旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

遊歩道の花、春の訪れ♬

2018-03-30 16:57:55 | 日記
2018年3月30日、朝の遊歩道での散歩で、花が一杯咲いていました。春の雰囲気ですね。






























桜が満開です。今年は少し早いのかな?>























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湯浅町湯浅(重要伝統的建造物群保存地区)

2018-03-25 20:15:59 | 和歌山
2018年3月21日、和歌山観光での熊野の世界遺産巡りをし、湯浅町湯浅の町並みを散策しました。祭日なので、湯浅町役場は休みのため、JR湯浅駅により、観光案内Mapを入手して、観光用無料駐車場に向かいました。
湯浅町湯浅
『和歌山県の中部西岸に位置する湯浅町は、周りを海と山が取り囲む自然環境に恵まれた温暖で風光明美な地です。湯浅町は、熊野三山へと続く熊野古道の宿場町として栄え、熊野古道が唯一市街地を通る町としても知られています。交通上重要な位置にあった湯浅は、近世に入り次第に商業都市として発展を遂げます。その核をなしたのは、なんといっても醤油です。鎌倉時代、中国の宋で修行を積んだ僧が伝えた「金山寺味噌」から生まれたのが、現在の日本の醤油の始まりと言われており、紀州湯浅は「醤油発祥の地」として知られています。白壁の土蔵、格子戸や虫籠窓など、醤油醸造の伝統を感じる家並みが残る東西約400m、南北約280mの一帯は平成18年に文部科学省から「重要伝統的建造物保存地区」に選定されました。醤油醸造など商工業を中心に発展した町が今も地割を残し、近世から近代にかけての重厚な町並みが歴史的風致をよく残す貴重なものと認められたのです。』
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説明書







































大田久助吟製
「江戸末期から戦前までは醤油醸造業を営んでいました。現在は金山寺味噌の製造、販売を行っています。」























角長(かどちょう)
「天保12年(1841)創業の醤油醸造の老舗です。近くには慶応2年(1866)に建てられた職人蔵があり、館内に展示された道具はすべて醤油醸造に使われたもので、昔の醤油醸造の様子を体感することができます。また新しい土蔵づくりの醤油資料館では、醤油づくりのジオラマやパネルにより、醤油づくりがわかりやすく紹介されています。」

















湯浅醤油の起源と道具など



















紀州湯浅の天神飾り
『湯浅の天神飾りですが、いつ頃から飾られたかは、今のところ明確な史料は残っていません。ただ、寄贈された天神飾りの中に明治期の天神さんがありますので、明治には天神飾りの風習があったようです。幕末に越前(福井県)藩主の松平春嶽が、天神さんを祀ることを奨励し、北陸地方に広がり、、越中富山の薬売りが「手習いの神」として天神さんを祀ることを広げていったとも言われています。おそらくは、幕末から明治にかけて湯浅にも天神飾りの風習が伝わって来たと思われます。湯浅の天神人形のほとんどが、京都の「伏見人形」であり明治期から戦前にかけてのものが多く、一文人形と呼ばれる小ぶりの物であると推察されます。また、明治の天神飾りには社の後ろに製造印があり、大阪の島之内御池橋近辺の店から入手している事がわかります。』





















