2022年1月27日、お参りしました。
説明書より「抑、先祖の始は饒速日命より六代の後、伊賀我色雄命の末裔武諸隅之れ矢田部の祖なり。かつて武日照命天より持ち来たりし神宝を、出雲大社に蔵めよとの勅命により、人皇十代崇神天皇六十年秋武諸隅勅使となりて、出雲に至り氏名を卒えて朝廷に復命す。三十四代推古天皇二十二年六月犬上御田鋤と共に、矢田郡の造大唐に遣わさる。翌年七月に帰朝す。
同年十一月百済の国使来朝するや、勅命により之を饗接す。四十代天武天皇秋九月矢田郡の造に連の性を賜う。連の裔矢田部の郡司の長子山田左衛門佐真次四十にして嗣子なし。丹生山の千手観音に祈りて真勝が生まれる。之を山田左衛門尉真勝と称す。四十七第淳仁天皇に仕え、天平宝字八年右大臣藤原豊成の次女白瀧姫を娶る。帝白瀧姫を真勝に賜りし時舞房の御剣(鋤治は天国)を賜る。767(神護景雲元)年に二人の間に花光丸が生まれた。然るに三年後770(宝亀元)年旧暦五月三日白瀧姫逝去し給う。
勅命により廟後に弁財天の祠を建つ。姫の死後廟前水渠をなし、毎年五月の候に至り清水湧沸として出ず。再び勅使を下し給い栗花落の氏を賜り水渠を、栗花落の井と呼ぶ。又恩賜の御剣桐葉の御紋あり以って自家の紋章となせり。真勝の長子栗花落左衛門佐真利四十八代称徳天皇に奉仕す。806(大同元)年飛至番匠鉄釘を用いず栓を以って殿廊を造る。世に之を釘無しの御殿と呼べリ。左衛門尉日真の代に至り995(長徳元)年五月八幡宮を京都六条より勧請して山田の守護神とす。左衛門尉日豪以後代々山田庄を領し四至の廰の頭職たり。
然るに1039(長暦3)年2月火を失し釘無しの御殿及び家宝悉く烏有に帰す。左衛門尉真速の時畏くも鳥羽院行幸(1150年頃)ありて真速の邸に臨幸したまい。栗花落の井の辺にて御製を賜う。
左衛門尉真述の時1933(応永六)年四月足利義満より丹生山田庄八幡宮の社地を賜る。この下知書を花折証文と伝えり。其の後真長に至り1628(寛永五)年八月又もや火を失し第宅焼亡す。これぞ尼崎城主青山候の造営せしもの也。真次より三十九代を経て義政に至る。其の子真政利左衛門と称し、爾後代々利左衛門を襲称した。明治維新前は家臣と称するもの三十余戸ありしとぞ。現在は家記古文書等、絵図も残って居り大切に保存して居る。兵庫県史史料編中世一には栗花落文書として載せていただき、又神戸市立博物館には江戸時代の栗花落文書が保管されている。」
神戸市北区山田町原野字札場64
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説明書
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/9b/eae3e37a1208a73fbac1e62abb92a07a.jpg)
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史蹟栗花落の井(神戸市史跡)
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/c3/7c7829dcdddd93fb5fc9c120a1eeb0f2.jpg)
末社
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/34/a529bb7b87a15b5d0445d4f4499fbb0e.jpg)
説明書より「抑、先祖の始は饒速日命より六代の後、伊賀我色雄命の末裔武諸隅之れ矢田部の祖なり。かつて武日照命天より持ち来たりし神宝を、出雲大社に蔵めよとの勅命により、人皇十代崇神天皇六十年秋武諸隅勅使となりて、出雲に至り氏名を卒えて朝廷に復命す。三十四代推古天皇二十二年六月犬上御田鋤と共に、矢田郡の造大唐に遣わさる。翌年七月に帰朝す。
同年十一月百済の国使来朝するや、勅命により之を饗接す。四十代天武天皇秋九月矢田郡の造に連の性を賜う。連の裔矢田部の郡司の長子山田左衛門佐真次四十にして嗣子なし。丹生山の千手観音に祈りて真勝が生まれる。之を山田左衛門尉真勝と称す。四十七第淳仁天皇に仕え、天平宝字八年右大臣藤原豊成の次女白瀧姫を娶る。帝白瀧姫を真勝に賜りし時舞房の御剣(鋤治は天国)を賜る。767(神護景雲元)年に二人の間に花光丸が生まれた。然るに三年後770(宝亀元)年旧暦五月三日白瀧姫逝去し給う。
勅命により廟後に弁財天の祠を建つ。姫の死後廟前水渠をなし、毎年五月の候に至り清水湧沸として出ず。再び勅使を下し給い栗花落の氏を賜り水渠を、栗花落の井と呼ぶ。又恩賜の御剣桐葉の御紋あり以って自家の紋章となせり。真勝の長子栗花落左衛門佐真利四十八代称徳天皇に奉仕す。806(大同元)年飛至番匠鉄釘を用いず栓を以って殿廊を造る。世に之を釘無しの御殿と呼べリ。左衛門尉日真の代に至り995(長徳元)年五月八幡宮を京都六条より勧請して山田の守護神とす。左衛門尉日豪以後代々山田庄を領し四至の廰の頭職たり。
然るに1039(長暦3)年2月火を失し釘無しの御殿及び家宝悉く烏有に帰す。左衛門尉真速の時畏くも鳥羽院行幸(1150年頃)ありて真速の邸に臨幸したまい。栗花落の井の辺にて御製を賜う。
左衛門尉真述の時1933(応永六)年四月足利義満より丹生山田庄八幡宮の社地を賜る。この下知書を花折証文と伝えり。其の後真長に至り1628(寛永五)年八月又もや火を失し第宅焼亡す。これぞ尼崎城主青山候の造営せしもの也。真次より三十九代を経て義政に至る。其の子真政利左衛門と称し、爾後代々利左衛門を襲称した。明治維新前は家臣と称するもの三十余戸ありしとぞ。現在は家記古文書等、絵図も残って居り大切に保存して居る。兵庫県史史料編中世一には栗花落文書として載せていただき、又神戸市立博物館には江戸時代の栗花落文書が保管されている。」
神戸市北区山田町原野字札場64
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史蹟栗花落の井(神戸市史跡)
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末社
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