旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

有松(名古屋市緑区)・有松天満宮

2018-05-25 22:22:47 | 愛知
2018年5月24日、愛知観光で重要伝統的建造物群保存地区の有松を散策しました。有松は、慶長13年(1608)東海道に生まれた町です。阿久比庄(現在の愛知県知多郡阿久比町)から移住した竹田庄九郎をはじめ8名により開かれ、絞りの名産地として発展しました。名古屋市内では珍しく、なまこ壁やうだつが上がる江戸時代の商家が建ち並ぶ町です。保存地区は、東海道に沿った約800メートルの範囲である。町並みを特徴づけるのは、敷地間口が大きい絞商の屋敷構えで、街道に面して主屋や土蔵を並べ、さらには門や塀を建てています。そのため、町家が並ぶ所々に、塀越しに庭木や隠居屋等を見越す景観が混じります。絞商の主屋は、東側(江戸側)に通り土間を設け、西側(京都側)に部屋を三列に並べる間取りを持つ。職人の町家は二列型を基本とし、一列型のものも見られます。集落の成立から現在まで、絞り染めを産業として継続し、旧の幅を残す東海道に沿って、意匠に優れた大規模な主屋や土蔵を有する絞商の豪壮な屋敷構えと職人の町家が混在して建ち並び、特色ある歴史的風致を良く伝えています。」名鉄有松駅の南側すぐに通りがあります。
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案内図









































































































































有松天満宮
「有松天満社は寛政年間の始め(1789~)に旧東海道の祇園寺の四世文章卍瑞によって現在地に遷座され、文政7年(1824)現在の「八棟造」の社殿が造営され、今日まで守り続けられてきました。有待天満社は菅原道真公を祭神として祀られています。道真は平安時代の貴族で優れた学者であった事から朝廷では要職についていましたがある日、大宰府へ島流しとなり波乱の生涯を閉じました。道真の死後朝廷は「天満大自在天神」の神号を贈り神格化された人物です。江戸時代は寺子屋にも道真を祀り、天神さまは学問の神様として親しまれてきました。」
























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久麻久神社と幡頭神社・西尾市

2018-05-25 22:21:01 | 愛知
2018年5月23日、愛知観光で西尾市の久麻久神社にお参りしました。
久麻久神社
説明書より「当社の創建は古く明確ではないが、延喜式神名帳所載の古社で近畿十七か村の総氏神として崇敬されていた。旧久麻久郷は、崇神天皇の頃、丹後国与謝の里より久麻久連一族が開拓したと伝えられ、その産土神が本社である。文武天皇の大宝年間(701~4)に須佐之男命を新たにお祭りし大宝天王宮と称した。その後、八ツ面山の西麓、荒川城の城主「荒川甲斐守義弘」これを崇敬し、堂宇を再興し「荒川大宝天王宮」と称した。荒川氏没後、徳川家康は家臣の鳥居元忠に現在地に奉還させたと伝えられる。明治元年社名を旧名「久麻久神社」に復した。本殿は室町時代後期の代表建築とされ、国の重要文化財であり、ご神像の牛頭天王像は藤原時代の作で県下最古のもの。」
愛知県西尾市八ツ面町麓77番
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幡頭神社
説明書より「大宝2年(702)の創建と伝えられる式内社で、旧幡豆郡では西尾市の久麻久神社とともに古い由緒をもつ神社である。祭神は東征の勅命を受けた日本武尊の旗頭の役を勤めた建稲種命で、東征の帰路駿河湾で遭難蛭子岬に漂着した遺骸をこの地に葬ったという。以来この地を旗頭といい、幡豆と書くようになったとも言われている。本殿は天正8年(1580)の建築で桃山時代の建築様式を伝える。屋根は桧皮葺で大きく反り返った曲線が美しい。丸柱や長押および虹梁などは太く力強い。虹梁は直線的で絵様が小さく、蟇股の内部の彫刻も素朴で全体に堅実な手法がとられた秀作である。」



愛知県西尾市吉良町宮崎宮前60
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鳥居





拝殿



本殿(重要文化財)
「室町後期の大永7年(1527)建築、桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、向拝三間、檜皮葺。」

熊野神社(愛知県指定文化財)






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六所神社・岡崎市

2018-05-25 22:20:33 | 愛知
2018年5月23日、愛知県観光で岡崎市の六所神社にお参りしました。
『斎明天皇(655~661)の勅願により、奥州塩竃六所大明神を勧請され、神領をご寄進のうえ創立されたと伝えられている。その後、桓武天皇(781~806)の御世「田村麿将軍」が東夷征伐のためご下向なさる折にご祈願、天皇に奏聞、勅許のうえ再建され「六所大明神」の勅額を下賜された。』
愛知県岡崎市明大寺町耳取44
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楼門(重要文化財)
「寛永13年(1636)建築、三間一戸楼門、入母屋造、とち葺。」













