を司る大寺であった。807年、弘法大師留錫、のち真言宗の寺となる。1071年、源頼義により堂宇再建される。その後、豪族河野氏や松山城主加藤嘉明、松平(久松)家代々の庇護のもとに隆盛した。1534年作の厨子は室町時代の秀作とされ、国指定の重要文化財となっている。」
愛媛県東温市北方1551
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仁王門

仁王像



鐘楼堂



本堂











厨子説明書(拝観は要予約)


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松山市内散策、愛媛県庁・萬翠荘・大街道

2016-10-22 23:16:50 | 愛媛
2016年10月18日、道後温泉に宿泊し市内の寺院などを観光し、神戸に帰る前に萬翠荘と大街道をぶらつきました。
愛媛県庁
「1929年に本館が完成。1980年に別館が完成。そして、1982年に県議会議事堂が完成し、現在にいたる。」







伊予鉄道





萬翠荘(旧久松家別邸)管理人舎(重要文化財)
愛媛県庁の東側にあります。「大正11年(1922)建築、木造、建築面積43.91㎡、寄棟造、スレート葺。」

庭園

案内図

















萬翠荘(重要文化財)
「大正11年(1922)建築、鉄筋コンクリート造、建築面積397.76㎡、2階建、地下1階、寄棟造、東南隅尖塔・西北隅附属屋付、南面車寄附属、スレート葺及び銅板葺。萬翠荘は、旧松山藩主の久松家が大正11年に建設したもので、松山城山の南麓に所在し、中腹に本館、平地に面した敷地南面に管理人舎を正門に隣接して建てる。萬翠荘の設計は、建築家の木子七郎が行い、木彫家の相原雲楽や洋画家の八木彩霞、装飾硝子作家の木内真太郎など、当時各分野で活躍していた芸術家の参加を得て建設された。本館は、マンサード屋根や連続アーチのバルコニーを持つ外観から、内部の装飾まで、フランス・ルネサンス様式を基調とした意匠が用いられ、各部屋の使用方法も含めて一貫した西洋式で計画されたことで、高い統一性をもつ意匠に結実している。萬翠荘は、本格的なフランス・ルネサンス様式の意匠をもつ様式建築であり、日本人建築家の素養を示す優れた意匠の建築作品の一つとして、高い価値が認められる。」

















































大街道に進みます。





大街道



















ここで昼食



2階にある「目利きの銀次」24時間営業の店舗です。





まぐろとたたき丼、赤出汁付きを食べました。



食事も済ませたので、神戸に帰ります。2泊3日の旅、楽しく観光しました。
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石手寺(松山市)

2016-10-22 22:29:41 | 愛媛
2016年10月18日お参りしました。前回に道後に来た時に時間がなかったので、今回は来ました。石手寺の無料駐車場に車を止めました。
愛媛県松山市石手2丁目9番21号
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石手寺由来
パンフレットより「法隆寺文様の瓦が出土し法隆寺系統の荘園に立脚して670年頃に最初の堂宇が建立された。寺伝には聖武天皇の神亀5年に伊予の大守越智玉純が悪夢を蒙り天人、25菩薩が来臨せらるるのを見てこの地を浄域として12社権現を祀り勅願所と定めたとある。以来1200有余年その状を古式により毎年再現して「お練り供養」として諸仏菩薩を供養している。式典に使用する古面、装束のうち菩薩、天人、獅子等は平安、奈良、鎌倉の諸代にわたる傑作で寺宝として宝物館に安置せらる。本尊は薬師如来で天平元年行基菩薩の開眼による。平安朝より室町期に至る間が最も隆盛期で寺域東西数十丁七堂伽藍66坊を有したが、永禄9年長曽我部氏の兵火のため十ニ間四面重層の金堂は焼失した。現在、「鎌倉の昔を今に寺の鐘」と詠まれるように鎌倉から室町初期の国宝重要文化財7件他多数の文化財を擁し、地方には稀有の古刹である。また「伊予の秋石手の寺の香盤に海の色して立つ煙かな」(与謝野晶子)と詠まれ四国大師信仰の中心である。」





































地蔵院





境内図

仁王門(国宝)
「鎌倉後期の文保2年(1318)建立、三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺。蛙股は運慶の作と云われその繊巧秀美なることは当代の傑作といい、また左右の仁王像(愛媛県指定文化財)は湛慶の作といわれています。」