甚風呂
「幕末から昭和60年まで営業していた銭湯です。経営者の住居とともに保存、復元され、当時の生活を伝える資料館として公開されています。」




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廣八幡神社

2018-03-25 18:13:50 | 和歌山
2018年3月21日、前日より熊野本宮、熊野速玉神社、補陀洛山寺、那智の滝、那智熊野大社、青岸渡寺と世界遺産めぐりをし、湯快リゾート越之湯に宿泊して帰路につきます。
道の駅に寄り道しながらです。
道の駅「くしもと橋杭岩」
橋杭岩(史跡名勝天然記念物)
「第三紀層を貫通する一連の石英粗面岩々脈は海蝕の為め数多くの屹立する岩礁に分離し石柱を形成し、海上に併列するその橋杭の如きをもってこの名となった。岩脈は日本にその数多くと言えどもこのごとく海蝕の為め石柱となり海上に併列するものはいまだ他に其の例を見ない。」
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道の駅「すさみ」
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道の駅「志原海岸」
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道の駅「椿の湯」、土産物はあまり売っていなかった。日帰り浴場施設。
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道の駅「みなべうめ振興館」
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道の駅で、梅干し、八朔、ネーブルなど柑橘類を土産に買いました。
廣八幡神社
「この神社の創建年代等については不詳であるが、欽明天皇のころに創建されたと伝えられる。度々焼失しているが、江戸時代には和歌山藩主の帰依を得た。江戸時代末までは神仏習合により境内に多くの仏堂があったが、明治初年の神仏分離に伴い、三瀧寺などに移されている。」
和歌山県有田郡広川町上中野206
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鳥居

楼門(重要文化財)
「室町後期の文明7年(1475)建築、三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺。」





舞殿(和歌山県重要文化財)
「木造切妻造、杮葺。」

絵馬殿





天神社拝殿







拝殿(重要文化財)
「江戸中期の宝永元年(1704)建築、桁行二間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入、こけら葺。」

本殿(重要文化財)
「室町中期の応永20年頃(1413頃)建築、三間社流造、檜皮葺。」



四方唐破風御輿(広川町指定文化財)




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湯快リゾート 越之湯

2018-03-25 17:13:58 | 温泉、旅館、ホテル
2018年3月20日、和歌山の世界遺産めぐりの観光で利用しました。プラン名は1泊2食付バイキングプラン[和室]です。工事をしていましたので、お風呂にいくのに迷路のような感じでした。朝夕は男女入れ替え制です。露天風呂と内湯の場所が違いますので、建物の中をうろうろでした。お風呂は源泉かけ流しです。バイキング形式の食事で、ステーキ、天ぷらは実演調理で温かいものが食べれました。にぎり、刺身、中華風などで、生ビールで堪能しました。低料金で熊野の観光の立地がよくて、コストパフォーマンスはいいかも。
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町湯川1108
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室内、ふとんは到着時に敷いてありました。





窓からの景色



館内





無料の電動マッサージチェア

売店



まんが本コーナー



夕食





会場

朝食


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補陀洛山寺(世界遺産)、那智の滝(世界遺産)、熊野那智大社(世界遺産)、青岸渡寺(世界遺産)

2018-03-25 16:53:06 | 和歌山
2018年3月20日、和歌山観光で世界遺産めぐりです。熊野本宮大社、熊野速玉神社、そして補陀洛山寺、那智大滝、熊野那智大社、青岸渡寺にお参りしました。雨が降って残念でした。
補陀洛山寺
世界遺産の説明書
『那智大滝を下ること約6㎞、二本の参詣道が合流する海岸近くに位置し、青岸渡寺と同様に開基伝承を持つ寺院で、小舟に乗って南方洋上の観音浄土・補陀洛山を目指す僧侶により、9世紀から18世紀までの間に二十数回の「補陀洛渡海」が試みられた場所である。熊野那智大社の主祭神の本地仏である千手観音を本尊とし、また、古来熊野三所権現を祀る「浜の宮」と隣接するもので、神仏習合の信仰形態を示している。』
説明書より「宗派は比叡山延暦寺を総本山とする天台宗山門派。沿革は補陀洛渡海で全国に知られる当寺は、仁徳帝(313~399)の御代に印度より渡来の裸形上人により開かれたと伝えられ、那智本願の一寺として隆盛をきわめた。ご本尊の三貌十一面千手千眼観世音菩薩は、平安後期の作と伝えられ、御丈1メートル90センチの立像で、国の重要文化財の指定を受けている。補陀洛渡海は、那智の浜から生きたまま船に乗せ、観音の浄土、すなわち補陀洛山に往生しようとする宗教儀礼で、当寺から多くの行者が渡海した。江戸時代まで那智七本願の一角として大伽藍を有していたが、文化5年(1808年)の台風により主要な堂塔は全て滅失した。その後長らく仮本堂であったが、1990年に現在ある室町様式の高床式四方流宝形型の本堂が再建された。」