神馬







神供所

狛犬





本殿、幣殿、拝殿(重要文化財)
「本殿は、三間社流造、檜皮葺。幣殿は、桁行二間、梁間一間、一重、両下造、檜皮葺。拝殿は、桁行五間、梁間三間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝一間、唐破風造、檜皮葺。」


















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伊賀八幡宮・岡崎市

2018-05-25 22:20:00 | 愛知
2018年5月23日、愛知観光で岡崎市の伊賀八幡宮にお参りしました。
説明書より「岡崎の観光名所としても名高い、伊賀八幡宮は、郷土の英傑である。徳川家康公を御祭神と仰ぐ松平・徳川家累代の祈願所です。家康公より五代さかのぼる先祖、松平四代の親忠公は、文明2年(1470)に、氏神として伊賀国(今の三重県北部)より八幡宮をお迎えし奉斉し伊賀八幡宮を創建され、5年後に、氏寺・菩提寺として大樹寺を建てられ、いずれも松平・徳川家の勢力伸長に伴い境内整備がなされました。当宮の極彩色の現社殿や、蓮池などは、江戸幕府三代将軍家光公により造営された。」



愛知県岡崎市伊賀町字東郷中86
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案内図



石鳥居(重要文化財)
「寛永13年(1636)築造、石造明神鳥居」

神橋(重要文化財)



蓮池

隋神門(重要文化財)
「三間一戸楼門、入母屋造、前後軒唐破風付、檜皮葺。」







境内と手水舎





さざれ石

神馬





御供所(重要文化財)
「桁行五間、梁間二間、入母屋造、檜皮葺。」



本殿、幣殿、拝殿(重要文化財)
「江戸前期の寛永13年(1636)建築、本殿は三間社流造、檜皮葺。幣殿は、桁行二間、梁間一間、一重、両下造、檜皮葺。拝殿は、桁行五間、梁間三間、一重、入母屋造、正面裾破風付、向拝一間、檜皮葺。」







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鴨田天満宮と大樹寺・岡崎市

2018-05-25 22:19:24 | 愛知
2018年5月23日に愛知観光で鴨田天満宮と大樹寺にお参りしました。
鴨田天満宮
愛知県岡崎市鴨田町北浦56
狛犬の角がありとても可愛い表情です。









拝殿









大樹寺
『浄土宗の寺院で、山号は成道山。応仁元年(1467)8月23日、井田野の合戦で多くの戦死者が出て悪疫が流行したので松平親忠公は勢誉愚底上人に帰依して、敵味方の別なく千人塚をつくって葬った。その後、文明7年(1475)親忠公は、熱心な念仏者となり、愚底上人を開山として大樹寺を建立した。それ以来、大樹寺は、松平家徳川家の菩提寺として一千石近い禄を受け、大樹公寺と称し、20有余の末寺を持つ東海の名刹となった。現在でも岡崎城の天守閣と大樹寺の総門・山門・本堂は南北一直線上にある。本尊の阿弥陀如来は鎌倉初期の作と言われ、一光千体の阿弥陀如来として信仰されている。親忠公は愚底上人より在家としてはじめて五重相伝を受けられたので、大樹寺は浄土宗五重相伝の根源道場として知られている。松平第9代の家康公は19歳の時、桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に殺されたので、身の危険を感じ、大高城から大樹寺に逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとした。大樹寺住職登誉天室証人はこれをとどめ、「厭離穢土・欣求浄土」の教えを説き、家康公に浄土念仏の教えの尊さを教えた。それ以来、家康公は熱心な念仏者となり、障がいこの「八文字」を座右の銘とした。この時、家康公を追う野武士の一隊が大樹寺を囲んだが、「厭離穢土・欣求浄土」の旗を立て、太刀夢想の祖洞和尚が門の貫木を引き抜いて奮闘し、敵を退散せしめた。これを大樹寺の陣という。家康公は、この貫木を「開運の貫木」として尊信したが、今もこの貫木は大樹寺に安置されている。三門と鐘楼は三代将軍家光公の建立で、三門楼上の扁額は後奈良天皇の宸筆である。西方に見ゆる多宝塔は天文4年(1535)松平清康公の建立。本堂と大方丈は安政2年(1855)に焼失したが、安政4年(1857)、十三代将軍家定公の時に債権された。』



愛知県岡崎市鴨田町字広元5-1
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三門(愛知県指定有形文化財)













鐘楼(愛知県指定有形文化財)





手水舎



本堂(岡崎市指定文化財)
「桁行七間、梁間七間、入母屋造、本瓦葺。安政2年(1855)の火災で三門、総門、裏門、鐘楼、多宝塔、開山堂などを除いて伽藍を焼失するが、安政4年(1857)やや規模を縮小して再建されました。この本堂は、外陣が方丈のように三区分するもの、さらに凹字型のものの、二つの形式の要素を取り入れているのが特徴です。」