鐘楼堂
「仕合わせの鐘で、奪い合いでなく与え合う仕合わせの鐘である。」







阿弥陀堂





三重塔(重要文化財)
「高さ24.1m、全体の容姿はよく均整が取れ、鎌倉時代の特色を伝える建物である。なぜか一階部分のみ白壁塗りがある。境内の中心に位置し、五つの仏から成る曼荼羅世界を構成する。」























本堂(重要文化財)
「国宝の仁王門とほぼ同じ時期の建築とされているが、嘉永6年(1853)の同寺を描いた古絵図には阿弥陀堂の呼び名が書き入れられ、現在の阿弥陀堂を本堂としている。各所の手法は力強く、鎌倉時代末期の建築の特徴を残している。桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、本瓦葺。」

元気再生石と罪障消滅・再生くぐり輪



曼荼羅

マントラ洞窟入口

















奥の院

永代供養塔







奥の院しょうじょう寺五百羅漢













愛媛県ビルマ戦没者慰霊塔



































鐘楼(重要文化財)
「元弘3年に建てられたもので四方に腰袴がついており全国でも珍しいものです。」

本殿

























弥勒堂

護摩堂(重要文化財)
「天竺と和様折衷の建造物の多い中でこの堂宇のみが純粋な和様建築である点が特色であり他の建造物と異なっている点はたるきがなく舟ひじきどめとなっていることです。」

一切経堂

大師堂

訶梨帝母天堂(重要文化財)
「このお堂は訶梨帝母天(鬼子母神)をお祀りしており子宝に恵まれない方々のお詣りがあとをたちません。この堂宇中央蛙股は非常に繊細な作りで美しくこの様に小さな建造物に拘わらずひじきのところや釘かくしなど特徴あるものとなっています。」



子宝石と智恵誕生くぐり輪













再生成就大師
「日中友好戦争反省平和を祈念し中国のデザインで建立・日本最大の弘法大師像」





住職曰く
「毎年ビルマ難民の紫園に行き、つくづく思う。ビルマは軍事政権になって沢山の人を殺した。軍隊が強くなると必ず戦争で多くの人々を殺して、不戦の誓いを立て憲法に記した。今、集団的自衛権、有志連合国への参加、武器輸出、軍学共同、ODAの軍事融通など、経済発展のために平和の誓いを次々と破っていく。また多くの子どもたちが親を失う。カレンの子どもたちのように。大戦の教訓は、決して殺さないことである。不殺生と不偸盗・ぶつかり合わず奪い合わない。戦後記念、東南アジア貧困解消と友好平和活動を。」
「本来の仏教」の冊子を頂いて帰って読みました。加藤住職のお釈迦様の教えのように殺し合いは止めようの思いが貫かれています。境内に張り紙されている「集団的自衛権」の名で紛争から戦争への道をストップと声をあげていること、不殺生戒を守ろう。に共感します。
お疲れ様でした。(合掌)
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太山寺(松山市)

2016-10-22 18:51:45 | 愛媛
2016年10月18日、17日に道後温泉の八千代に宿泊し翌日お参りしました。今日も天気がいいですね。松山市内で数か所を散策し神戸に帰ります。
愛媛県松山市太山寺町1730
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仁王門(重要文化財)
「鎌倉後期の1305年再建、三間一戸八脚門、入母屋造、本瓦葺。」







もう少し先に駐車場があるので進みます。駐車場から本堂まで300mの参道です。

参道

一畑薬師様

参道



















子安観音堂







縁起説明書より『四国八十八か所の五十ニ番札所である。瀧雲山護持院と号し、本尊は十一面観音菩薩である。この寺の開創説話に、炭焼き小五郎にちなむ伝承の「一夜建立の御堂」がある。豊後国(大分県)の炭焼き小五郎が黄金を発見し真野長者となった。あるとき、船で難波に向かう途中、高浜沖で大嵐にあったが、瀧雲山(経が森)に光明を見て助かった。翌日、山に登ってみると、小さな草堂に十一面観音が祀られていた。長者は霊験に報いるために、国に帰り、材を船に積んできて、一夜で堂宇を建てたという話である。この真野長者堂は、現在、本堂の左に祀られている。寺伝によると、この寺は天平11年(739)、聖武天皇の勅願により僧行基が開いたという。平安時代には冷泉から近衛までの歴代天皇が十一面観音像を奉納している。伊予の豪族河野氏は、嘉元3年(1305)と文明17年(1485)に本堂、山門などの大修理を行った。その後、松山城主加藤嘉明、松平家歴代藩主の帰依を受け、今日に至っている。』

