旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

紅梅亭(こんぴら温泉華の湯)と金比羅街道商店街散策

2024-12-25 18:36:50 | 温泉、旅館、ホテル
2024年12月22日、利用しました。
泉質はナトリウム塩化物泉です。夕食は会席で、朝食はバイキング形式です。
香川県仲多度郡琴平町556-1
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外観

玄関



フロント

ロビー























ロビーでのおもてなし

売店





2階ギャラリー







廊下



インターネットコーナー

エレベーター

庭園





部屋
踏み込み



室内









おもてなし

夕食の会場



先付・胡麻豆腐、前菜・鮫軟骨・なます・ワカメそうめん、勧肴・芋スープ

造り、カンパチ・鮪・鯛・烏賊

御凌ぎ、風呂吹き大根ヤゲン軟骨ボルチーニ葺ソース

焼物、丸忠名物山海宝楽焼き・讃岐オリーブ牛、エビ



強肴、丸忠名物醤豆腐鍋

油物、揚げ海老芋カニ餡掛け



留め椀、青さ海苔と小松菜こんぴら味噌仕立て、お食事、地元農家のコシヒカリ・香の物

果物・観葉デザート、甘味・さつま芋と黒豆の甘納豆

朝食、バイキング形式です。

少し早く着いたので、こんぴらさんの商店街を散策です。


























































































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聖通寺(しょうつうじ)

2024-12-25 11:26:25 | 香川
2024年12月22日、お参りしました。
説明書より「壺平山宝光院と号す。真言宗御室派別格本山、本尊は薬師如来です。当寺の開基は行基菩薩です。聖武天皇の御世に釈迦院とし開創された。弘仁年中(810-824)に弘法大師が当地に巡錫の折、安産と子孫繁栄の守り本尊として千手観音菩薩(国指定重要文化財)を自刻して安置した。868(貞観10)年聖宝理源大師によの再興した。当時は理源大師が起居し、厄除長生の行法を修した所である。大師は聖宝の二字を分けて、聖通寺宝光院と号し再興のしるしとした。その後、宇多天皇の寛平年中、讃岐のち勅使に勅して釈迦堂、仁王門を建立、豊作長久の勅願所となる。文永年中には亀山天皇の勅により、三重大塔、鐘楼鼓閣及び八十余坊を再興するが、星霜を経て伽藍は朽化する。後光厳天皇の文和年中(1352-1356)、小野僧正仁海の末流勢今宥僧正が当時に起居、御再興の勅許がある。1362(貞治元)年細川頼之は細川清氏との戦いの折、形勢不利の状態にあったが、神仏の擁護によって勝利を得るべしと住持勢宥僧正に薬師如来の冥威を祈らしめたところ、頼之側の大勝利となった。頼之は、これは薬師如来の威力神通なりと当寺に帰依、伽藍を再興して、鵜足・那珂二郡及び塩飽七島を以って当寺を旦那時としている。しかし天文年中(1532-1555)に兵火にかかり多くの伽藍及び宝物等を焼亡。生駒親正は讃岐国受封の折、引田城より聖道寺山字多津城に移っている。その子一正が嶋田寺を高松に移し弘憲寺と改めた時、命によって当時の宝物35種が弘憲寺に移され、堂塔2基は象頭山に移されている。1650(慶安3)年備後国常書院の宥長上人が当地に訪れ、伽藍焼却を嘆き、再興を期し当寺に住し、松平頼重讃岐国受封の後願により御再興仰出され1652(承応元)年起工、堂塔が建立されている。源英公は当寺に帰依、落成した薬師堂(本堂)は御自筆にて棟札を書いたと伝えられている。」

香川県宇多津町坂下2805
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寺標

庫裏





弁財天









大聖不動明王

鐘楼



忠魂碑

釈迦堂

釈迦如来坐像(宇多津町指定有形文化財)
「本造は右手を施無畏院、左手を弓願印とした通形の釈迦如来で、榧材の一木造りである。像高77.8センチメートルであるが、過多膝の張りが力強く、また体奥も極めて厚く堂々とした見事な像容を示している。制作年代は平安時代前期(10世紀)とみられ、かつて存在した釈迦堂に安置されていたと伝えられている。」



観音堂
「木造千手観音立像(重要文化財)を祀る。」







本堂(宇多津町指定有形文化財)