開山堂(岡崎市指定文化財)
「桁行三間、梁間三間、宝形造、桟瓦葺。内部はひとつの空間となっており、背面に半間幅の箱仏壇を一面に設けています。天井は各格子てんじょうで、床は畳敷となっています。屋根のちょうじょうには露盤・宝珠を上げています。建立年代は不明ですが、木鼻・実肘木などの絵様や彫刻から江戸時代前半と考えられています。」



多宝塔(重要文化財)
「室町後期の天文4年(1535)建築、三間多宝塔。多宝塔は仏塔の一形式で、平面が下重方形、上重円筒形、上下の連続部が饅頭形の二重塔のことである。この寺に残る中世建築の唯一のものである。松平七代清康により天文4年(1535)に建立された。下層は方桟間、総円柱、斗組二手先尾垂木付として、また上層は白漆喰塗りの亀腹上に円形の塔身を立て、四手先で軒をささえる。屋根は檜皮葺、鉄製相輪を上げ、軒隅には風鐸がつるされている。塔内部には禅宗様の須弥壇を置き、その上には春日逗子を据え、本尊の多宝如来像を安置する。この多宝塔は上下層の釣り合いもよく、蟇股や木鼻の絵様および彫刻、その他の細部様式も古風で丁寧に作られ、この時期としては和様色の強い建築物である。」





守護神の豊国稲荷
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滝山寺と滝山東照宮・岡崎市

2018-05-25 22:18:47 | 愛知
2018年5月23日、愛知観光で岡崎市の滝山寺にお参りしました。
説明会より「縁起による役小角の草創といい、保安年中(1120~23)に比叡山の僧仏泉永救が再興した天台宗の寺院である。以降本寺は、古代末期から奈良時代にかけて藤原氏・熱田大宮司家・三河国守護足利氏とその被官衆といった中央集権と密接する有力な檀家を持つことによって経済基盤を固め、隆盛を誇った。近世では正保2年(1645)将軍家光の命により本堂の隅に東照宮が建立され、幕府に保護のもと繁栄を続けた。三門(仁王門)は、文永4年(1267)の建立で、和様建築の伝統を保つ本市現存最古の建築物である。本堂は、4度目の造営と推定され、様式的に禅宗様の影響を強く受けた南北朝期の建築である。観音菩薩・梵天・帝釈天立像は、源頼朝の従兄にあたる僧寛伝が頼朝追善のため本寺境内に建立した惣持禅院に安置したもので、仏師運慶とその一門による制作であるという。」

愛知県岡崎市滝町山籠107
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三門(重要文化財)
「室町前期の文永4年(1267)建築、三間一戸楼門、入母屋造、こけら葺。斗組は下層三手先、上層尾垂木三手先の典型的な中世楼門で、ほとんど純和様で造られ、、わずかに上層部頭貫木鼻に天竺様の影響が認められる。楼上の扁額は文永12年(1275)正三位藤原朝臣経朝の書。工事にあたり飛騨権守藤原光延が垂木を逆さに打ったのを恥じて自殺したとの伝承があり、正面左手の塚はその墓という。」





参道

















宝物館

大クロガネモチ(岡崎市ふるさと景観資産)

鐘楼







本堂(重要文化財)
「室町前期(1333~1392)建築、桁行五間、梁間五間、一重、寄棟造、檜皮葺」

















滝山東照宮
「当社は徳川三代将軍家光によって正保2年(1645)~3年に建立された。造営奉行は竹中重常。極彩色、金鍍装飾金具の社殿は豪華を極め、久能山・日光とあわせて日本三大東照宮の一つとされる。」





鳥居(重要文化財)
「江戸前期の正保3年(1646)築造、石造明神鳥居。」



水屋(重要文化財)
「桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、銅板葺、水盤を含む。」

拝殿、幣殿(重要文化財)
「拝殿 桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、向拝一間、銅瓦葺。幣殿 桁行二間、梁間一間、一重、背面切妻造、前面拝殿に接続、銅瓦葺。」





















中門(重要文化財)と本殿(重要文化財)
「中門は、一間一戸平唐門、銅板葺。本殿は、桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、向拝一間、銅板葺。」





日吉山王社本殿
「滝山寺伝記によると、滝山寺中興仏泉永救により、保安3年(1122)に天台宗寺院滝山寺守護神として、近江国日吉大社より勧請されたもので、山王信仰の事例として神仏習合の貴重な建造物であります。近世に入り、慶長13年(1608)に徳川家康によって社殿が建立され、正保2年(1645)に家光が滝山東照宮を建立した際に再建されたものであります。本殿は、山王七神を祀るために七間流造で、内部を一つの空間とする全国的にも珍しく学術的に重要な遺構であります。」












