旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

福岡の柳川散策

2017-03-23 08:53:17 | 福岡
2017年3月19日、阪急交通社の【往復新幹線利用】霧島・知覧・鹿児島3日間 南九州スペシャルでの3月19日から21日の2泊3日の旅行をしました。交通費、宿泊込みで一人3万円です。
3月19日、新神戸8時32分発のぞみ99号に乗車、博多着10時47分です。博多駅からバスに乗車し、福岡の柳川、そして、鹿児島へ移動です。
柳川は、福岡県南部、筑後平野の西南端に位置しています。有明海に面する、東西11km、南北12kmの人口約6万8千人の市です。12世紀には平家の落武者が柳川市沖の端地区に落ち延び定住したと伝えられています。城下町柳川の始まりは、戦国時代に蒲池氏が柳川城を築いた時といわれ、城下町の本格的な形成は、天正15年(1587)立花宗茂が柳川城を城地に定めて以降のことと考えられます。詩人、北原白秋の故郷でもあり、生家が今日も保存されています。オプション(川下りとうなぎのせいろ蒸し)がありましたがパスして自由散策しました。
御花の前の駐車場でバスを降車し、ここを起点で時計回りに町を散策します。
柳川藩主立花邸(御花)
「明治期に設けられた屋敷建物及び庭園です。現在(御花)は立花家が経営する観光旅館となっていますが、宿泊者でなくとも観光することは可能です。」



























水路に沿って、街並みを散策します。













水路を船でめぐる観光をしています。



さげもん
「江戸末期頃より女の子が生まれると初節句のお祝いに、お雛様の代わりに古着の端切れで小物を作り飾ってお祝いしたのが始まりだといわれています。袋物には、鶴、亀、えび、三番叟といった縁起の良い物が作られてあり、一つ一つが袋ものになって物を入れることができます。竹の輪に赤布と白布を巻き、7個7列の49個、中央に柳川まりを2個さげて全部で51個、人生50年といわれていた時代に、一年でも長生きしてもらいたいという切なる親の願いが込められています。」2月11日から4月3日まで雛祭りが行われています。















沖端水天宮
「文禄3年(1594)立花宗茂公が筑後川の浅瀬を狐火に誘導されて、無事に柳川城に入城されたのは狐の加護によるものと稲荷神社(豊受姫命)を建立された。その後文化年間に京都の彌剣神社(祇園社)の御分霊を合祀され当時祭の際は各町より小舟を出して舟舞台を造り余興や囃子を奉納しました。明治2年に久留米水天宮の御分霊を合祀し、水難安産の神として崇敬の宮です。水天宮合祀と同時に文化文政時代の形式そのままの舟舞台を造り其れを六そうの舟に乗せ三神丸と名づけ歌舞伎を上演し、舟舞台囃子を奉納しました。囃子は古典的な中に異国情緒豊かなオランダ風の調子が交ざり合って別名オランダ囃子とも呼ばれて古い歴史を持つ郷土芸能で、現在は氏子の小中学生による舟舞台囃子保存会が昭和50年に結成され、毎年5月3、4、5日の大祭の時は芝居を上演し、保存会の子どもたちが囃子を演奏し、町内の若衆が三神丸に棹さし水天宮の掘割を上がったり下ったりする様は全国に類のないものです。」





















北原みやげ店



北原白秋生家(福岡県指定史跡)
「詩人北原白秋(1885年生)の生家跡で、白秋生誕当時の母屋と穀倉が現存し、文学館施設として使用されています。造り酒屋の佇まいを伝えるなまこ壁の母屋と穀倉は、幕末から明治初期の建築と推定されます。明治34年(1901)の沖端大火により被害を受けたが、耐火建築の土蔵造であったため辛うじて残りました。」

































恵比須神社

旧戸島家住宅(福岡県指定文化財)



















田中吉政公銅像













日吉神社
「社伝によると、当社の歴史の始まりは正応3年(1290)に近江の日吉大社を勧請したのに由来するそうで、明治以前は山王宮とか山王大権現といっていました。伏見院の時代に近江国山王宮を社村の農長が勧進し、社村の産土神となり、その後蒲池氏が柳川城を社村に築いた際、柳川城の鎮守となったとされています。」










拝殿











本殿

諸社



金比羅宮















太郎稲荷神社





柳川城跡(柳川市文化財史跡)



御花を起点に時計回りに街並み散策し、戻ってきました。

14時をすぎていますが、うなぎ屋さんはどこも行列ができています。





柳川の町を後にして鹿児島市内のホテルに向かいます。
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小倉城

