2019年3月26日、お参りしました。
説明書より「当寺は今から1250年前の創建で、開基の行基菩薩、自ら本尊阿弥陀如来尊像を彫刻され象背山宮処寺と名付け、本州阿弥陀如来四十八願の霊利の第三十四番札所とお定めになったのが天平11年(739)2月であり、その翌年12月2日には聖武天皇が不破頓宮より宮処寺及曳常泉へ行幸されています(続二本記、日本記略)その五延暦の年勅命により比叡山延暦寺宗祖伝教大師により南宮神社と両部集合され寺号を大神宮寺と改められました。
その功徳は天慶2年(839)の平将門叛乱の時、孔雀天皇の勅命により将門調伏祈願のため延暦寺僧明達阿闍梨助修僧20人と共に南神宮寺で秘法を修したところ結願の時将門首級到着で、その法験を御嘉賞になり法躰殿の勅願と若干の寺社領を下賜されました。(扶桑略記、帝王編年紀、元享釈書)(此時十禅師社を造営し弟子十人を社僧とす=十坊設置)
ついで後冷泉天皇の康平2年(1059)には安倍貞任追討の御祈願あり、その霊験により法性大菩薩の刺額と若干の寺社領を賜りました。このように霊験により篤い信仰を得ましたが、文亀元年(1501)4月の火災で諸堂社灰燼となりましたので、諸方に勧進し、時の美濃守護土岐政房に訴願したところ政房これを諸司に命じて復旧に着手、11年後の永正8年(1511)漸く竣工となりました。
くだって天正17年(1589)11月16日豊臣秀吉より供田として160石、寺社堪忍分として200石の朱印は、家康の代(慶長14年10月20日)に405石が朱印状となりましたが、慶長5年(1600)9月の関ケ原合戦で、諸建築は兵火にかかり烏有に帰しました。
因って南宮権現執行利生院、永純、本寺の東叡山寛永寺住職(開基)慈眼大師天海大僧正(徳川幕府の政務に関与)に再建を嘆願、時の大御所(家康)これを了諾するも戦後として渉らず、ようやく徳川三代将軍家光により造営の運びとなり、寛永19年(1642)9月11日に再興されましたが、命じ初年神仏習合廃止(神仏判然の令)により南宮社執行真禅院秀覚法印22堂塔坊舎を統廃合し、村人の絶大な奉仕により此の地に移し朝倉山真禅院となし現在に至っています。
通称世人に朝倉山と親しまれ、時には朝倉寺とも呼ばれています。」
岐阜県不破郡垂井町宮代2006
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寺標、朝倉山南神宮寺
参道
お地蔵さま
十王堂
手水鉢
本地堂(重要文化財)
「江戸前期の寛永19年(1642)建立、桁行四間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入、桟瓦葺。」
護摩堂
釈迦堂
薬師堂、延暦12年開基
三重塔(重要文化財)
「この三重塔は、天平13年(741)辛己歳の草創で、関ケ原合戦により焼失したが、徳川三代将軍家光により造営の運びとなり、寛永19年(1642)9月に再建されました。その後明治初年の神仏習合廃止(神仏分離令)により南宮執行真禅院秀覚法印が三重塔を含む22堂塔を統廃合し、村人の絶大な奉仕によって明治4年(1871)3月までに南宮社から現在の地へ移した。構造は三間三重塔婆、本瓦葺で柱礎石上端より相輪頂上までの全高は25.38m、内部に本尊大日如来を安置する。この塔は、永年の風雪と荷重により全体に西方へ傾斜していた上に昭和56年の豪雪で屋根に損傷を受けたため、文化庁の指導を受けて全面解体修理を行った。」
鐘楼(岐阜県重要文化財)
梵鐘(重要文化財)
「この梵鐘は無銘であるが、奈良時代に属すると推定される最古のもので、総高165cm、鐘身129cm、口径100.7cmである。上部にある竜頭の長袖線と相対する撞座の中心を結ぶ線が直角に交わり、撞座の位置が高いなど、古い梵鐘の特徴が見られる。この梵鐘の撞座は、永い年月の間に撞きつぶされ割れる恐れがあるため、指定時より国の指導を受け、撞かないようにしている。」
鉄塔(岐阜県重要文化財)
「この鉄塔は、室町時代の応永5年(1398)8月10日河内国の高大路家久による鋳物で、鉄塔二重塔、高さ165cm、上幅70cm、下幅100cm、鉄塔の上層には菩薩六体、下層には四天王像が鋳付けられている。」
観音堂(垂井町指定有形文化財)、神護2年7月創建(元宝珠院)
弁財天堂
関ケ原の戦いと吉川広家陣跡の説明書(真禅院駐車場横)