旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

旧三笠ホテル

2019-05-28 13:56:53 | 長野
2019年5月23日から25日、2泊3日の草津・鬼怒川名湯めぐりと世界遺産日光東照宮のトラピクスの旅に行きました。1日目です。
茨木空港から碓氷峠のめがね橋、そして旧軽井沢の街並みです。街の外れに旧三笠ホテルがあります。
三笠街道を歩きます。両側に別荘があります。













旧三笠ホテル(重要文化財)
「三笠ホテルは、日本郵船や明治製菓の重役を努めた実業家の山本直良(1870~1945)が創業しました。1904年(明治37年)にホテルの工事を始め、翌1905年に竣工しました。アメリカで設計を学んだ岡田時太郎の設計です。すべて日本人によってつくられています。ホテルの営業は1906年(明治39年)5月に開始されました。電灯によるシャンデリア照明、英国製タイルを張った水洗便所、英国製のカーペットの採用など、当時の最先端・最高級の設備が整えられています。初めの利用者は外国人などが多かったのですが、しだいに近衛文麿・澁澤栄一・大隈重信など、日本を代表する政財界人が数多く滞在するようになってきました。その後、さまざまな経過をたどり、1980年(昭和55年)3月に軽井沢町に寄贈されました。木造純西洋式のホテルとしては、札幌にある豊平館(1880年・明治13)に次ぐ古い建物です。この建物の特徴は、湾曲したブラケット(腕木)で支えられた軒、太い縁取りの窓枠、階段の手すり、木製のカーテンボックス等が代表的なもので、デザイン的にも優れた技巧が随所に見られます。」
長野県軽井沢町大字軽井沢1339-342
map






































































































コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧軽井沢町

2019-05-28 13:54:38 | 長野
2019年5月23日から25日、2泊3日の草津・鬼怒川名湯めぐりと世界遺産日光東照宮のトラピクスの旅に行きました。1日目です。
茨木空港から碓氷峠のめがね橋、そして旧軽井沢の街並みです。
『軽井沢町は、もともと軽井沢(現・軽井沢)、沓掛(現・仲軽井沢)、追分とが関東の出入口を固める碓氷の険を控えた浅間根腰の三宿として栄えていました。1886(明治19)年、軽井沢をはじめて訪れたカナダ生まれの英国聖公会宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーは、この地を「屋根のない病院」と呼び、絶賛しました。冷涼な気候や澄みきった大気、緑豊かな森林など、自然に恵まれた軽井沢の西欧的な風土に魅せられたショーは、軽井沢の避暑地としての適性を内外に紹介し、自ら1888(明治21)年、軽井沢での最初の別荘を建てました。かつては中山道の軽井沢宿があったところで、明治以後は外国人の避暑地として発展し、現在は別荘族や観光客により賑っています。』

軽井沢聖パウロカトリック教会









































































トイレが有料です。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

妻籠宿(重伝地区)

2016-11-11 19:54:37 | 長野
2016年11月5日、重要伝統的建造物保存地区の妻籠宿散策しました。長野2泊3日の旅行で神戸の帰路の途中に寄りました。
「江戸と京を結ぶ中山道は、山深い木曽路を通ることから木曽街道とも呼ばれていました。中山道六十九次のうち江戸から数えて四十二番目となる妻籠宿(つまごししゅく)は、中山道と伊那街道が交叉する交通の要衝として古くから賑いをみせていました。」
駐車場の叶ぴんころ地蔵

妻篭宿の案内図









































































枡形

























































































観光客もそこそこいました。お疲れ様でした。もう16時になりました。神戸にたどり着けるのかなあ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良井宿(重伝地区)

2016-11-11 19:02:15 | 長野
2016年11月5日、重要伝統的建造物保存地区の奈良井宿を散策しました。長野2泊3日の旅行で、松本城、善光寺、上田、諏訪、などを観光し、神戸への帰路に寄りました。
「中山道の奈良井宿は、鳥居峠上り口にある鎮神社を京都側の端に、奈良井川沿いを緩やかに下りつつ約1キロにわたって町並みを形成する、日本最長の宿場です。」
木曽路の宿場町の案内図
賽川宿、奈良井宿、薮原宿、宮ノ越宿、福島宿、上松宿、須原宿、野尻宿、三留野宿、妻籠宿、馬籠宿と並んでいます。