和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字浜の宮348
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本堂



熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)
「神仏習合の形態が今に残り、本殿のすぐ前で参拝ができる数少ない神社である。」





那智大滝(名勝)
2度目の訪問ですが、今回も雨でした。
滝の前の売店







那智大滝(史跡名勝天然記念物)
「那智山中に源を発する那智川の中流にあって、石英斑岩から成る断崖にかかる。落ち口の幅13メートル、ほとんど垂直の崖壁に沿って落下し、滝壺までの落差は133メートルである。熊野那智大社の神域にあり、飛滝大権現の神体としてあがめられている。国宝那智滝図、重要文化財一遍上人絵伝・熊野曼荼羅その他の宗教美術にみられるように、古くからわが国の文化との関係の深い名瀑である。周辺は天然記念物那智原始林に包まれ、また熊野灘からも直接これを望見できる。那智山中にはこの大滝をはじめとして48滝と呼ばれる大小多数の滝がある。次の称名滝に次ぐ巨瀑である。」

熊野那智大社(世界遺産)
『那智山の中腹、標高約500mの地点にあり、遠く太平洋上からも見ることができる那智大滝に対する原始の自然崇拝を祭祀の起源とする神社である。熊野三山の一つとして、主として熊野十二所権現を祀るほか、那智大滝を神格化した「飛瀧権現」を併せて祀っている。熊野那智大社社殿は、1853年に再建されたものである。しかし、1299年に描かれた絵画によると、谷を挟んで那智大滝を拝することができるように配置された形式はほとんど変わっていないことが明らかである。当初、神殿は信仰の起源をなした那智大滝の下にあり、古代に現社地に遷座して以来行われている「那智の火祭」は、滝を表す高さ6mの細長い神輿を大松明の炎で浄めるもので、和歌山県の無形民俗文化財に指定されている。』







工事中でした。





那智の樟(和歌山県指定文化財)



那智山青岸渡寺(せいがんとじ)本堂(重要文化財)
「桃山時代の天正18年(1590)建立、桁行九間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝一間、こけら葺。」
境内(世界遺産)
『青岸渡寺の創立は、5世紀前半にインドから熊野に漂着した僧が那智大滝で観音菩薩を感得したことに始まり、その後、784年まで宮都があった大和国から僧が来訪し、如意輪観音像を彫刻し本尊としたと伝えられる。熊野那智大社に隣接し、1868年の神仏分離令以前は、那智の「如意輪堂」として熊野那智大社と一体の寺院として発展してきたもので、神仏習合の形態を良く保っている。青岸渡寺本堂は、日本を武力統一した大名が1590年に再建した素木造の壮大な建築で、本尊・如意輪観音が出現したと伝えられる那智大滝を拝する向きに建てられている。この堂は、1161年に成立した「西国三十三ヵ所観音巡礼」(西国巡礼)の第一番霊場となっており、内部には多数の参詣者が礼拝するための広い空間が設けられている。西国巡礼は、観音菩薩が三十三の姿に変化して人々の願いを聞き届けることに因み、霊験あらたかとされる三十三の観音霊場を巡礼するもので、奥駈に引き続く修験道の修行の一環として行われたものである。民衆が西国巡礼に参加するようになる15世紀以後は青岸渡寺への巡礼者が増加し、17世紀以後になると全国から多くの巡礼者が訪れるようになった。』
仁王門