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信光明寺・岡崎市

2018-05-25 22:17:39 | 愛知
2018年5月23日、愛知観光で、神戸から高速道路を走り、岡崎市に行きました。まずは市内観光として、最初に信光明寺です。雨が降っていたのが少し残念です。
説明書より「この寺は、宝徳3年(1451)に岩津城主松平三代信光、祖父親氏、父泰親の菩提をともらうために創立したものである。釈誉存冏上人を改ざんとし、信光の名をとり信光明寺名づけられた。」
愛知県岡崎市岩津町東山47
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説明書



鐘楼

銅鐘

三門

観音堂(重要文化財)
説明書より「棟札によれば文明10年(1478)に建立されたもので、方三間、入母屋造り、これら葺きで、周囲を石で畳んだ土壇上に立ち、土間床となっている。その構造は、正面中央間を入口とし桟唐戸をとりつけ、両脇間に花頭窓を設け、斗組は二手先詰組、軒は二軒扇垂木、内部は周囲一間通りを化粧屋根とし、入側斗組で囲われた身舎部分を鏡天井張りとし、後方の入側柱と前方の側柱上斗組との間に大虹梁をかけ、前の入側通りに大瓶束を立てている。この堂は、中国から禅宗が伝来すると同時に日本に輸入された禅宗仏殿という建築様式でつくられており、本市にとって、日本建築に歴史の重要な一端を担った建築様式の実例が残されている点で貴重な建築物といえる。」









本堂



庫裏玄関



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熱田神宮

2018-05-25 22:07:31 | 愛知
2018年5月24日、愛知観光で名古屋市の熱田神宮にお参りしました。
「熱田神宮の創祀は、三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)の御鎮座に始まります。また、景行天皇43年創建(113)と伝えられており、建物は伊勢神宮と同じ神明造であるが、1893年(明治26年)までは尾張造と呼ばれる独特の建築様式だった。」
愛知県名古屋市熱田区神宮1-1-1
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鳥居

案内図






































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名古屋城

2017-07-02 16:57:35 | 愛知
2017年6月28日、岐阜の美濃、郡上八幡の古い町並み散策、下呂温泉宿泊での1泊2日の旅行です。神戸に帰る前に名古屋城観光しました。
名古屋市中区本丸1-1
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拝観料500円です。
パンフレットより「関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長14年(1609)豊臣方への備えとして名古屋城の築城と、清須から新城下への街まるごと引越しを決定。この新たに造られた碁盤割の街が現在の名古屋の原型となり、町や橋の名前も受け継がれています。
 慶長15年(1610)名古屋城築城にあたって徳川家康は、加藤清正・福島正則ら西国大名20家に普請(土木工事)を命じました。これを天下普請といいます。天守や櫓の作事(建築工事)は小堀遠州・中井正清らに命じられ、慶長17年(1612)にほぼ完成しました。尾張初代藩主として家康九男の義直が入り、以降名古屋城は御三家筆頭尾張徳川家の居城として栄ました。
 維新後も名古屋離宮としてその美しいたたずまいを誇った名古屋城は、昭和5年(1930)、城郭建築における初めての国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)の名古屋空襲によって本丸のほとんどが焼失しました。しかし、名古屋のシンボルとしての天守の再建を望む市民の声は日に日に高まり、昭和34年(1959)ついに天守が再建されました。」
案内図









正門





金のシャチ
「鯱は空想上の生き物で、水を呼ぶと言われることから火除けのまじないとされてきました。名古屋城の創建時の金鯱は、徳川家の権力・財力を誇るもので、貼られた金の量は慶長大判で1940枚といわれています。現在のシャチは南側で高さ2.579m、重量1,215kg、金板の種類18k、金板の厚さ0.15mm、うろこの枚数126枚、金量43.39kg。」



西南隅櫓(重要文化財)
『桃山時代の慶長17年(1612)頃建造、二重三階、本瓦葺。規模・構造は東南隅櫓と同じですが、「石落し」の破風の形が異なっています。』



内堀



石垣

表二之門(重要文化財)
「高麗門、本瓦葺。本丸南側にあり、鉄板張りとして用材は木割りが太く堅固に造られています。袖掘は土塀で鉄砲狭間を開いています。」



内堀

東南隅櫓(重要文化財)
『二重三階、本瓦葺。本丸の南東隅にある櫓、出窓には「石落し」が設けられています。かつては武具が納められていました。』











本丸表一之門跡
「古名は南一之門、本丸大手の主門で、外門である表二之門とともに枡形を形成していた。入母屋造・本瓦葺の二階建てで、門扉の上には石落しが設けられていた。昭和20年(1945)の空襲で焼失した。」