四天王門
「入母屋造楼門、1683年再建」



















仏足石







本堂(国宝)
「蟇股の墨書銘より、嘉元3年(1305)の建立と判る。中世には全国各地にこうした床張の仏堂が数多く建てられたが、この本堂は内陣を二重の外陣・脇陣・後陣で囲んだ雄大な規模を持ち、内陣の厨子も含め、和様でまとめられた意匠も優秀である。桁行7間、梁間9間、屋根は入母屋造本瓦葺きで木造建築としては県下最大である。」

























摩尼車

香炉





大師堂



















長者堂









聖徳太子堂

力くらべの亀石

稲荷堂







鐘楼堂

お疲れ様でした。(合掌)
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道後温泉の伊佐爾波神社、寶厳寺、圓萬寺

2016-10-21 23:16:50 | 愛媛
2016年10月18日、17日道後温泉の八千代に宿泊し翌日、伊佐爾波神社にお参りしました。道後温泉駅から東側の小高い山の上に鎮座しています。
伊佐爾波神社
説明書より「延喜式内社で、祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、三柱姫大神である。社伝によると仲哀天皇、神功皇后が道後温泉に来浴した時の行在所跡に建てられた神社で、湯月八幡とも呼ばれたという。伊佐爾波(いさにわ)という社名は諸説あるが『古事記』に「建内宿禰大臣沙庭に居て、神の命を請ひまつりき。是に大后、歸神して・・・」、『日本書紀』に「建内宿禰に命せて琴撫かしめ、中臣烏賊津使主を喚して審神者と為す」とあり、これに神聖、清浄なという意味の「い(斎)」が付いたもので、神功皇后に関わる名称ともされる。当神社は、河野氏が湯築城の鎮守として、今の地に移したといわれ、その後、加藤嘉明が、松山城の固めとして八社八幡を定めたとき、一番社として武運長久の祈願所となったという。現在の社殿は、松山藩松平第3代藩主の定長が、将軍から命じられた流鏑馬を成功させたお礼として建立したもので、その様式は、大分県の宇佐神宮、京都の石清水八幡と並んで日本を代表する八幡造といわれる。」
愛媛県松山市桜谷町173
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正面に鳥居が見えます。



参道の133段の階段

燈籠

説明書

手水鉢





狛犬











境内より



手水舎





楼門(重要文化財)
「江戸中期の寛文7年(1667)に建立、一間一戸楼門、入母屋造、向拝一間、向唐破風造、本瓦葺。」





















重要文化財などの説明



廻廊(重要文化財)
「桁行延長五十七間、梁間一間、一重、入母屋造、南門及び北門部 向拝一間、向唐破風造、本瓦葺。」

























































本殿(重要文化財)
「内陣 桁行九間、梁間二間、一重、切妻造、檜皮葺。外陣 桁行九間、梁間二間、向拝三所、一重、流造、檜皮葺。」









申殿及び廊下(重要文化財)
「申殿 桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺。」











寶厳寺
「寶厳寺は寺伝によると天智天皇7年(668)斉明天皇の勅願で国司越智守興が創建したという。当初は法相宗であったが、平安時代中期に天台宗に転じたあと時宗が隆盛し、弟子の仙阿がここに住むようになって正応5年(1292)寺は再建され時宗に改められたとある。時宗の開祖一遍は河野通広の第ニ子として延応元年(1239)に生まれた。幼くして僧門に入り文永11年(1274)時宗を開き翌年熊野の地で神勅を受けて「南無阿弥陀佛」と記した佛札の賦算を始めた。弘安2年には信濃国佐久郡で念仏踊りを始めた。その後正応2年(1289)神戸真光寺で死すまで全国各地を念仏遊行し一所住捨遊行上人と尊崇された。」









山門

一遍上人の誕生地(愛媛県指定記念物・史跡)



































圓萬寺



















行基の作といわれる大地蔵
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