奈良井宿の案内図

楢川村(現塩尻市)と大橋の紹介
『楢川村は、長野県の南西部に位置し、木曽路の北の玄関口にあたり、中山道11宿の内、奈良井、賽川宿を擁する人口約3500人の村です。かつては木曽路で一番の賑いをみせた奈良井宿は、現在も当時の姿を残し、独特な家造りが見られます。また、伝統工芸の木曽漆器が有名で、町並みを見渡すと、漆器店や漆職人の家が多く見られます。奈良井宿では、毎年6月の第1日曜日に奈良井宿場祭が行われ、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような行列が続きます。奈良井川に架けられている「木曽の大橋」は、樹齢300年以上の天然木を使った総檜造りです。』

木曽の大橋







奈良井宿の説明書

道の駅より奈良井宿の町並みに進みます。



















































































































































































































ここの宿場町は土産物店などがけっこうありますので、観光客がたくさんいました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木曽平沢宿(重伝地区)

2016-11-11 18:16:21 | 長野
2016年11月5日、長野2泊3日の旅行で松本城、善光寺、松代、上田、諏訪などを観光し、神戸への帰路で中山道の木曽平沢宿に寄りました。
「塩尻市木曾平沢は重要伝統的建造物保存地区です。中山道で塩尻から途中で16世紀末頃に集落形成が始まったとされるています。慶長7年に江戸幕府により中山道のルートとして整備された宿場です。木曽漆器の産地で、近世後期の地割をよく残すとともに、近世以来の伝統的な町家や塗蔵などが一体となり漆器生産の町としての特色ある歴史的風致をよく伝えています。漆器職人の集住と伝統的な手法とにより、現在も木曽漆器が生産され続けています。」
map
駐車場は木曽漆器館に止めます。

案内図















































































笹良漆器店、こちらの店で漆塗りの汁椀を土産に買いました。
長野県塩尻市木曽平沢1530

ここの宿場町は素敵ですが、土曜日なのに観光客がいないのが寂しいですね。非常に天気がよくて最高でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

諏訪大社下社

2016-11-11 17:38:03 | 長野
2016年11月5日、お参りしました。長野2泊3日の旅行で、松本城、稲荷山町並み、善光寺、松代、上田、上諏訪と観光し、帰路での諏訪大社に行きました。
「信濃国の一の宮、全国の1万余の諏訪社の総本社で、国内の神社で最も古い神社の一つです。諏訪大社の歴史は大変古く古事記の中では出雲を舞台に国譲りに反対して諏訪までやってきて、そこに国を築いたとされています。諏訪大社の特長は、本殿がなく秋宮は御神木、上社は御山を御神体としています。諏訪明神は古くは風・水の守護神で五穀豊穣を祈る神。また武勇の神として広く信迎され、現在は生命の根源・生活の源を守る神として、多くの方が参拝しています。」
諏訪大社は上社の本宮と前宮は茅野市にあり、下社の秋宮と春宮は下諏訪町にあり、4社があります。
諏訪神社下社秋宮
長野県諏訪郡下諏訪町5828
map
諏訪神社下社秋宮案内図



反橋

手水舎

鳥居

参道

御神木

神楽殿(重要文化財)
「江戸時代の天保6年(1835)造営、桁行五間、梁間三間、一重、T字形切妻造、妻入、銅板葺。諏訪大社下社は春宮と秋宮よりなり、祭神は春秋の半年毎に遷座される。両社とも本殿はなく、幣拝殿や左右片拝殿の形式、配置はおおよそ本宮に類似しながら、幣殿、拝殿が一棟の楼門形式となるなど、下社特有の形を示している。春宮と秋宮の社殿の形式、配置は基本的には同じであるが細部などに多少の差異がある。
 春宮と秋宮の現社殿は相前後して建立されたもので、前者は諏訪藩御大工の流れを組む大隅流柴宮長左衛門、後者は立川流初代富棟の手になる。地元を代表する大工が競い合い、流派の面目をかけた建築であり、華麗な彫刻などみるべきものがある。」