本丸御殿
「この建物は、尾張藩主の住居・政庁として慶長20年(1615)に建てられた書院造を複元したものです。御殿は木曽地方などで育った天然の桧をたくさん使ってつくられています。桧の香りが漂う建物に入ると、虎の障壁画が見る者を圧倒します。これは復元模写した作品で、描かれた当時の色彩を複元しています。襖の引手金具や長押の釘隠など、いろいろな所にある金具も部屋の威厳を高めています。表書院は名古屋城本丸で一番広く、各式を重視した建物です。玄関は竿縁天井だったのが、ここからは格天井に変わります。部屋にも差をつけて、藩主の座る部屋「上段之間」は床や天井を一段と高くし、床や違棚、付書院、帳台構という座敷飾があります。対面所上段之間の格天井は二重折上げ小組格天井で、格縁には黒漆を施し、天井板には金箔が押しています。」

玄関・車寄
「本丸御殿を訪れた人がまず通され、取り次ぎを待つ建物です。玄関といえども、一之間(18畳)・二之間(28畳)の2部屋からなっており、一之間には床もあります。四周の壁や襖には、来訪者を威圧する勇猛な虎や豹が描かれています。」









ハート形になっています。釘隠

玄関の襖絵、一之間

















表書院
「正規の謁見に用いられた広大な建物です。上段之間(15畳)、一之間(24畳半)、二之間(24畳半)、三之間(39畳)、納戸之間(24畳)の5部屋からなり、江戸時代は大広間と呼ばれていました。障壁画は、松、桜、雉子などの華やかな花鳥図です。」















対面所
「藩主と身内や家臣の私的な対面や宴席に用いられた建物です。上段の間(18畳)、次之間(18畳)、納戸一之間(24畳)、納戸二之間(24畳)の4部屋があり、上段之間と次之間には、京都や和歌山の名所が、多くの人物とともに描かれています。」















格の表現
「高位の人が座る位置に、座敷飾を設けたり、床を一段高くすることにより、一見して高位の人が使う部屋であることが分かるように工夫しています。天井は、竿縁天井や格天井、折上げ天井など、建物や部屋らよって使い分けられています。表書院の上段之間の天井は折上げ小組天井ですが、対面所上段之間では二重折上げ小組格天井で、しかも格縁は黒漆塗であり天井板には金箔が押してあります。」













下御膳所
「長囲炉裏が備えられており、料理の配膳や温めなおしのための建物だと考えられています。」





天井に煙出し

本丸御殿ミュージアムショップ

天守閣
「地下1階、地上7階」





排水溝

天守の入口

















金鯱

案内図

エレベーターで5階まで上がり、そして展望室に階段で上ります。階段を歩いて下り見学します。

石引き

展示物



三千両箱



千両箱



軒丸瓦と瓦釘

天守からの眺望





















釘隠の金具





展示物



風俗図













天井の絵















鉄砲

御用部屋











駕籠









対面所



食事の再現





















































































城下模型



骨組模型







東一之門跡



清正石
「名古屋城で最大の石垣石材。」









旧二之丸東二之門(重要文化財)
「高麗門形式で、二之丸東鉄門(ひがしくろがねもん)枡形にあったものです。」



内堀

清正公石曳きの像

青松葉事件遺跡
「慶応4年(1868)正月20日、二之丸御殿向屋敷の庭前で尾張徳川家の三重臣が斬首され、いわゆる青松葉事件があった。」



二之丸広場から名勝二之丸庭園へ
「元和年間(1615~23)二之丸御殿の造営にともなって同御殿の北側に設けられた庭園です。享保年間(1716~36)以降、たびたび改修され、枯山水回遊式庭園に改められました。」



庭園案内図

那古野城跡









































南池







二之丸東庭園





石垣の刻印(刻紋)
『城内の石垣には多種多様の記号を刻んだ石があります。これは石垣の築造を命じられた諸大名が、他大名と区別するために刻んだ「目じるし」です。』























お疲れ様でした。
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博物館明治村

2015-07-11 23:08:47 | 愛知
2015年7月6日、行きました。台風の影響もあり、あいにくの雨で全部をまわらずに5丁目と4丁目だけとなりました。
拝観料1700円です。
愛知県犬山市字内山1番地
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SL東京駅





帝国ホテル中央玄関(登録有形文化財)
「大正12年(1923)/昭和60年(1985)移築、F.L.ライト設計。車寄,ホワイエと両側のラウンジ,ロビーを保存。水平性の強調,床高の微妙な変化や,彫刻した大谷石,スクラッチ煉瓦,透かしテラコッタによる幾何学装飾など,ライトの設計手法を良く表す。移築時に主構造をSRC造と鉄骨造に改めた。」

















名鉄岩倉変電所(登録有形文化財)
「明治45年(1912)建築/昭和50年(1975)移築、当初は煉瓦造の平屋建。天然スレート葺切妻屋根に両妻壁を立ち上げる。四隅にバットレスをもち,開口部は大きめの要石を飾る半円アーチで,欄間を方立で三分割する。小屋組は木造クイーンポストトラス。移築時に主構造をRC造に改め,煉瓦タイル貼とした。」