2016-09-16 15:03:51 | 福岡
2016年9月8日、九州旅行3泊4日の最終日です。阪九フェリーの乗船の時間調整もあり、寄りました。今回の旅行は新門司に5日下船のときは、台風12号が北九州を通過し、7日は台風13号が九州の南側を通過という天候を気にしながらの旅行でした。12号のために福岡市には行かずに大分の日田市を観光して西側に走り、佐賀、雲仙へと迂回しての観光に急遽変更しました。九州の北部の観光は次の機会にと思います。
福岡県北九州市小倉北区城内2-1
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小倉城の説明書
「細川忠興は、慶長5年(1600)関ヶ原合戦の功により、豊前国全域と豊後国ニ郡を領する30万石の大名として入国、中津城に在城した。居城を小倉に移すため慶長7年これまでの小倉の城を廃して新しく築城をはじめ、その年の11月に小倉城へ移った。城の中心は、天守閣のある本丸と松ノ丸、北ノ丸で、これを囲むようにニノ丸、三ノ丸を配した。天守閣の外観は五重、内部は六層(現天守閣は四重五層)である。これは、五重目の内部が上下二段に分かれているためで、五重目の下段までは、白壁が塗り込まれ、上段は黒塗りで張り出しになっている。また天守閣の屋根には、破風がなく、当時この天守閣は唐造りと称されていた。城のすぐ東を流れる紫川を天然の濠とし、この川をはさんで東西に曲輪を設け、城下町をつくった。城郭の総構えは、約8キロメートルにもおよび、これを濠で囲み、街道に通じる八か所に門を設けた。寛永9年(1632)細川氏は、肥後国に移り、替わって、播磨国明石城主であった譜代大名の小笠原忠真が小倉城に入り、15万石を領した。第二次長州征伐戦の慶応2年(1866)8月1日、小倉藩は、田川郡に撤退する際、小倉城に火を放ち、城内の建物はことごとく灰じんに帰した。天守閣は天保8年(1837)の火災で焼失、以降再建されなかった。現在の天守閣は、昭和34年鉄筋コンクリートで、再建されたものである。」









案内図











大手門跡



槻門跡





















































お疲れ様でした。
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福岡、朝倉市秋月(重伝地区)

2016-09-14 21:19:24 | 福岡
2016年9月7日に行きました。太宰府の後に寄りました。
「秋月は、江戸時代初期、福岡藩の支藩として成立した秋月藩黒田氏の城下町で、甘木市街地北方約7キロメートルの小盆地に所在します。街路や屋敷地割がよく旧態を留め、武家屋敷や町家、社家等の伝統的建造物も残り、周囲の豊かな自然と相俟って特色ある歴史的景観を伝えています。」駐車場が有料です。
map
案内図

種痘の父・緒方春朔顕彰の碑











杉の馬場

秋月郷土館























瓦坂























長屋門(福岡県指定有形文化財)















黒門(福岡県指定有形文化財)

秋月城本門(黒門)の説明

垂裕神社























緒方春朔の説明書










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太宰府天満宮

2016-09-14 20:48:34 | 福岡
2016年9月7日、お参りしました。4日の夜に阪九フェリーに乗船し、5日朝に新門司港下船。当初は最初にお参りする予定でしたが、台風12号が丁度北九州に上陸して通過したため、コースを変更し大分を先に観光しました。長崎観光の後、長崎の稲佐山観光ホテルに宿泊し、佐賀城ほか佐賀市内観光の後に立ち寄りました。中学校の修学旅行生で一杯でした。
福岡県太宰府市宰府4-7-1
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パンフレットより「太宰府天満宮は、太宰府に左遷され、延喜3年(903)この地で亡くなられた菅原道真公をお祀りしています。幼いころから文才に秀た道真公は18歳で進士、33歳で文章博士となり、55歳で右大臣に就任しました。有力氏以外の右大臣は吉備真備以来のことで、異例の昇進は藤原氏の強い反発を招き、延喜元年(901)、藤原時平のざん言により失脚、大宰権帥として都を追われました。道真公が配所の榎社で薨去されたのは2年後の59歳の時で、門弟の味酒安行が延喜5年(905)に墓所に祠を建てたのが天満宮の始まりです。その頃、都では天変地異を道真公のたたりとして畏れた人々が、道真公を御霊として神格化するようになりました。延喜19年(919)には勅命により社殿が完成し、道真公の御神徳を追慕する庶民の間に天神信仰が広まり、太宰府は門前町として発展してきました。道真公の御墓所でもある現在の本殿は、天正19年(1591)小早川隆景公によって建立された五間社流造です。国の重要文化財に指定されています。」
参道の土産物店