狛犬





幣拝殿(重要文化財)
「江戸後期の安永9年(1780)造営、桁行一間、梁間二間、楼造、切妻造、正面軒唐破風付、銅板葺、左右袖塀附属。」



















左右片拝殿(重要文化財)
「桁行五間、梁間二間、一重、切妻造、銅板葺。」





末社

さざれ石

境内で菊花展をしていました。





























諏訪大社下社春宮
長野県諏訪郡下諏訪町193
map

案内図

説明書
「諏訪大社は建御名方神と八坂刀売神を祀り、上社は建御名方神(彦神)を、下社は八坂刀売神(女神)を主祭神としている。下社の祭神は、ニ月から七月まで春宮に鎮座し、八月一日の御舟祭で秋宮に遷座し、翌ニ月一日に春宮に帰座される。下社の中心となる建築は、正面中央にある拝殿と門を兼ねたような形式の弊拝殿、その左右にある回廊形式の片拝殿、それらの背後にある東西宝殿からなる。東西の宝殿は茅葺・切妻造、平入の簡素で古風な形式をもち、寅申の七年ごとの御柱大祭で新築する式年造替制度がとられている。右のような社殿形式は諏訪大社に特有のものであり、またひの弊拝殿と左右片拝殿に似た形式は、長野県内の諏訪神を祀るいくつかの神社でも用いられている。現在の春宮の弊拝殿は安永8年(1779)に完成したと考えられる。大工棟梁は、高島藩に仕えた大工棟梁伊藤儀左衛門の弟である柴宮(当時は村田姓)長左衛門矩重(延享4年・1747~寛政12年・1800)であった。弊拝殿は、間口の柱間が一間、奥行がニ間で、背後の壁面に扉口を設ける。ニ階は四方が吹放ちで、屋根は切妻造・平入りの檜皮葺で、正面は軒唐破風をつける。左右の片拝殿は、梁行の柱間が一間・桁行が五間で、屋根は片流れの檜皮葺である。弊拝殿の建築様式の特徴は、各所につけられた建築彫刻の多さとその躍動感にあふれた表現である。正面の腰羽目の波、紅梁の上の牡丹、唐獅子・唐破風内部の飛竜・一階内部の小壁の牡丹・唐獅子・扉脇の竹・鶏で名作が多く、建築彫刻の名手である柴宮長左衛門の腕前がよくうかがえる。」



手水舎

鳥居



参道

狛犬







神楽殿



御神木



末社

幣拝殿(重要文化財)
「江戸後期の安永8年(1799)造営、桁行一間、梁間二間、楼造、切妻造、正面軒唐破風付、銅板葺、左右袖塀附属。」























左右片拝殿(重要文化財)
「片拝殿と呼ばれるこの建物は安永8年(1799)、地元の大工柴宮(伊藤)長左衛門により造営されたものである。秋宮に比べて幅が短く屋根は片切りとなっている。」









末社

筒粥殿





砥川

浮島社



浮島橋

砥川





万治の石仏
「伝説によると諏訪大社下社(春宮)の大鳥居を造る時この石を材料にしようとノミを入れたところ傷口から血が流れ出したので、石工達は恐れをなして仕事をやめた(ノミの跡は現在でも残っている)その夜石工の夢枕に上原山(茅野市)に良い石材があると告げられ果たしてそこに良材を見つけることができ鳥居は寛政したというのである。石工達は、この石に阿弥陀如来を祀って記念とした。尚、この地籍はこの石仏ににちなんで古くから下諏訪町字石仏となっている。」











諏訪大社のお参りをしましたので、帰路につきます。
すわ湖果樹園、りんごの直売をしていますので、りんごを土産に買って帰りました。
長野県諏訪郡下諏訪町赤砂4464



神戸に帰る途中、中山道の宿場に寄りますので国道19号線を走りました。途中に土田園のりんご直売所に立ち寄り、りんごとやや甘口の信州桔梗ケ原のイヅツワインを土産に買いました。
長野県塩尻市宗賀1299-156





お疲れ様でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上諏訪温泉周辺の散策、片倉館・高島城

2016-11-10 20:12:08 | 長野
2016年11月4日、上諏訪温泉の油屋旅館に宿泊し、周辺を散策しました。阿部寛の映画「テルマエ・ロマエ」の撮影現場となった片倉館が日帰り温泉となっています。油屋旅館から数分のところなので、旅館到着後、お風呂に入りにいきました。入浴料は650円です。
片倉館 (重要文化財)
パンフレットより