本堂









三重塔と那智の滝

宝篋印塔(重要文化財)
「鎌倉後期の元享2年(1322)築造、総高が4.3mの大型の石塔で、尼僧が願主となって造立した旨の銘文が刻まれており、美術的にも優れた石造構造物として貴重である。」

鐘楼

那智大黒天堂









阿弥陀堂

写経蔵

三重塔











宿坊尊勝院(和歌山県指定文化財・史跡)


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熊野速玉大社(世界遺産)

2018-03-25 16:48:38 | 和歌山
2018年3月20日、熊野本宮を後にして、次は熊野速玉大社に向かいます。
道の駅「熊野川」







熊野速玉大社
「創建年代は不詳です。熊野本宮大社、熊野那智大社とともに熊野三山を構成する大社で、神倉神社のゴトビキ岩に降臨した熊野権現を勧進するため、景行天皇の時代に社殿を造営したと伝えられています。熊野速玉大神は、伊邪那岐神とされています。」
世界遺産
『1951年再建の社殿が建ち並ぶ現在の熊野速玉大社の境内を中心とし、背後の山と、熊野川を約1㎞遡った所にある祭礼の場、「御船島」・「御旅所」を含む。熊野川の川岸に接した社地は、遅くとも12世紀以来の位置をそのまま踏襲していることが考古学的調査や文献史料、絵画等によって判明している。背後の「権現山」は、古代の神話に登場する「天磐楯」とみなされる断崖の多い山で、その中腹に、祭神が降臨した所とされる「神倉神社」があり、神体として信仰される巨岩(ゴトビキ岩)の周辺からは、3世紀の銅鐸をはじめ、12世紀を中心とする経塚が多数発見されている。また、この神倉神社で熾した神火を松明に移し山を駈け下る「熊野御燈祭」は原始信仰を受け継ぐ祭礼として、和歌山県の無形民俗文化財に指定されている。熊野速玉神社のナギは神門の南南東にある推定樹齢800年を誇る古木で、1159年の社殿再建の際に有力武士が寄進植樹したと伝えられ、神木として丁重に扱われている。』
和歌山県新宮市新宮1
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鳥居







八咫烏神社













武蔵坊弁慶
「弁慶の生涯について、歴史的には謎に包まれているが、熊野別当の関係者として、今日まで伝えられている。当地の伝承として、弁慶の出自は速玉大神に仕えた熊野三党の一つの鈴木一族とされ、源平の戦いに出陣したとなっている。又、その最後においては、源義経の叔父である新宮十郎行家とともに源頼朝から追討を受け、この地で討ち死にしたとも伝えられている。尚、弁慶に関係する史跡として、弁慶産家楠跡石碑と旧産屋敷の地(奥野々)に残されている鉄甲塚がある。」





狛犬



手水舎



社務所

熊野稲荷社

神門









拝殿





由緒書

熊野御幸























オガタマノキ(新宮市指定文化財)





折り畳み式家屋








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熊野本宮大社(世界遺産)

