2019年1月24日、お参りしました。
「奈良時代の神亀3年(726)、行基による開基と伝える古寺である。平安時代初頭までに七堂伽藍が揃っていたが、室町時代に山名氏や大内氏らの戦火に巻き込まれ大半の建物を焼失、安土桃山時代には根来寺の傘下にあったがために、天正13年(1585)、豊臣秀吉の紀州攻めで観音堂以外のほぼ全ての建物を焼失した。」
大阪府貝塚市木積798
map
山門
鐘楼
観音堂(国宝)
説明書より「人皇45代聖務天皇が僧行基に命じて畿内に49院を造営せられるに当り地を此処木積に卜して木積の杣山の良材を採って其の一院を建立せられた。時に神亀3年(726)春3月、当時に七堂伽藍が整然と聳えていた事であろう。然るに足利時代に至り山名、大内二氏の乱に合い堂宇の大半は鳥有に帰した。幸いに仏像は程近い池中に投じられ辛うじて災禍を免れ後年泥中より引揚げられ難を免れた。釘無堂内に安置せられたと伝えている。その後天正13年(1585)豊臣秀吉が紀州根来寺を攻めた時にも戦火に遭い、残余の僧房等悉く焼失したが幸いにして釘無堂のみ僅かに災厄をまぬがれて現在に及んでいる。然し乍ら現存の堂は創建当時のものでなく鎌倉時代の代表的建築である。思うに其の頃に破損はげしく改築したものであろう。」
五輪塔(大阪府指定文化財)
「和泉砂岩製で、一重の基壇上に立ち、高さ110cmで、全体としてほぼ原型を有している。地輪の高さは24.6cm、幅は39.4cmで、中央の梵字の右に「貞和22年戌子」、左に「七月十四日」と刻されている。貞和4年は北朝方の年号であり、南朝年号は正平3年(1348)である。南朝勢力下とされているこの地域において、貴重な事例といえる。」
「奈良時代の神亀3年(726)、行基による開基と伝える古寺である。平安時代初頭までに七堂伽藍が揃っていたが、室町時代に山名氏や大内氏らの戦火に巻き込まれ大半の建物を焼失、安土桃山時代には根来寺の傘下にあったがために、天正13年(1585)、豊臣秀吉の紀州攻めで観音堂以外のほぼ全ての建物を焼失した。」
大阪府貝塚市木積798
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山門
鐘楼
観音堂(国宝)
説明書より「人皇45代聖務天皇が僧行基に命じて畿内に49院を造営せられるに当り地を此処木積に卜して木積の杣山の良材を採って其の一院を建立せられた。時に神亀3年(726)春3月、当時に七堂伽藍が整然と聳えていた事であろう。然るに足利時代に至り山名、大内二氏の乱に合い堂宇の大半は鳥有に帰した。幸いに仏像は程近い池中に投じられ辛うじて災禍を免れ後年泥中より引揚げられ難を免れた。釘無堂内に安置せられたと伝えている。その後天正13年(1585)豊臣秀吉が紀州根来寺を攻めた時にも戦火に遭い、残余の僧房等悉く焼失したが幸いにして釘無堂のみ僅かに災厄をまぬがれて現在に及んでいる。然し乍ら現存の堂は創建当時のものでなく鎌倉時代の代表的建築である。思うに其の頃に破損はげしく改築したものであろう。」
五輪塔(大阪府指定文化財)
「和泉砂岩製で、一重の基壇上に立ち、高さ110cmで、全体としてほぼ原型を有している。地輪の高さは24.6cm、幅は39.4cmで、中央の梵字の右に「貞和22年戌子」、左に「七月十四日」と刻されている。貞和4年は北朝方の年号であり、南朝年号は正平3年(1348)である。南朝勢力下とされているこの地域において、貴重な事例といえる。」