「明治6年(1873)に岡谷で製糸業を興した片倉組の中で、後にシルクエンペラーと称されたニ代目片倉兼太郎は、大正末期にヨーロッパ、北米などへの視察旅行で地域住民への福祉施設が大変充実していることに感銘を受けました。地元の諏訪地方にも、そのような施設を作りたいと考え、片倉同族の有志より基金80万円(現在の数十億円)を集め、温泉大浴場やサウナなどを備えた文化福祉施設を建設しました。昭和3年(1928)に片倉館が諏訪湖畔に完成し、ほぼそのままの姿で現在に至っています。設計者は東京帝国大学卒業の森山松之助です。大浴場は天然温泉を豊富にたたえる大理石造りの浴槽は、100人が一度に入浴できるほどの広さと1.1メートルの深さがあります。底には玉砂利を敷き詰め、足の裏からの心地よい刺激が感じられます。ステンドグラスや周囲の彫刻、装飾も心を和ませます。」







































諏訪市美術館 (登録有形文化財)
「昭和18年建築の旧懐古館、上諏訪温泉中心部に所在する片倉館の敷地内に建ち、建築面積400㎡、木造二階建、入母屋造桟瓦葺である。内外ともコンクリート造風の大壁とし、全体を和風意匠でまとめる。洋風意匠の片倉館と相まって、諏訪湖畔独特の景観に貢献している。」



諏訪湖畔























高島城三之丸跡地

丸高蔵店舗 (登録有形文化財)
「上諏訪市街の通りに西面して建つ。桁行10m梁間16m、木造二階建、切妻造妻入鉄板葺で、伝統的な民家形式である本棟造の建物である。一階の正背面に深い庇を設け、二階の中央に出窓を設けるなど、本棟造独特の陰影のある外観をもつ。」

丸高蔵吉沢蔵(登録有形文化財)
「店舗の南隣に建つ。桁行31m梁間10m、土蔵造二階建、南北棟の寄棟造鉄板葺である。東面に出入口を開き、外壁は漆喰仕上げで腰高に竪板を張る。正背面に下屋を張り出し、北面に平屋建の棟を付属する。老舗醸造所の風格を示す大規模な土蔵。」

三之丸温泉



上諏訪温泉周辺案内図

高島城
「天守閣概要、延面積381㎡、高さ20.2m、三層。天正18年(1590)、当時の諏訪領主諏訪頼忠が徳川家康の関東転封に従って武蔵国へ移った後、豊臣秀吉の家臣日根野織部正高吉が諏訪に転封、2万7千石を与えられ諏訪の領主となりました。高吉は安土城や大坂城の築城にも携わった築城の名主。転封の翌年、天正19年(1591)にはすでに城地の見立てと設計が終え、翌文禄元年(1592)に着工、慶長3年(1598)まで7年ほどかかって高島城を築城。城の際まで諏訪湖の水が迫り、湖上に浮いて見えたことから別名「諏訪の浮城」と呼ばれた。また「諏訪の殿様よい城持ちゃるうしろ松山前は海」と歌われた名城です。その後、関ヶ原の戦いで徳川軍の属した諏訪頼水(頼忠の子)は、慶長6年(1601)家康の恩恵によって旧領諏訪に帰り藩主となり、以降、10代藩主忠礼に至る270年の間、諏訪氏の居城としてその威容を誇りました。しかし明治4年(1871)廃藩置県により封建制のシンボルである城郭の撤去が決定、明治8年(1875)には天守閣の撤去が終了。諏訪市民の高島城に寄せる愛着は強く、昭和45年(1970)、天守閣が復興されました。」



冠木橋

隅櫓



冠木門





































菊の展示をしていました。









高島城説明書

石集配湯枡









川渡門

諏訪護国神社

























































堀で鴨が朝寝





隅櫓











山は薄く雪景色でした。

高島城横の高島農園直売所でりんごを買って帰りました。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上田市別所温泉、安楽寺八角三重塔(国宝)・