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白峯寺(しろみねじ)

2024-12-24 18:31:57 | 香川
2024年12月22日、お参りしました。
説明書より「四国第81番霊場、別格本山、綾松山洞林院と号す。白峯寺は、山上伽藍としての堂宇と、崇徳上皇を祀る頓證寺殿などが一体となった、類い稀な伽藍を形成している。本堂などの諸堂は異なる形式と時代的特質をもち、客殿は藩主御成に応じるための格式を備え、頓證寺殿は稀有な構成と気品ある意匠とするなど、四国霊場の隆盛と上皇崇敬の様相をよく示している。高松藩により整えられたこれらの堂宇は、その形式や細部に地方的特色が顕著に認められるとともに、技量も優れており、価値が高い。江戸時代中期から後期にかけて建てられた複数の建造物が残る点も貴重であり、本堂など九棟が国の重要文化財として指定された。」
縁起書より「当山は弘法・智証両大師の開基である。弘法大師は、815(弘仁6)年当山に登られ、峯に如意宝珠を埋め閼伽井を掘られた。かの宝珠の地滝壺となり、三方に流れて増減なしと云う。次いで860(貞観2)年10月の頃、瀬戸の海上に流木が出現し、光明に輝き異香四周に薫したので、国司の耳に入りこれを当時入唐留学より帰朝して金倉寺に止住せられていた善知識円珍和尚に尋ねられた。和尚、かの瑞光に導かれて当山に登り、山中を巡検して居ると白髪の老翁が現れて曰く、『吾は此の山の地主神、和尚は正法弘通の聖者なり、この山は七佛法輪を転じ、慈尊入定の霊地なり。相供に佛堂を建て、佛法を興隆せん、かの流木は補陀洛山のいかだなり。』との御神託あり、なお流木を山中に引き入れて、千手観音の尊像を彫み、当寺の本尊として佛堂を創建せられた。その後、1156(保元元)年、保元の乱に因り、第75代崇徳天皇当国に御配流、山麓林田郷綾高遠の館(雲井御所)に三か年、のち府中鼓ケ丘木丸殿(木丸殿御所)に移り六か年、都合九年間配所の月日を過ごされて、1164(長寛2)年旧8月26日崩御遊ばされ、御遺詔によって当山稚児獄上(御陵のあるところ)に荼毘し、御陵が営まれた。」

香川県坂出市青海町2635
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案内図



白峯五社稲荷大明神社

山門(七棟門)
「高麗門形式の門の左右に二棟の塀をつらねた珍しい門で、その棟数合わせ七棟、故にこの門を七棟門と呼んでいます。左右から中央に積上げられた屋根の形は面白く白峯寺名物の一つです。19世紀初頭に建てられたものと考えられます。」

御成門

護摩堂

勅使門



宝物館

弁天堂

手水舎

玉章の木

狛犬



勅額門(重要文化財)
「門には、扁額として、1414(応永21)年、上皇の250年遠忌に際し、讃岐守護の細川満元の依頼をうけた将軍足利義持の執奏によって、後小松上皇が額字をしたためた勅額が掲げられていたため、この門を勅額門と呼んでいる。勅額門は、独創的な構成のほか、欄間に透かし彫りされた牡丹唐草や、妻面の木鼻に彫られた雲などの意匠が優れている。」











頓証寺殿

















相模坊大権現
「白峯山の相模坊大権現様はかつて相模の国(神奈川県)の大山に君臨した修験の大行者でその名を相模坊と称した。後に讃岐の国、白峯山に入山し、当山の修験行者(山伏)集団の統括者(大先達)となり、その神通力、法力により行者集団から大権現として祭祀された。その無限大の法徳により、霊威にある聖地白峯山の守護神(鎮守)として崇め祀られた。崇徳天皇の守護神としても有名である。」

恵比寿天

西行

石灯籠(坂出市重要美術品)