宮津裁判所法廷(登録有形文化財)
「明治19年(1886)建築/昭和52年(1977)移築、木造平屋建,入母屋造,桟瓦葺で,吹き放ちの庇が巡る。軒下にガラス入高窓を開く。外壁は隅柱を見せた漆喰塗で腰は竪羽目板張。裁判官席は一段高く設ける。和風の意匠を基に,切石基礎や法廷入口アーチ等,洋風を加味している。H形平面の片翼の一部を移築。」

金沢監獄中央看守所(登録有形文化財)
「明治40年(1907)建築/昭和47(1972)年移築、八角平面の木造平屋建。5方向の渡り廊下が監房棟に続いていた。桟瓦葺の屋根中央に方形の見張塔を載せ,四面に屋根窓を開き,方杖で軒を受ける。基礎は切石で,外壁は柱形付の洋風下見板張で,腰壁と軒下小壁を竪羽目板張とし,欄間付の上げ下げ窓を開く。」

高田小熊写真館(登録有形文化財)
「明治41年(1908)建築/大正初期(1912-1925)増築/昭和57年(1982)移築」、木造2階建,切妻造,鉄板葺屋根の北面に大きくガラス屋根を設けるのは,スタジオの採光である。外壁は柱形を見せる下見板張で,簡素な上げ下げ窓を開く。玄関部分は大正期の増築で,ショウウィンドウの腰を石貼とし,幾何学意匠のパラペット飾りを冠する。」



隅田川新大橋(登録有形文化財)
「明治45年(1912)建造/昭和50年(1975)移築、鉄骨造プラットピントラス橋。3径間173mのうち,浜町側トラスの4/10に当たる23mを移設。全幅19m,両側トラス間12mで,歩道を片持ちとする。路面はアスファルトブロック敷。歩道鉄製高欄のアールヌーヴォー意匠が軽快。設計は東京市土木課。」





内閣文庫(登録有形文化財)
「明治44年(1911)建築/平成2年(1990)移築、二階建の文庫本館で,ドリス式の大オーダーを飾った主屋から両翼を突出する。屋根はスレート葺で,棟上にドーム形ランタンを掲げる。外壁は1階をモルタル塗目地切,2階をタイル貼とする。縦長の窓は両開ガラス窓である。設計は大蔵省臨時建築部の大熊喜邦。」









皇居正門石橋飾電燈(登録有形文化財)
「明治26年(1893)頃築造/平成2年(1990)移設、石橋親柱に設置された6基の内の1基。青銅鋳造,高さ2.7m。脚部は獣足を四隅に踏張り,アーチ形蛇腹を渦巻で受け,旭日と獅子で飾る。縦溝付柱身の上下はアカンサスで飾り,柱上に1灯,四方の腕から各1灯を吊る。台石は移築時に新造。設計は河合浩蔵。」

川崎銀行本店(登録有形文化財)
「昭和2年(1927)建築/平成2年(1990)移築、RC造3階建銀行建築の正面左角部を部分保存。設計は矢部又吉。1階は花崗岩切石整層積で基壇に扱い,2階と3階を通してコリント式角柱を付ける。出入口はドリス式円柱がエンタブレチュアを支え,行章入のメダイオンを飾る。近代都市建築の外観意匠を示す。」



大明寺聖パウロ教会堂(登録有形文化財)
「明治12年(1879)建築/平成6年(1994)移築、木造平屋建,入母屋造,桟瓦葺。正面に切妻の玄関廊をつけ,鐘楼を載せる。外観は真壁造の和風意匠であるが,内部は三廊式のゴシック様式を実現している。身廊は木製束ね柱と漆喰塗の四分ヴォールトで飾り,側廊には竿縁天井を曲面に張る。大工は大渡伊勢吉。」



菊の世酒蔵(登録有形文化財)
「明治28年(1895)建築/昭和58年(1893)移築、桁行18間,梁行9間の土蔵造2階建。切妻造,桟瓦葺で片側に庇がつく。外壁は押縁下見板で保護し,小庇付の窓を多数開く。小屋組は梁行を3等分して柱を立てて鳥居形に組み,両側から登り梁を渡して和小屋とする。移築時,北半にRC造展示室を組み込んだ。」