2016-11-10 15:34:58 | 長野
2016年11月4日お参りしました。長野2泊3日の旅行で松本城、善光寺、松代などを観光し、上田市内の寺院巡りです。
安楽寺
縁起「建長(鎌倉の建長寺)と塩田(安楽寺)とは各々一刹により、或は百余衆或は五十衆、皆これ聚頭して仏法を学び、禅を学び、道を学ばんことを要す云々。これは大覚禅師語録(建長寺開山蘭渓道隆)の一節である。これにより安楽寺は、鎌倉時代中期すでに相当の規模をもった禅寺であり、信州学海の中心道場であったことがうかがわれる。鎌倉北条氏の外護によって栄え、多くの学僧を育てていたこの寺も、北条氏滅亡(1333)後は、寺運も傾いて正確な記録も残らないが、国宝、重要文化財等数多くの鎌倉文化の文化遺産を蔵して、信州最古の禅寺のおもかげを残している。また、当寺は安土・無桃山時代に勅特賜・大光智勝禅師高山順京大和尚により、同じく禅を標榜する曹洞宗に改められ、現在に至っている。」
拝観料300円です。参拝用の駐車場があります。
長野県上田市別所温泉2361
map
黒門

案内図

参道



鐘楼



境内

本堂



庫裏









経蔵(上田市指定文化財)
「江戸時代の寛政6年(1794)、宇治の黄檗宗萬福寺から購入した鉄眼の一切経を保管するために建てられた方3間、ぬりこめ、宝形造、銅版葺の経蔵で、この種の建物の代表的なものである。」







三重塔は本堂の裏を登った山腹にあります。少し登ります。







八角三重塔(国宝)
「建立年代は、従来鎌倉時代末期、又は、室町時代初期といわれていたが、用材の年輪年代測定により、鎌倉時代末期であることが判明した。建築様式は、禅宗様八角三重塔で、初重に裳階をつけたいる。様式は全体が禅宗様の手法でできていて、初重と裳階の柱は礎盤上に立ち、組物は裳階出組、母屋三手先でいずれも詰組、軒はすべて二軒扇垂木とする。尾垂木は上下二本とも水平材からつくり出しており、上方を斜の材とする禅宗様の普通の手法とはちがう。内部は母屋側柱に二手先組物を組み、裳階は土間床で、化粧屋根裏天井とし、母屋は前面に板を張って仏壇にしており、八角円堂に似た構成となる。母屋の天井は鏡天井であるが少々複雑で、小さな二手先組物を組んで中央部を折上げており、組物下には台輪・頭貫が回り、柱頭部が釣束のように取りついている。これは母屋の入側柱を省略し、その組物が退化したものと考えられる。母屋側柱の組物上には短い柱を立てて三手先組物を組むが、これが外からみえる部分である。この塔は現存唯一の八角塔であり、初重の側柱や天井に独特の手法がみられる。鎌倉系の本格的な禅宗様でできており、伽藍配置も含めて臨済宗寺院の塔のあり方の一つを示している。」
見た感じでは4重となっています。独特な形です。



















少し歩いて、常楽寺に行きます。
山本宣治・高倉テル・齋藤房雄記念碑
説明書「昭和初期の大恐慌の中、上小(上田・小県)農民組合連合会が結成され、小作料値下げ、土地取り上げ反対などの運動に立ち上がった。これより前に上田自由大学の講師として別所に住んでいた高倉テルは農民運動、民主主義と社会進歩の運動に指導的役割を果たした。1929年3月1日、上小農民組合連合会は第2回総会に高倉の義兄弟にあたる山本宣治(京都府出身、生物学者、労農党代議士《山宣》)を招く。この記念講演は1千名を超える聴衆に深い感銘を与えた。この講演の4日後の3月5日、山宣は治安維持法案改悪承認の議会にただ一人反対演説をすべく上京したが、その夜右翼により暗殺された。上小農民組合連合会は山宣の死を悼み、追悼大会の議決として高倉の借家に碑を建立した。1933年2月の治安維持法による県下最大の弾圧事件であった2.4事件で高倉は逮捕され、家族は県外通報となった。警察は家主の齋藤房雄に碑の破壊を命じてきたが、氏は碑を密かに自宅の庭に埋め、38年間守り通した。戦後、この碑の再建委員会を結成、多くの協力者を得てこの地に1971年10月、この碑は再建された。碑の前面に彫られたラテン語は、山本宣治の銘『生命は短し科学は長し』の意である。なお、碑面の文字は高倉の筆である。」