太宰府駅

















梅ケ枝餅











大鳥居まで店が並びます。







































延壽王院三門
「天保5年(1854)に上棟された、切妻造、本瓦葺です。」



御神牛
「道真公が丑年生まれであることや、亡骸を乗せた牛車が止まった場所が現在の本殿であることなど、天神さまと関わりの深い牛を「神牛」として称得ています。」



境内図

太鼓橋
「鳥居をくぐり、参道と本堂の間に神苑が広がり、池にかかる三つの橋が太鼓橋・平橋・太鼓橋で、手前から過去・現在・未来を渡る橋と言われています。」









今王社
「昔は参道にあった天満宮の末社で、藩主の代参者達が、参詣の途中で汚れに遭うと、ここに幣物を捧げて帰るのが通例だったといわれています。」



志賀社(重要文化財)
「太鼓橋の傍にある天満宮の末社で、長禄2年(1458)の再建と伝えられています。小さいながらも質感のある神殿は一間社入母屋造、正面千鳥破風付、向拝一間、唐破風造、檜皮葺で、祭神は海神(綿津見三柱神)です。」









絵馬堂

楓社

蘇峰詩碑



麒麟及び鷺像



手水舎

楼門
「本殿側と太鼓橋側とで形態の異なる珍しい楼門。回廊とともに何度か焼失し、現在の門は大正3年に再建されたものです。」

狛犬

























可愛いですね。











本殿(重要文化財)
「天正5年(1591)に竣工した、五間社流造、正面向拝一間、軒唐破風付、左右側面各一間車寄、檜皮葺です。



































福部社

老松社



御子社







厄晴れひょうたん掛所





筆塚

夫婦樟
「日本の樟が、夫婦のように寄り添う姿から名づけられました。」





尊意社

野見稲荷社



相輪塔
「仏教の塔の新しい形式で仏教大師によって伝えられ、心柱が通り下から露盤、覆鉢、請花、九輪、水煙、竜舎、宝珠の各部から成る。享和2年(1802)に建立し弘化4年(1847)に再建、1075年大祭記念として東神苑より此の地に移転されました。我が国に8基あり、九州に現存するのはこの一基のみという貴重なものです。」





中島神社







時打堂







お疲れ様でた。
コメント (2)
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福岡・うきは市筑後吉井(重伝地区)の町並み

2016-09-10 17:17:36 | 福岡
2016年9月5日、九州旅行の2か所目です。台風12号を避けて大分県日田市の豆田町の町並みを散策した後に大分自動車道で日田ICから杷木ICで走り、筑後吉井の町並みに行きます。
うきは市観光協会の隣の無料駐車場に自動車を止めて散策です。JR筑後吉井駅から北東約1Kmほどのところです。
福岡県うきは市吉井町1043−2
map
説明書です。

うきは市観光協会です。本日休館でした。今日は月曜日・・・。パンフレットは手に入らず。



うきは市の中心部の筑後吉井地区について、説明書より『かつて吉井町は田畑に水がなく穀物の収穫も少なく農民の飢えを見兼ねた庄屋たちが久留米の有馬藩に筑後川から水を引き入れる工事の嘆願書を出しました。この嘆願書には「これらの工事に掛かる費用は私共、五人の庄屋が全部受け持ち決してお上にはご迷惑をかけませぬ」と書かれていました。寛文4年(1664)1月11日工事が始まり長野村(吉井町)の入り口には5人の「はりつけ台」が立てられ、これを見た人々は「庄屋どんを殺すな」とばかり老人、女、子供までがこの水路工事にかかり、寛文4年(1664)3月に人口の川(南新川)が完成しました。
 川の新設工事に成功によりこの地方が有馬藩有数の穀倉地帯となりました。南新川が田畑を潤すだけでなく唐臼、水車が造られ精米、製粉、酒造、製麺、櫨蝋、菜種油など工業、商業の豊かな町造りの基盤となりました。また寛文3年(1663)有馬藩下町久留米と天領日田を結ぶ豊後街道の中心として吉井に宿駅が新設されました。吉井の宿場町は豊富な穀物を地主商人などが商品化、販売し莫大な富を蓄え、その後「分限者どん」の住居造りが始まりました。「吉井銀(よしいがね)」と呼ばれる有力商人の金融活動などにより繁栄しました。寛延元年(1748)、文化12年(1815)、明治2年(1869)に大火に見舞われ、草葺きの町屋にかわって瓦葺塗屋造が普及し、「分限者どん」たちは富を象徴する白壁土蔵の防火対策の住居を競って造りました。明治、大正と繁栄を見せた白壁土蔵造りの吉井の町並みも第2次世界大戦後の経済・社会の変動の中で失われて来ましたが、平成8年12月に福岡県で初めて(全国で44番目)国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受け、修理修復が行われ保存されています。現在でも、豊後街道の街路沿いに漆喰塗の重厚な土蔵造りの商家跡が連続する町並みと、災除川と南新川沿いに広がる屋敷群が約250ほど、ほぼ当時の姿のまま残されており、本保存地区は、町屋や土蔵が連続する町並みと、豊かな緑に包まれた屋敷や社寺建築、さらに吉井の経済基盤を支えてきた河川や水路などが一体となって歴史的景観を形づくり、筑後地方の商業都市として、特色ある歴史的景観を今に伝えています。』
案内図、赤い点線が筑後吉井の重要伝統建築物群保存地区です。

