左から小那沙美島燈台、天童眼鏡橋、前橋監獄雑居房、東京駅警備巡査派出所(登録有形文化財)
「小那沙美島燈台は、明治37年(1904)築造/昭和51年(1976)移築、鋳鉄造,全高6m。工期と立地条件から組立式とされた。燈柱は円筒管4段からなり,上部の点検用デッキを6本の持送りで受ける。燈籠には8面の曲面ガラスを組込み,円錐形の銅板製天蓋と球形の冠蓋を載せる。光源はアセチレンガス燈。当時の工業技術を示す。」
「天童眼鏡橋は、明治20年(1887)築造/昭和51年(1976)移築、山形県産の山寺石(輝石安山岩質凝灰岩)を用いた石造二連アーチ橋の道路橋。長さ13m,幅7.7m,アーチはスパン5.6m,迫り高2.2m。スパンドレルは切石の乱積とする。路面は桁行方向に水平で反りがない。地覆,束,笠石からなる石造高欄がつく。」
「前橋監獄雑居房は、明治21年(1888)建築/昭和46年(1971)移築、木造平屋建の監房。切妻造に越屋根を載せ,桟瓦葺とする。移築時に約半分に切り縮め,中廊下の両側に9房と洗い場を配す。外周と廊下側は栗材の太い格子で,間仕切のみ厚板の壁とする。小屋組は越屋根を取込んだ洋風小屋組。当時の収監施設の実際を伝える。」
「東京駅警備巡査派出所は、大正3年(1914)頃/昭和47年(1972)移築、RC造化粧煉瓦張で腰部に白帯が巡る,いわゆる辰野式の交番。隅切の八角平面で,銅板葺の宝形屋根に換気用ランタンを置く。入口の半円形ペディメントはコンソールを放射状に配す。出入口庇は鋳鉄の持送りで,欄間付き上げ下げ窓の小庇はコンソールで受ける。」

金沢監獄正門(登録有形文化財)
「明治40年(1907)築造/昭和52年(1977)移築、鉄筋コンクリート造、間口15m、左右脇門・左右詰所及び脇門鉄扉付。高さ5.4mの煉瓦壁に主門と脇門を開き,左右に二階建の看視塔が付く。主門は弓形アーチ,脇門はまぐさにアーチを重ねる。中央にエンタブレチュアを飾り,アーチ,コンソール,バンドコースの花崗岩がアクセント。山下啓次郎らによる明治後期五大監獄の一」

聖ザビエル天主堂(登録有形文化財)
「明治23年(1890)建築/昭和48年(1973)移築、鉄筋コンクリート造平屋建、瓦葺、建築面積575㎡。もと外周壁を煉瓦造とする木造会堂。平面は三廊式で,身廊壁面を三層構成とするゴシック様式。木製の束ね柱やトリフォリウム,リブ・ヴォールトと,漆喰塗内壁の対比が美しい。外壁にはバットレスを付け,薔薇窓,尖頭アーチ形の開口,小尖塔などで飾る。」

















半田東湯(登録有形文化財)
「明治末期(1868-1911)建築/昭和55年(1980)移築、木造2階建,切妻造,桟瓦葺,妻入の町家で,背後に平屋建の浴室が接続する。正面1階は庇をつけ,両側に男女別の脱衣室への出入口を設け,中央の出格子裏が番台である。男脱衣室から上る2階は和室2室で,肘掛窓に手摺がつく。浴室の内装は移築時の復原。」

旧呉服座(重要文化財)
「明治25年(1892)建築、桁行25.7m、梁間14.3m、一部二階、切妻造、妻入、正面及び側面庇付、杉皮葺、木戸廻り側面及び舞台廻り側面突出部附属。旧呉服座は舞台、花道、平場、桟敷、楽屋などよりなる木造二階建の芝居小屋で、昭和四十六年に大阪府池田市より明治村に移築され、旧規の姿に復原されたものである。この建物は現存する劇場建築の中では建立年代の古いもので、規模も大きく、江戸時代以来の芝居小屋の伝統を各部にとどめていて、我が国劇場建築の推移を知る上で貴重な遺構である。」















小泉八雲避暑の家(右)と本郷喜之床(左)・(登録有形文化財)
「小泉八雲避暑の家は、明治初期(1868-1911)/昭和46年移築、木造2階建,桟瓦葺,平入,間口3間の町家で,呉服雑貨商として建築。1階は入口が引違戸,店の前がはめ外し板戸と格子窓,2階は手摺付の肘掛窓である。通り土間に沿って3室が並び,2階は表に10畳と4畳,裏に12畳座敷を配す。地方都市商家の一例。」
「本郷喜之床は、明治後期(1868-1911)/昭和55年(1980)移築、木造2階建、瓦葺、建築面積47㎡。石川啄木ゆかりの新井理髪店。木造2階建,桟瓦葺,平入,間口3間の町家である。入口は両開ガラス戸で,両側に引違ガラス窓が続く。1階の前半は店で洋風の板天井とし,背後に和室3室を食違いに配す。2階は6畳2室で,正面には手摺付の肘掛窓を設ける。」

旧伊勢郵便局舎(宇治山田郵便局舎)(重要文化財)
「明治42年(1909)建築、木造、建築面積601.9m2、銅板葺。明治41年11月25日起工,翌年5月14日の竣工である。設計は逓信技手白石圓治,工事監督は逓信技手石渡喜三郎で,施工は地元の岡田斎次郎である。もと伊勢神宮外宮の大鳥居前に建っていたが,昭和42年11月に新局舎への業務移転にともない,博物館明治村に移築された。円形状の中央棟とその両脇にV字型に連なる東西翼屋からなる特徴ある平面形式や独特で斬新な洋風意匠は,当時の郵便局建築の様子をよく示しており,我が国の建築史上高い価値が認められる。また,明治時代の本格的な木造郵便局舎で現存する唯一の事例として貴重である。」