2018-03-25 16:40:13 | 和歌山
2018年3月20日、和歌山観光で熊野本宮大社にお参りしました。1泊2日の旅行です。
説明書より「当宮は熊野三山(本宮・新宮・那智)の首位を占め、全国に散在する熊野神社の総本宮で、熊野大権現として広く世に知られています。御主神は家津御子大神、すなわち素戔嗚尊と申し、樹木を支配される神であり、紀国(木ノ国)の語源もここから起こっております。大神は植林を御奨励になり、造船の技術を教えられて、外国との交通を開かれ、人民の幸福を図られるとともに、生命の育成発展を司られた霊神で、第十代祟神天皇の御代に熊野連が当地に社殿を造営して鎮祭したと伝えられています。奈良朝のころから修験の行者が頻繁にここに出入りして修行し、ますます神威が広まりました。延喜7年(約千年前)宇多法皇の御幸をはじめ約300年にわたり法皇・上皇・女院の御幸は百数十回に及びました。これが史上有名な熊野御幸であります。これと前後して当時の神仏習合によって、御主神を阿弥陀如来といって尊び、日本一といわれた霊験を仰ごうとする参詣者は全国各地から熊野の深山幽谷を埋め「蟻の熊野詣」とか「伊勢に七度熊野に三度どちらが欠けても片参り」などとうたわれるとともに全国に御分社を祭り、その数は現在五千数社を数えています。その後源平の争乱、承久の変、南北朝の戦乱と様々な変災の渦中にありながら人心の信仰はますます高まり、当宮の神威は熊野牛王(おからす様)の神符とともに全国に伝播して、明治時代に至りました。現在の社殿は享和2年、徳川家斉将軍の命によって紀州候治宝卿が音無里、現本宮町大斉原(指定文化財)に建立されましたが、明治22年の大出水にあって現在地に修造して遷座されたものであります。この社殿のつくり方を「熊野造」と申し上げます。なお旧社地は大斉原と呼び、石祠二殿を仮宮として、西方に中四社、下四社を、東方に元境内内摂末社を合祀してあります。」
世界遺産の説明書
『かつては「熊野坐神社」と呼ばれた神社で、周囲を山岳に囲まれた盆地を貫流する熊野川の中州に古代の創祀以来鎮座したが、1889年の熊野川の水害に罹災した後、流失を免れた主要社殿三棟を1891年に現在地に移築し、再建したものである。記録の上では859年に初めて現れ、10世紀後半には熊野速玉大社と熊野那智大社の主祭神を勧請、合祀して熊野三所権現として祀るようになった。また、11世紀にはさらに眷属神を加えて「熊野十二権現」の祭祀形態が成立し、信仰を集めた。熊野本宮大社社殿は、1801-07年すなわち水害以前の再建時の部材が大部分を占める。それらの建物の配列は、熊野那智大社・熊野速玉大社の主祭神を合祀する一棟、主祭神の一棟、若宮の一棟が、東西横一列に並ぶのが特徴で、11世紀の参詣者の日記や1299年に描かれた絵画によって確認できる伝統的な形態を保持している。熊野本宮大社旧社地大齋原は、現社地の東南約0.5㎞の熊野川の中州にあり、19世紀の切石積みの基壇が遺されている。また、その周囲の森林は、かつて塔や護摩堂といった仏教施設が置かれていたところで、神仏習合の遺跡としても貴重である。備崎経塚群は熊野本宮大社旧社地大齋原から熊野川を南に渡った対岸の備崎にあり、釈迦が入滅して五十六億七千万年後といわれる弥勒仏の出現を願って貴重な経典や仏像を地下に埋納した経塚の遺跡である。2001-02年の発掘調査によって約7haの範囲に数多くの経塚が分布することが確認された。19世紀には、1121年の刻銘のある日本最大の陶製外容器が出土している。また、付近一帯には高さ数mの岩石の露頭が点在し、自然の岩塊に神が降臨するとする古代の信仰の形態をも想定させる遺跡である。』
和歌山県田辺市本宮町本宮
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鳥居

参道



末社

祓戸大神

手水舎

旧本宮御社殿絵図



絵馬





宝物殿





少し小雨、授与所







拝殿













八咫ポスト



















説明書

神門









八咫烏の由来

本殿(重要文化財)
「第一殿・第二殿(西御前・中御前)、江戸後期の享和元~2年(1801~1802)建築、桁行五間、梁間四間、一重、入母屋造、向拝五間、檜皮葺。第三殿(証誠殿)建築年同じ。桁行三間、梁間正面一間、背面二間、一重、正面切妻造、背面入母屋造、妻入、向拝一間、檜皮葺。第四殿(若一王子)、江戸後期の文化7年(1810)建築、桁行三間、梁間正面一間、背面二間、一重、正面切妻造、背面入母屋造、妻入、向拝一間、檜皮葺。」






















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