鐘楼堂



薬師堂



福禄寿

行者堂

寿老人

阿弥陀堂(重要文化財)
「正面三間、側面二間、宝形造、本瓦葺で正側面に切目縁を廻す。内部は中敷居で内外陣に区分し、内陣後方に仏壇を造り、床は拭板敷、天井は棹縁天井とする。両脇間及び両側面前端間を連子窓とし、そのほかを堅板張とする。内部は赤色塗とし、外部の軸部に黒色塗、軒廻りに赤色塗痕跡が認められる。軒は一軒半繁垂木で、緩やかな反り増しをもつ垂木などに古式をとどめる。屋根頂部に陶製の露盤、宝珠を戴く。史料から1661(万治4)年に高松藩主松平頼重の寄進により建立され、境内最古の建造物である。内部中央に阿弥陀三尊立像を祀り、その後方に阿弥陀の小立像千体が安置されていることから、
されていることから、千体堂とも呼ばれる。」





布袋様



瑜祇塔
「瑜祇塔の正式名称は金剛峰楼閣瑜祇塔であり、金剛智三蔵訳の『金剛峰楼閣一切瑜祇伽瑜祇経」に基づいて建立されます。瑜祇経は密教の根本である金剛界と胎蔵界の両部は本来同一のものであるという精神を説いたもので、重要な経典の一津であります。古来より日本仏教は、伽藍建築様式を確立し各地に伽藍が建立されました。伽藍境内の最も特徴的な堂宇が多宝塔形式の塔(四角、六角、八角等の多角形の屋根を持つ建物又、三重、五重、七重、等の多層の屋根を持つ建物)であり、その多宝塔形式の原型とされるものが瑜祇塔で、古の形をインドのストゥーパー(塔)に求めることができます。当瑜祇塔は元三谷寺、法印圭應僧正、発願により1829(文政12)年、巳丑、仲春(陰暦2月)当山法印而住僧正代に建立された。

本堂(千手院観音堂)
「入母屋造りのこのお堂は本尊千手観音を祀る故に観音堂とも呼ばれ後嵯峨院の勅号により千手院とも称します。開基以来1382(弘和2)年、1539(天文8)年、天中年中、1596(慶長元)年等の数度の火災により焼失、現在の堂は1599(慶長4)年生駒近現公によって再建されたものです。本尊千手観音と智証大師と、当山鎮守白峯大権現の合作と伝えられ、脇侍として愛染明王、馬頭観音を祀っています。」



















大師堂
「寶形造りのこのお堂は弘法大師尊像を祀る故に大師堂と呼ばれ、1811(文化8)年高松藩主松平頼儀公の再建されたお堂で大師を中央に左に稚児大師像、右に庚申の本地仏青面金剛が祀られています。」

廻向堂

仏足石



宝篋印塔



地蔵尊

水子地蔵尊


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根香寺(ねごろじ)

2024-12-24 15:28:44 | 香川
2024年12月22日、お参りしました。
説明書より「根香寺は、急坂を登りつめた青峰山中腹にある、弘法大師により開創された木立の中のお寺です。なぜ、このような険しい山の中に建てられたのでしょう。奈良時代の仏教は、鎮護国家を目標としていましたが、平安時代になると仏教は、祈りやまじないが実現する不思議な力を得ようと、苦しい修行を重んじるようになりました。そのため、明るく華やかな場所ではなく、人里離れた山の中にお寺を建て、山中を修業の場としたのです。(このような仏教のあり方を、山岳仏教といい、このようなお寺を山岳寺院といいます。)お寺の境内に静かにたたずみ、自分の心を見つめてみましょう。また、ここは山の中です。目を閉じ、鳥の声、虫の声などに耳を傾けてみのしょう。」
香川県高松市中山町1506
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寺標

仁王門





説明書



牛鬼
「今から450年くらい昔、このあたりに人間を食べる恐ろしい怪獣、牛鬼が棲んでいて、人々を大変困らせていました。そこでこの地方の村人は、山田蔵人高清という弓の名人に牛鬼の退治を頼みました。高清は根香寺の本尊である千手観音に願をかけ、そのおかげで牛鬼を見つけ出し、見事に退治したそうです。そして、怪獣の角を根香寺に奉納し、その菩提を弔ったと伝えられています。」

案内図



参道



水かけ地蔵

牛頭観音

役の行者像



香炉

宝篋印塔

鐘楼



六角堂・延命地蔵尊

龍宮地蔵尊

大師堂

高松松平初代藩士の墓

白猴欅
「智証大師が当山開基の時、この樹下に山王権現が現れ、また、白い猿が下りてきて、大師を守護し創業を助けたと云う。樹齢約1600年、樹幹の周囲や区7メートル。」