居蔵の館
「この建物は吉井町の重厚な町並みを形成した土蔵造りの中でも完成度の高い居蔵家のひとつです。明治初期の大火後、建築され軒先まで漆喰で塗り込まれ、また2階の窓は鉄製の扉によって覆われており外部から延焼しにくい構造になっています。精蝋業で財をなした大地主の分家で銀行経営に携わる当主一家の家でした。」





白壁通りへ

「現在この道路は国道210号線に通じる県道甘木・吉井線として利用され、通称「白壁通り」と呼ばれています。道路拡張で西側には古い建物は少ないですが、東側は海鼠壁で白壁土蔵造りの重厚な町並みが残っています。この白壁通りでは、おひなさまめぐりや小さな美術館めぐり、吉井祇園祭り、若宮おくんち、しらかべ楽市楽座など一年を通して多くの祭りやイベントの場所として賑いを見せています。」









































豊後街道(国道210号線)
「この豊後街道は筑後軌道が走り大正3年には、蒸気機関車になりました。その後、昭和3年に国鉄久大本線が開通するとレールが取り除かれ25年間の幕を閉じることになりました。」











































金子文夫資料館

お疲れ様でした。
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阪九フェリーでの九州への船旅

2016-09-10 17:14:21 | 福岡
2016年9月4日から9日までの阪九フェリーで愛車を乗せての九州旅行です。往きは4日神戸六甲アイランド港20時発、5日福岡の新門司港8時30分着、帰りは8日新門司18時40分発、9日神戸7時10分着です。台風12号が8日に長崎に接近し、北九州上陸し9日昼に北九州を通過いるとのことで、そして、8日の当日にしか、船が欠航か出航かが判らなくて、やきもきしながらの出発でした。4日の午前中に阪九フェリーから出航するが、到着の時刻は台風の進路と状況で判断するとのことでした。今回の旅行はヴイーナストラベルの「雲仙1泊と阪九フェリーでマイカー往復1等洋室プラン」で個人で宿泊を2泊追加しました。
乗船の1時間前に手続きとのことで、早目に港に着き、ターミナル1回の受付で車検証を持って手続きをし、チケットを受け取って出発です。台風の影響で、早く新門司港に入港するとのことでした。予定より1時間早い5日の7時半に着く予定とのこと。
「やまと」に妻はターミナル4階から船の5階へ、私は自動車で乗船、4階の車輌スペースから4階へ。妻が案内所で部屋のカギを受け取り、合流して6階の部屋に移動です。
室内です。ベッドが2つとソファー、テレビと洗面台です。浴衣と茶器セット、アメニティはタオル、使い捨てスリッパ、歯ブラシ、ヒゲソリ、石鹸ヘアブラシなどです。



通路

エントランスロビー、6階から

正面、エレベーター

レストラン



メニュー

カフェテリア方式で、好きな食べ物を取って、レジで清算です。





食事をしましたので、少しアテでビールを飲みました。

プロムナード

7階に展望浴屋、湯船は2つで1つは泡風呂でした。洗い場は8つほどなので、乗船すぐは混雑しているようです。乗船時から24時までと朝は7時から入港前まで利用できます。6階にはシャワールームが男女あり何時でも使えます。

売店

キッズコーナー

リラックスルーム

ゲームコーナー



景色、もう暗いですね。













明石大橋











淡路サービスエリアの観覧車

予定より1時間早くの入港です。6時過ぎです。
朝は、朝粥セット500円を食べました。

5日朝、新門司港ターミナルに着きました。少し雨が降っています。台風の影響です。


8日、新門司港のターミナル

帰りは「つくし」です。



8日、18時40分出航です。









9日5時20分、明石海峡大橋が見えてきました。







5月37分、明石海峡付近です。

エレベーターホール

まだ、うす暗いですね。





明石海峡大橋の下を通ります。















真下です。





























































神戸空港です。



































まもなく入港です。











お疲れ様でした。無事に神戸に着きました。


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