2018年11月28日、お参りしました。国道9号線から兵庫県道267号線、妙見山への道路で自動車が通れる道を登ります。ところどころに避難場所があり対面交通を回避します。
日光院の由緒書
「当院は、飛鳥時代(人皇三十代敏達天皇・572年)日光慶重がここ石原に一寺を築いた事に始まります。霊符縁起によりますと、但馬国・石原妙見は、肥後国・八代妙見、下総国・相馬妙見と共に日本三大妙見の一つとされています。ご本尊は妙見大菩薩で、非常に霊験あらたかな仏様です。そして、北斗七星と同体とされるが故に寺紋は「七曜紋」となっています。太古より万物の運勢と天体の動きとの間には、密接な関係があると考えられてきました。北の空で、一年を通じて観ることの出来る北斗七星、つまり妙見大菩薩は星宿の中の帝王とされ、万物の運勢を司る仏様として信仰されてきました。農業にあっては五穀豊穣、商売にあっては商売繁盛など、あらゆる事に対して「開運厄除」のご利益がある仏様です。
戦国時代には、特に武門将士の信仰をあつめ、山名宗全も、ここ日光院で戦勝祈願をしました。それらの古文書は「日光院文書」と呼ばれ、中世の歴史を伝える貴重な史料として、兵庫県指定重要文化財となっています。
天正年間、羽柴秀吉の山陰攻めの兵火にあい、寺門一時衰微しましたが、寛永9年には、ここから西方50丁妙見中腹に移転復興し、三代将軍家光江り、三十石の御朱印地を賜りました。また、寛文5年には、出雲大社の御造営に際し、本殿の御用材に日光院の妙見杉をお譲りしたお礼に、出雲大社より日光院に三重塔を譲り受けました。そして、妙見全山を伽藍とする壮大な妙見信仰の一大霊場として繁栄を極めました。
明治になり廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、妙見信仰の弾圧が始まりました。明治9年7月8日、遂に「寺号を廃して、不動産のみ名草神社とせよ」という布達にて、再びこの地の末寺成就院と合流し、今日に至っています。
つまり寛永9年から明治9年まで(245年間)の日光院の建物に、新たに名草神社が入り、お寺の建物がそのまま神社とされたのです。
そこが日光院であったが故に、仏教の象徴である三重塔が名草神社の境内に存在しているのです。
幾多の困難な時代を乗り越え、妙見大菩薩のご加護と、檀信徒の信心により妙見信仰の法灯を護持し、今なお宗教、宗派をこえて開運厄除のお寺として、多くの信仰を集めているのです。」
兵庫県養父市八鹿町石原450
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名草神社三重塔(国重要文化財)
「この三重塔は、島根県出雲大社に出雲国主尼子経久が願主となって大永7年(1527)6月15日に建立したものと伝えています。
出雲大社の本殿の柱に妙見杉を提供した縁で、塔は日本海を船で運ばれ、寛文9年(1655)9月に標高800mのこの地に移築されました。
高さは24.1m、一重の一辺の柱間は4.7mあります。屋根はこけら葺で、各重には高覧付縁があります。心柱は二重から塔の先端まで伸びています。
彫刻では一重の軒隅で力士が屋根を支えています。蟇股には梵字のほか蓮、牡丹、琵琶、雲のす透かし彫りがあります。また三重の軒隅にし「見ざる・言わざる・聞かざる・思わざる」を表した四猿の彫刻があります。
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拝殿・本殿は平成32年度まで修理中でした。






日光院の由緒書
「当院は、飛鳥時代(人皇三十代敏達天皇・572年)日光慶重がここ石原に一寺を築いた事に始まります。霊符縁起によりますと、但馬国・石原妙見は、肥後国・八代妙見、下総国・相馬妙見と共に日本三大妙見の一つとされています。ご本尊は妙見大菩薩で、非常に霊験あらたかな仏様です。そして、北斗七星と同体とされるが故に寺紋は「七曜紋」となっています。太古より万物の運勢と天体の動きとの間には、密接な関係があると考えられてきました。北の空で、一年を通じて観ることの出来る北斗七星、つまり妙見大菩薩は星宿の中の帝王とされ、万物の運勢を司る仏様として信仰されてきました。農業にあっては五穀豊穣、商売にあっては商売繁盛など、あらゆる事に対して「開運厄除」のご利益がある仏様です。
戦国時代には、特に武門将士の信仰をあつめ、山名宗全も、ここ日光院で戦勝祈願をしました。それらの古文書は「日光院文書」と呼ばれ、中世の歴史を伝える貴重な史料として、兵庫県指定重要文化財となっています。
天正年間、羽柴秀吉の山陰攻めの兵火にあい、寺門一時衰微しましたが、寛永9年には、ここから西方50丁妙見中腹に移転復興し、三代将軍家光江り、三十石の御朱印地を賜りました。また、寛文5年には、出雲大社の御造営に際し、本殿の御用材に日光院の妙見杉をお譲りしたお礼に、出雲大社より日光院に三重塔を譲り受けました。そして、妙見全山を伽藍とする壮大な妙見信仰の一大霊場として繁栄を極めました。
明治になり廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、妙見信仰の弾圧が始まりました。明治9年7月8日、遂に「寺号を廃して、不動産のみ名草神社とせよ」という布達にて、再びこの地の末寺成就院と合流し、今日に至っています。
つまり寛永9年から明治9年まで(245年間)の日光院の建物に、新たに名草神社が入り、お寺の建物がそのまま神社とされたのです。
そこが日光院であったが故に、仏教の象徴である三重塔が名草神社の境内に存在しているのです。
幾多の困難な時代を乗り越え、妙見大菩薩のご加護と、檀信徒の信心により妙見信仰の法灯を護持し、今なお宗教、宗派をこえて開運厄除のお寺として、多くの信仰を集めているのです。」
兵庫県養父市八鹿町石原450
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名草神社三重塔(国重要文化財)
「この三重塔は、島根県出雲大社に出雲国主尼子経久が願主となって大永7年(1527)6月15日に建立したものと伝えています。
出雲大社の本殿の柱に妙見杉を提供した縁で、塔は日本海を船で運ばれ、寛文9年(1655)9月に標高800mのこの地に移築されました。
高さは24.1m、一重の一辺の柱間は4.7mあります。屋根はこけら葺で、各重には高覧付縁があります。心柱は二重から塔の先端まで伸びています。
彫刻では一重の軒隅で力士が屋根を支えています。蟇股には梵字のほか蓮、牡丹、琵琶、雲のす透かし彫りがあります。また三重の軒隅にし「見ざる・言わざる・聞かざる・思わざる」を表した四猿の彫刻があります。
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拝殿・本殿は平成32年度まで修理中でした。