工部省品川硝子製造所(登録有形文化財)
「明治10年(1877)頃建築/昭和44年(1969)移築、煉瓦造平屋建、瓦葺、建築面積123㎡。木造キングポストトラス小屋組による切妻屋根に,換気用の越屋根を載せる。外壁はイギリス積で軒蛇腹が巡る。開口部は半円アーチのファンライト付と,まぐさ石形式の2種を用い,石材がアクセントとなる。明治初期官営工場の遺構。」







六郷川鉄橋(登録有形文化財)
「明治10年(1877)築造/大正4年(1915)・昭和63年(1988)移築、鉄製トラス橋、橋長30m。日本最初の複線用鉄橋で,当初6連あった練鉄製100フィートポニーワーレントラス橋の1連を移設復原。桁長約30m,桁高約3m,幅員7.5m。部材製作のリヴァプール HAMILTON’S WINDSOR IRONWORKS社と設計者の英人土木技師R.V.Boyleの銘板が残る。」





鉄道寮新橋工場(登録有形文化財)
「明治5年(1872)頃/大正8年(1919)・昭和43年(1968)移築、鉄造平屋建、銅板葺、建築面積948㎡。鉄造平屋建。並列二棟の切妻屋根は鉄造キングポストトラス小屋組で支持する。外壁は下見板風鉄板張で,鉄サッシュの窓を開き,出入口に持送りで庇をつける。鉄製部材は輸入材で,トスカナ式鋳鉄柱にリヴァプールHAMILTON’S WINDSOR IRONWORKS社の銘がある。」



歩兵第六聯隊兵舎(登録有形文化財)
「明治6年(1873)建築/昭和40年(1965)移築、木造2階建、寄棟造、瓦葺、建築面積389㎡。当初は桁行50mを超える建物で,移築時に3分の2に縮めた。外壁は白漆喰塗の大壁に胴蛇腹を巡らせ,やや幅広の上げ下げ窓を開く。入口はポーチの起り屋根をトスカナ式円柱が支え,櫛形欄間付の唐戸を開く。鎮台時代兵舎建築の遺存例。」







名古屋衛戍病院(愛知県有形文化財)





ブラジル移民住宅(登録有形文化財)
「大正8年(1919)建築/昭和50年(1975)移築、木造2階建、切妻造,スペイン瓦葺、建築面積82㎡。日本人大工による真壁造の建物で,小屋組や継手も和風の技法とする。1階は煉瓦敷の台所と納屋,2階が居室4室で外階段がつく。2階ヴェランダは曲木で受ける。窓は片開き板戸と両開きガラス戸を部屋毎に使い分けている。」



ハワイ移民集会所(登録有形文化財)
「明治22年(1889)頃建築/昭和44年(1969)移築、木造平屋建、鉄板葺、建築面積88㎡。基督教組合派の岡部次郎牧師が建設した教会。バルーン・フレーム構造の平屋建で,鉄板葺の切妻屋根は軒先で緩勾配とする。隅柱付の下見板張で上げ下げ窓を開く。正面軒高にコーニスを飾り,換気口や入口上ペディメントと共に反復する三角形で意匠をまとめる」

シアトル日系福音教会(登録有形文化財)
「明治40年(1907)頃/昭和59年(1974)移築、木造2階建、寄棟造、シングル板葺、両妻に屋根窓を載せる、建築面積96㎡。我国へも明治末に導入されたプラットフォーム構法で,外壁は小口留の細かな下見板張とする。太い角柱で支えた玄関ポーチと2階ベイ・ウィンドウで変化をつけ,正面側の窓台は細かな持送りで受ける。」



日本赤十字社中央病院病棟(登録有形文化財)
「明治23年(1890)建築/昭和49年(1974)移築、木造平屋建、寄棟造,桟瓦葺、建築面積285㎡。煉瓦造の高い基礎に建ち,廊下を高床に造る。外壁はドイツ下見で,ハーフティンバー風に柱形をつける。病室は欄間付の上げ下げ窓に両開鎧戸,廊下は引違ガラス窓で小壁に革紐装飾を施す。設計は片山東熊。」



第四高等学校武術道場無声堂主屋(登録有形文化財)
「大正6年(1917)建築/昭和45年(1970)移築、木造平屋建、切妻造、桟瓦葺、正面中央に切妻造玄関がつく、建築面積509㎡。内部は剣道場と柔道場に二分し,両妻の落ち棟に師範台と更衣室,背後に浴室を設ける。外壁は隅柱付の洋風下見板張,小壁は漆喰塗真壁造,欄間付引違窓を開く。洋風小屋組で無柱の空間を実現した。」





食堂楽のカフェ







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