小路からの景色







常楽寺
参拝用の駐車場があります。入口には拝観料100円を入れる収納箱があります。
「常楽寺は天台宗別格本山で、北向観音堂が建立された天長2年(825)、三楽寺の一つとして建立されました。本堂裏の北向観音の霊像が出現した場所には、弘長2年(1262年)の刻銘のある石造多宝塔が保存されています。」
長野県上田市別所温泉2347

本堂(上田市指定有形文化財)
「この本堂は、寄棟造、茅葺の建物で、正面中央に唐破風の向拝を付けています。間取りは、前側に細長く広縁をとり、中央に外陣・内陣があり、その両脇に部屋を配置する構成で、内陣の左脇の部屋が「上段の間」となっています。この間取りは当初からのもので、ほとんど改造されていません。また、間口が十間(約18m)あり、長野県内の江戸中期後半の天台真言系本堂として屈指の規模を持っています。寺の「分限帳」によれば、客殿(本殿)・本尊・庫裏の建立は46世翁玄の代(1710~38在住)で、本尊の妙観察智阿弥陀如来坐像には享保10年(1732)の墨書があり、本堂の再建も本尊入仏と同じ享保17年頃であったと考えられます。建物の様式をみても虹梁の絵様・組物・欄間などのように17世紀後期の比較的古い様式を示す部分と、柱が一間ごとに立たないという18世紀中期以降の特色が混在しており、享保末期から元文期(1730年代)の建築と考えられます。ただし、庫裏破風の向拝部分は、様式が本堂と若干異なっており、後に付け加えられたとみられます。本堂の意匠は彫刻的な装飾は少なめですが、これは江戸中期の本堂の特色で、常楽寺本堂は江戸中期後半の特色をよく示した貴重な建築といえます。」









境内の紅葉が素敵ですね。

庫裏

六地蔵

石造多宝塔への階段



石造多宝塔の図

説明書
「高さ2m85cmの安山岩で出来ており、多宝塔というのは、上下二層の屋根がある塔です。下の屋根の上に饅頭形という丸いふくらみがあって、その上にまるい塔身があり、二つの屋根がその上にのっています。なお、その上に相輪という柱のようなものが立っています。」

石造多宝塔(重要文化財)と石造多層塔(上田市指定文化財)

お疲れ様でした。車を走らせ上諏訪温泉に行きます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

前山寺(上田市)

2016-11-08 22:00:15 | 長野
2016年11月4日お参りしました。長野2泊3日の旅行で、松本城、善光寺、松代と観光し、上田市内の寺院巡りです。
縁起「独鈷山麓にある古刹で、本尊は大日如来。弘仁年中(812)空海上人が護摩修行の霊場として開創したと伝えられている。当初古義真言宗として法相、三論両宗を兼ねていたが、元弘年中(1331)讃岐国善通寺より長秀上人が来止し、正法院を現在の地に移し、前山寺を開山したと伝えられている。塩田城の鬼門に位置し、その祈祷寺として、武将の信仰も厚かった。貞享年中(1684~)鶏足寺を離末し、京都の智積院末となり新義真言宗信州常法談林所として教学の殿堂であった。かつては40数ケ寺の末寺をもと、歴史のある寺として知られている。」
入山料200円です。
長野県上田市前山300
map
案内図

縁起書

薬医門

境内

休憩所

本堂











鐘楼堂



三重塔(重要文化財)
「室町後期(1467-1572)建築、三間三重塔婆、こけら葺」















宝篋印塔

明王堂
















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長野市松代、恵明禅寺・旧横田家住宅・大英寺・證蓮寺・長国寺・矢沢家表門

2016-11-08 21:07:06 | 長野
2016年11月4日、長野市松代を散策しました。
恵明禅寺
「延宝5年(1677)3代藩主真田幸道の開基により造営された黄檗宗寺院で、正室豊姫の墓所です。度重なる災禍で山門以外は焼失しましたが、天保4年(1833)8代藩主真田幸貫により、本堂・御霊屋・鐘楼・庫裏などが再建され、現在に至っています。本堂には幸貫自作の布袋和尚像を安置しています。」