本坊

五大堂
「木造五大尊像(香川県指定有形文化財)を祀る。軍茶利夜叉明王、降三世夜叉明王、大日大聖不動明王、金剛夜叉明王、大威徳夜叉明王の五佛である。弘法大師が、この地において五智如来を感得され、当寺を開基された。その五智如来の教令輪身たるお姿が五大尊である。燃えるような情熱をもって日夜私どもを愛し助けて下さる有難い佛様である。中央の大日大聖不動明王は、1286(弘安9)年元寇調伏祈願のために造られ、両脇の四明王は1683(天保3)年高松藩主が京都の佛師に造らせ五大尊として祀らせた。」





経蔵





本堂









回廊


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屋島寺

2024-12-23 17:17:38 | 香川
2024年12月22日、お参りました。
 南面山千光院と号す。
 由緒書より「当寺は唐僧鑑真和上過海大師が開創の基を開き、その弟子恵雲律師空鉢と号した人が初代の住職となったと伝えられ、初めは律宗であったが弘法大師が真言宗に改めた寺で、四国八十八か所の八十四番の札所であります。本尊千手観音は平安時代前期の作であり、本堂は鎌倉時代の末頃の建築で共に重要文化財に指定されています。書院裏には名園雪の庭があります。鐘楼の釣鐘は鎌倉時代の初め1223(貞応2)年に鋳たものです。なお、源平合戦の遺物など陳列した宝物館があり、狸で有名な蓑山明神の社もあります。」
 屋島は高松市の東、標高293メートルの火山台地の半島で、那須与一の扇の的や義経の弓流しなどで有名な源平合戦の古戦場の史蹟で知られる。屋島寺はその南嶺にある。鑑真和上は唐の学僧で、朝廷からの要請をうけ5度にわたって出航したが、暴風や難破で失明、天平勝宝5年(753)に苦難のすえ鹿児島に漂着した。翌年、東大寺に船で向かう途次、屋島の沖で山頂から立ちのぼる瑞光を感得され、屋島の北嶺に登った。そこに普賢堂を建てて、持参していた普賢菩薩像を安置し、経典を納めて創建されたという。
香川県高松市屋島東町1808
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寺標







本坊の御成門

可正桜
「この老桜は、高松藩士松平半左衛門可正が老後の楽しみとして1665(寛文5)年に、屋島寺石段に七株を植えました。そのうち六株は枯れ、残った一株を現在の地に移植したものです。」

東大門

由緒書

仁王門





四天門













宝物館

手水舎

五重塔







千躯堂







三躯堂





一願不動尊



大師堂

七福神

熊野権現社

蓑山大明神
由緒書より「その昔、弘法大師さんが四国八十八か所開創のみぎり、霧深い屋島で道に迷われ蓑笠を着た老人に山上まで案内されたと言う。のちにその老人こそ太三郎狸の変化術の姿であったと信じられております。屋島の太三郎狸は佐渡の団三郎狸、淡路の芝右衛門狸と共に日本三名狸に称されています。太三郎狸は屋島寺本尊十一面観音の御申狸又数多くの善行をつんだため、土地の地主の神として本堂の横に大切に祭られ、四国狸の総大将とあがめられ、その化け方の高尚さと変化妙技は日本一であった。尚屋島太三郎狸は一夫一婦の契も固く家庭円満、縁結び、水商売の神、特に子宝に恵まれない方に子宝を授け福運をもたらす狸として全国よりの信者が多い。」







蓑山塚



屋島稲荷社





寺務所



鐘楼堂

本堂(重要文化財)
「江戸前期の1618(元和4)年建築。桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝三間、本瓦葺。」













瑠璃宝の池(血の池)
「屋島寺伽藍早創のおり弘法大師が『遍照金剛、三密行所、当都率天、内院管門』と書き、宝珠とともにおさめ周囲を池としました。ところが龍神が宝珠を奪いに来ると伝えられ瑠璃宝の池の名があります。また、源平合戦のとき壇の浦で戦った武士たちが血刀を洗ったため、池の水が赤くなり血の池とも呼ばれるようになりました。」







源平屋島合戦の説明書



下山して麓の「わら家」で釜揚げうどん特大といなり寿司、天ぷらを食べました。


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