山門(登録有形文化財)
「延宝5年(1677)建造、伽藍正面に位置する一間棟門。切妻造桟瓦葺。粽付の面取方柱を礎石上に建て、上部に三斗を組み、棟木を支持する。本柱間は?で固め、男梁女梁を前後に出し、軒桁を支持する。一軒半繁垂木。独特の構造になるが、中備の蟇股や絵様など時代相応である。」

縁起書



鐘楼(登録有形文化財)
「天保4年(1833)建造、本堂の東方、門との間に位置する。桁行一間梁間一間、2階建の鐘楼。入母屋造桟瓦葺。石積基壇上に建ち、柱は四方転びで、直接に桁や梁を支持。軒は一軒疎垂木。1階の下半部を竪板張、他を漆喰仕上げとし、袴腰風に見せる。特異な形態になる鐘楼。」



























豊姫の霊屋










井上操生誕の地

代官町











旧横田家住宅(重要文化財)
「江戸後期の寛政6年(1794)建築、桁行16.2m、梁間8.7m、寄棟造、北面玄関附属、寄棟造、南面突出部、二階建、寄棟造、東面便所附属、茅葺。旧横田家住宅は松代藩真田家に仕えた中級武士の屋敷で、式台や客座敷を備えた茅葺屋根の主屋をはじめ、表門、隠居屋など附属屋もよく揃い、改造も少ない。松代の武家住宅の代表例で、屋敷構を現在に伝えるものでは全国的に数少ない貴重な遺構である。」
表門





金刀比羅宮





大英寺
「初代藩主真田信之が妻・小松姫の菩提を弔うために開いたお寺です。」工事中でした。




















證蓮寺
「真宗大谷派親鸞聖人の最初の弟子、法眼淨賀を開基として東条村に建立。」
山門(登録有形文化財)
「境内の西辺中央に構える。間口二・一メートルの四脚門形式、切妻造桟瓦葺で、棟両端に鯱を飾る。軸部を黒色塗とし、桟唐戸を吊る。彫刻等の装飾を抑えた端正な外観ながら、規模や構造は市内の歴代藩主霊屋の表門と類似し、風格のある佇まいを見せる。」



本堂(登録有形文化財)
「桁行一四メートルの堂で、正面に一間向拝を付す。平面は標準的な真宗寺院本堂形式で、外陣中央間と矢来内の間に絵様虹梁を架けて結界を表す。棟の短い寄棟造屋根を持ち、松代における寺院本堂の特徴的な外観をみせる。」

聖徳太子堂(登録有形文化財)
「境内南側に北面して建つ、切妻造妻入、桟瓦葺。正面に向拝状の下屋を付し、妻壁に唐草など、堂内の組物間に雲龍や瑞獣などの鏝絵を施し、巧緻な左官技術を見せると共に、内外を華やかに飾立てる。大火後に市民の浄財により再建された堂で、往時の隆盛を伝える。」



鐘楼(登録有形文化財)
「境内南西隅に位置し、高い亀甲積基壇上に建つ方一間吹放ち形式の鐘楼。南北棟の入母屋造で桟瓦を葺き、軒は二軒繁垂木である。面取角柱を四方転びに立て、柱上に三斗、中備に蟇股を配する。通りからも望見され、松代城下の景観に寄与する鐘楼である。」





祝神社







拝殿(登録有形文化財)
「桁行7間、梁間3間規模、入母屋造、桟瓦葺、妻入。正面向拝は唐破風付きで彫刻で飾る。内部は2室で奥間の床を一段高くする。正面1間を吹放し3方に縁を廻す。鬼瓦には六連銭を表す。本殿と同年代の建立で一体となって歴史的景観を形成する。」





本殿(登録有形文化財)
「文化9年(1812)建造、銅板葺の二間社流造の社殿で、縁及び浜床を高くとり、均整のとれた外観を示す。脇障子に唐獅子を表し、向拝中備の龍や木鼻の象など、各所に彫物をあしらい華やかに飾る。松代町方の総鎮守神、産土神として地元で親しまれてきた。」

西宮神社

長国寺
「真田山の山号を持つ、真田家の菩提寺。真田家歴代藩主の墓があるほか、信之、信弘の御霊屋があります。」





































矢沢家の表門(長野市指定有形文化財)









お疲れさまでした
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする